吉川直樹 千鶴と榊商店
扉を開けて外に出る。榊商店の入り口で、千鶴がエプロンを手で払っていた。
「あ、先生。診察は終わりましたか?」
「ええ。転校生の健康診断でした」
「そうですか。あの子、梓ちゃんでしたっけ。可愛らしい方ですね」
千鶴の笑顔は穏やかだった。いつものように、心配そうでもあり、安心したようでもある、複雑な表情。
「千鶴さん」
「はい?」
吉川は言いかけて、やめた。何を言おうとしていたのか、自分でもよくわからなかった。
「いえ……いつも、ありがとうございます」
「何をおっしゃいます」
千鶴は困ったように首を振る。
「私の方こそ。先生がいらしてくださって……」
言葉を濁す。夫のことを思い出しているのだろう。あの人がいなくなってから、もう三か月になる。
吉川は千鶴の横顔を見つめた。まだ若い。本来なら、夫と一緒に店を切り盛りし、子供を育てて、普通の幸せな生活を送っているはずだった。
それが奪われたのは、村の何かによってなのか。それとも、単なる偶然だったのか。
診療所に戻り、カルテ棚の前に立つ。梓のカルテを新しく作らなければならない。名前を書き、生年月日を記入する。
手を動かしながら、そんなことを考えていると、千鶴が声をかけた。
「そういえば、梓ちゃん、今年はお祭りの主人公じゃありません?」
いわれてカルテに目を落とすと、確かに。
今年の夏祭りの舞台に上がる年齢だ。
「千鶴さん、カルテを盗み見しましたね?」
「……ごめんなさい、ちょっと目に入ってしまって」
小さく舌を出して微笑む千鶴。年齢よりもずっと可愛らしく見える。まぁ、年齢を見てしまうくらい、何の問題もないが。とはいえ問題は問題だ、吉川は千鶴に注意をすると、彼女はしおらしく謝ったのだった。
「しかし……夏祭りですか」
吉川は千鶴の言葉に、去年の一幕を思い出していた。
§ § §
去年の夏祭りの日、吉川は人混みの後ろから、村の中央広場に設えられた祭壇を見ていた。
さして多くはない、この村中に住民が集まってきている。
笛と太鼓の音が、風にのって漂う。
昼の暑さはもう引き、夕暮れの風が山を撫でている。
まるで舞台のような祭壇を見ると、村の子どもたちが広場へ向かっていた。
丁度大人と子供の中間、確かに十六や十七歳になると祭りの主役として儀式を務めることになるらしい五人の少年少女が、笑いながら手を振っている。
白い着物に赤い帯。足もとは草履。
みんな誇らしげで、照れくさそうで、それでも嬉しそうだった。
村人たちの顔も、今日ばかりは穏やかだった。
若い衆は提灯を持ち、女たちは花で飾った笹竹を立てる。
焚き火の煙と線香の香りが混じり合い、どこか懐かしい匂いがした。
その風景を、吉川は好もしく思う。
この村の古めかしさも、迷信めいた信仰も、
こうして笑い声に溶けているうちは、ただの“風習”に過ぎなかった。
祭壇には白布がかけられ、竹の杯が五つ並べられている。
その前に村長の清一が立ち、鈴を鳴らして祝詞をあげた。
「これより、成人の儀を執り行う。神の恵みに感謝し、清らかなる神酒をもって我らの子らを祝す」
静寂。
火の粉がゆっくりと夜空に昇る。
その中を、清音が一歩進み出た。
白い袖が、ほの暗い焚き火の赤をはね返している。
村の女たちが大きな酒杯を清一の前へ運んだ。
中には、どろりとした赤い液体が入っていた。
吉川は医師として、その色を見た瞬間、少し眉をひそめた。
だが、匂いは甘い。果実酒のようでもあり、薬酒のようでもある。
清一が酒杯を両手で掲げ、
「神の血」と称して口をつけた。
そのあと、子どもたちがひとりずつ前に進み出て、それぞれの杯を受け取った。
その仕草に、吉川は目を細めた。
見覚えのある娘だ。
彼女の中に、神だの巫女だのという言葉で測れない人間のあたたかさがある。
最後に少年が杯を受け取った。
月明かりに照らされた横顔は、
どこか覚悟を秘めているように見えた。
唇に触れる赤。
ひとくち飲み、静かに目を閉じた。
太鼓が鳴り、笛が重なり、夜が祭りに変わる。
女たちの唄が流れ、子どもたちが火の輪を囲んで踊る。
誰もが笑っていた。
神も、掟も、この瞬間だけは穏やかな祝福のように思えた。
§ § §
「ああ、そうですね、確かにそろそろ夏祭りの季節ですか」
「きっと梓ちゃん、白い着物良く似合うでしょうね」
微笑んで千鶴がいう。
だが、吉川の胸の奥にはなぜか重いものが沈んでいた。
梓の瞳に宿っていた硬いもの。あれは何だったのだろう。意志の強さか。それとも、何かへの恐れだったのか。
何かの目的があって、この村に来たのかも知れない。
書き終えた梓のカルテに目をやる。既に名前を書き、生年月日を記入してあったカルテに、今日の診察内容をまとめる。
「さて――」
この村に来て一年。
奇妙な掟や、若干の違和感はあるが平和な村だ。
この平和がずっと続けばいい。
夕暮れの診療所に、静寂が戻ってきた。
矢野梓。東京から来た少女。カルテを整理しながら吉川は、ふと過去に思いを馳せる。
彼まだ東京にいたあの頃に。




