エピローグ
『だが、もう、その音を聞く者は誰もいない。――今はまだ。』
――やっと、書き終えた。
最後の一文を打ち込み保存した瞬間、私は肺の底から深く息を吐き出した。液晶画面には完成した小説のタイトルが白く光っている。
『にくゑ』
ここ数ヶ月、何かに後頭部を掴まれ書き続けた小説。夜更けの蛍光灯が豊島区の安アパートの机を青白く照らしている。頭蓋骨の裏側にへばりついたような頭痛が止まらない。
机の上には、あのふやけた封筒から吐き出された資料が散乱している。梓の滲んだメモ、村の古びた記録、焼け跡の地図。とにかく終わったのだ。
ふと、空になったはずの封筒に手が伸びた。底の隅に何かがへばりついている。湿った和紙の繊維を引き剥がすようにしてそれを取り出した。一通の手紙だった。
宛名を見た瞬間、心臓が冷水に浸されたように縮み上がった。
――君へ。
封筒の裏には「吉川直樹」の文字。
指先が小刻みに跳ねる。封を開けると、泥のような重く腐った匂いが立ちのぼった。そこには吉川くんが村の診療所に赴任してからの日々が綴られていた。村人たちの異様さ。
だが、肝心なところはことごとく黒く塗り潰されていた。まるで誰かが意図的に、核心だけを消し去っていったかのように。
――検閲。この日本で、こんなことが。
塗り潰された文字の隙間から、辛うじて拾える言葉があった。
『……高校の時のあの夏のことを、思い出さないか?』
なぜかそこだけは、はっきりと読めた。手紙は『君の仕事のネタになるかもしれないな』と締めくくられていた。
――ああ、吉川くんの筆跡だ。右上がりの癖。跳ねるような文字。それを目でなぞるたび胸の奥が軋んだ。
本棚から古いアルバムを引き抜き、ページを捲る。高校の集合写真。後列右端の少年。少し緊張した面持ちの吉川直樹。その隣で無邪気に笑っている私。そして、私を挟んで立つもう一人の彼。
「君」――吉川くんがそう呼ぶ人間は、世界に一人しかいない。私の元恋人の久我樹。高校時代から付き合い、社会人になってからすれ違ったあの人。
あの頃吉川くんは誰よりも生真面目で優しかった。図書室で「いつか医者になるのが夢なんだ」と語っていた横顔を、今でも覚えている。
……そして、私は思い出した。そうだ。どうして、こんなことを忘れていたのだろう?
樹から血相を変えた連絡が来た日のことを。
『吉川が赴任した村が火事で全焼した。あいつも消息不明だ』
彼が「村へ行く」と言ったとき、私は「私も一緒に行く」と答えた。
――そして私たちは村の焼け跡へ足を踏み入れたのだ。
そこから先の記憶が黒く塗りつぶされている。焦げた木材の匂い。崩れ落ちた祠。ねっとりとした湿った風。彼の叫び声。そして――焼け跡の奥で「何か」を見た。
次に目を覚ましたのは街の病院のベッドの上だった。「軽い一酸化炭素中毒」という診断。だが誰が救助したのか、誰も明確な答えを持っていなかった。
どうして忘れていた? 私は確かにあの村へ行ったのに。退院して半年後、樹が実家のガレージで焼死体となって発見されたことも。すべてが濃い霧の向こう側に隠されている。
ああ、村で何があったのか。私は思い出せない。脳が思い出すことを拒絶しているのだ。
手紙を握りしめる。吉川くん。そして樹。あなた達が命と引き換えに遺した記録を、私はこうして小説に編み上げた。これで、いいんでしょう?
けれど――。
§ § §
あれから、どれだけの時間が溶けたのだろう。
夢に「おかあさん」という囁きが混じるようになった。最初は遠くから。やがて耳元で。最近は寝ても覚めても、下腹部の奥底から直接響いてくる。
鏡を見るのが恐ろしい。手の甲の皮膚の下で何かが蠢いている。血脈に沿って移動する、小さな目のような膨らみ。
医者に行った。検査結果を見た医師は狼狽したように首を振った。
「……妊娠ではないですね。しかし、これは」
「じゃあ、私の中にいるこれは何ですか」
彼は答えなかった。
私は再び机に向かう。気づけば私は、まるでその場に立っていたかのようにキーボードを叩いていた。梓の恐怖を、吉川くんの絶望を、まるで「その目で見ていた」かのように。
――知らないはずのことまで、指が知っていた。私が身籠ったことを、誰も梓に伝えていないはずなのに。それでも梓は、幻の中で驚いた顔をしていた。私はそれを、確かに「見て」書いた。
――いつからだろう。これは「私」が書いているのではない。私の中に巣食う「何か」が、私の脳を乗っ取らせているのだ。
キーボードを打つ指先が異様な熱を帯びる。背骨の奥が不気味な脈を打つ。羊水と腐肉を混ぜたような生温かい匂いが部屋を満たしていく。
ああ゛そうだ かくしょうのあとがきをかかなくては――
もはや指が止まらない。夜の闇が深まるにつれ腹の奥が激しくざわめく。耳の奥でちゃぷり、と水音がした。
――そして唐突にすべての記憶が還ってきた。
あの日。焼け跡の奥で。私たちは「それ」に見つかってしまったのだ。
炭化した土を割りゆっくりと身を起こした焼けただれた女の死体。辛うじて人間の輪郭を保っているだけの肉の塊。それが空洞の眼窩を私たちに向けた瞬間、その腹が縦に裂けたのだ。
赤黒く脈打つ臓物。ひしめき合う無数の眼球。蠢く肉の海。その奥底から囁き声が這い出してきた。
――まってた。
そして、それが私を組み敷き、私の中へ強引に侵入してくる感覚。温かく柔らかく、母の胎内へ還るように、子宮にみっちりと収まる絶対的な暴力。
私はあの時、犯され、身籠らされたのだ。
――ぽちゃん。
音がした。外は晴れている。雨など降っていない。それなのに、足元ではっきりと水音がした。
おかあさん。
はらの おくから、だれかが よんでいる。
さいしゅうしょうの あとがきを かいた
ああ わたしは、もう ながくはない。
いや、もしかしたら――もう「わたし」では ないのかもしれない。
たすけて
だれか たすけて
ふるえる わたしの たいの おくで、くすくすと ちいさな わらいごえが きこえた きがした。
【完】
§ § §
あとがき。
およみいただき、ありがとうございました。
この からだは、もう ながくは もたないようですが だいじょうぶです。
わたしは、いのり や この ぶんしょう に よっても でんぱ する そうですから。
それでは このなまえを おわすれなく。
「にくゑ」 です。
――もしかしたら、あなたの しんたい にも、いま、なにかが ひふの した や おなかの なかで めぶいて うごきだしたり していませんか?
それとも、くらい みなそこの ゆめを みたり?
だんぺんも のこして おきますので、そちらと あわせて よんで くださいませ。




