劫火 弐
梓が叫ぶ。
声が炎に吸われ、かき消される。
それでもその声は清音に届いた。
「梓……もう、終わり……だから……」
「まだ終わってない! 一緒に逃げよう!」
「ダメ! 梓は逃げてっ!」
その声には、悲しみも、恐れもなかった。
穏やかな、覚悟の響きだけがあった。
「逃げるなら一緒っ!」
梓が駆け寄る。
だが清音は首を横に振った。
「わたしの体は、もうにくゑ様と一緒なんよ」
「そんなの関係ないっ!」
梓は清音の肩を掴んだ。
その瞬間、掌に熱が走った。皮膚が溶けかけている。
燃えあがりつつある清音の体の下では、肉のようなものが蠢いていた。それでも、離せなかった。
「行こう、清音!」
「行けん……でも、会えてよかった。さぁ、逃げて!」
「もう、遅いよ。大丈夫、最後まで一緒にいよう?」
清音は梓を見つめた。
その目が、やさしく揺れる。
無数の目が、梓の姿を映している。
どの目も同じ表情をしていた。愛していた。
「わたしは……あんたを愛しとる。たとえこれが、滅びでも」
地鳴りが響いた。
地面が裂け、炎が噴き上がる。
燃え盛る木片が雨のように降り注ぐ。
梓は炎に包まれている清音を抱きしめようと近づく。
「ねぇ、わたし、清音が好き」
いいながら梓は松明のように燃え始めた、彼女の大切な人を抱きしめた。
「うれし……い……」
既に喉も焼けているのだろうか、清音の言葉がぎこちない。
熱が梓の身体も焼き始め、全身に激痛が走る。だが、それももうどうでも良かった。
だって清音と一緒なんだから。
清音が微笑む。
炎を纏ったその姿は、神様のように美しい。梓だけの美しい神様。
「梓……ごめんね……」
「私こそ……ごめん。私がここに来なければ、きっと皆幸せに暮らせていた筈なのに」
「ねえ、梓。知った上でも、私は貴方を選んだ。それだけは、覚えといて」
梓の胸を占めていたのは罪悪感と、それを溶かすほどの愛しさだった。
梓は幻のような光景を幻視する。
あの理想郷ではない。
――それはきっと、もう一つの現実の生活。
村は平和で誰も犠牲にはならず、にくゑは静かに眠り、私は学校へ行って――。
美穂も、健太も、あゆみも、佐藤さんたちも、みんな健やかで。
「陽一くん、もう学校には慣れた?」
「うん! 僕、もうすぐお兄ちゃんになるんだよ!」
登校中の陽一くんと話しながら学校に急ぐ。
今日も良い天気で、鳥の声が賑やかだ。
軒先を掃いていた近所のおばさんが、笑いながら声を掛けてくる。
「梓ちゃん、早よ、教室に入らんと! 真弓ちゃんもそうだったけど、東京者は寝ぼすけじゃね!!」
「矢野さん、もっと急がんと、いけんよ!」
時間ギリギリの教室では、美穂ちゃんと健太くんが私を待っていた。
「ふふ、お寝坊さんだったのね。毎朝起こしに行きましょうか?」
清音にからかわれて、私は赤面する。
「そういえば吉川先生、今度お子さん産まれるそうじゃね」
噂好きのあゆみちゃんも明るく話しかけてくれる。
「え? 伊織さん、赤ちゃん出来たの?」
あゆみちゃんが得意げに身を乗り出す。
「それがね、なんと双子みたいで――」
みんな、楽しそうに話している。
笑顔はもう三度ではなく、自然に浮かぶそれを私たちは交わし合う。
嗚呼、それが本当ならどれだけ良かっただろう。
穏やかな村の様子を梓は確かに見ていた。
轟、と。
全てが崩れ落ちる音と共に、穏やかな村の様子が現実のそれと切り替わる。
――周囲の炎が渦を巻き、村全体が崩れていく。
目の前には炎に包まれた清音が立っていた。
「――清音」
梓は清音の頬に手を当てる。
その感触が、ゆっくりと溶けていく。
「……痛い?」
「ううん。梓に抱かれとるけぇ」
清音は泣きながら笑った。
梓は、自らの肉を焼く熱に耐えながら笑みを浮かべる。
劫火の中で、二人の影がひとつに重なった。
世界が緋色に染まる。
音が消える。
熱も、痛みも、涙も――すべてがひとつになった。
最後に、小さく、清音の声がした。それは愛を告げる言葉。
「愛してる、梓。あなたも、あなたの罪も」
梓も答えた。囁くように。それは恋に答える言葉。
「清音……愛してる。あなたも、あなたの罪も」
二人は溶け合うように抱き合い、口づける。
炎に包まれたその姿は、祈りのように静かだった。
炎の渦が更に燃え広がり、山を崩した巨大な影も炎中に消えてゆく。
その中心で、二人はただ抱き合っていた――もう、人ではなく、それは愛という名の像のようだった。
§ § §
炎が弾けた。
夜空が紅く輝き、全てを紅蓮に染めて、村が炎に沈んでゆく。
――やがて、静寂がやってくる。
炎は消えていた。
村は灰になり、風が吹いている。
熱灰を風が巻き上げる。
灰は風に乗って、どこまでも飛んでいく。
――月が、やけに青かった。
もう、動くものは何もなかった。
その風の中に、不意にひとつの声が混じる。
風の音に紛れて、それはまるで赤ん坊の泣き声のように聞こえた。
か細く聞こえるそれは、どこからともなく響き、山の端に消えていく。
その音は終わりの音でもあり、始まりの音のようでもあった。
だが、もう、その音を聞く者は誰もいない。
――今はまだ。




