劫火 壱
吉川は、炎の中で足を進める。
呼吸をするたび、肺が焼ける。
血の味が喉に広がる。
それでも、歩いた。
俊夫に裂かれた時から、彼の体はすでに限界だった。
脇腹の傷口は開き、握る鉈の柄も血で滑っている。
それでも、救うべき人の名を心の中で呼びながら、燃え続ける村の中を広場に向かって進んでいた。
群体と化した肉の波がうねり、その中心で、清音と梓が抱き合っていた。
二人の身体が、赤く光る肉の触手に取り込まれかけている。
吉川はよろけながらも、その中へ飛び込んだ。
熱が皮膚を焦がし、息を吸うたびに肺が焼ける。
それでも――彼は足を止めなかった。
「……梓さんから離れろッ!」
その声は震えていたが、確かな意志を持っていた。
梓がうっすらと目を開ける。涙で濡れた瞳が、吉川の姿を捉えた。
「二人から、その手を離せッ!」
吉川は叫んだ。
鉈を振り上げる。
骨のきしむ痛みを無視して、一閃。
刃が肉を裂いた。
黒い液体が噴き上がり、焼けた鉄の匂いがあたりを満たす。
もう一度。二度。三度。
振り抜くたびに、視界が赤く染まっていく。
触手が千切れ、清音の体が梓の上に崩れ落ちた。
――まだ息がある。しかしにくゑの触手は、二人を捕らえて放そうとしなかった。
「……先生……」
「先生……もういいんです!」
「よくない!」
炎が唸りを上げた。
吉川は、歯を食いしばりながら鉈を振るい、再び彼女たちを覆いはじめた肉の束を切り裂いた。
刃はすぐに鈍り、腕から血が流れた。
それでも、あと一度、もう一度と、肉を裂く音が、悲鳴のように響いた。
「医者なのに……私は……人を殺し……それでも……救いたいんだ……!!」
叫びとともに一撃を放つ。
鉈の刃が肉を割き、清音と梓の体が束の中から解き放たれる。
その瞬間、にくゑ全体が悲鳴をあげた。
燃え上がる光の奔流が村を呑み込み、大地が再び震えた。
清音が振り向き、涙を浮かべて微笑んだ。
梓は、崩れ落ちようとしている吉川に言葉を投げかけた。
「ありがとう、先生……もう、充分です。先生だけでも、逃げてください」
吉川はその声を聞きながら、ゆっくりとその場に膝をついた。
鉈が手から滑り落ちる。
「……君たちを置いて……行けるわけは……ないだろう?」
その言葉は、炎の轟きに溶けた。
吉川は鉈に体を預けた。炎の光が、瞳の奥でちらつく。
「……二人で……行きなさい……」
吉川の声が震えた。
「私は……やっと……医者として……誰かを……救えた……気がする……」
「ありがとう……先生……」
梓の涙が頬を伝う。清音の手を握り締めた。
その言葉を聞くと、吉川の身体は静かに崩れた。炎が彼を包み、光の粉となって舞い上がる。
血の滴が地面を打ち、炎の中で蒸発する。
風が吹いた。燃え残った竹杖の鈴が、かすかに鳴った。
梓は傍らにしゃがみこんでいる清音に目をやる。
――もう、にくゑの声は聞こえなかった。
ただ、炎の音だけが夜を満たしてゆく。
燃えていた。
村が。家々が。山が。空さえも。
劫火は夜を喰らい、風を巻き込み、爆ぜるように唸っていた。
赤い光の中で、黒い影が蠢いている。
和紙のように燃え上がる村人たちの群体。
笑顔のまま、互いの体に溶け込みながら、ゆっくりと炎へ沈んでいく。
――そうだ。
梓は懐のメモに気がつく。
最後に記録だけは残しておこう。
舞い散る火の粉、吹き上がる炎がメモを焦がす。
だが、梓はそのメモにこの光景を書き出した。
今までの出来事を記したこのメモが――誰かに届くといいな。
私たちに、この村に何があったのか、知って貰えると、いいな。
そんなことを思いながら、足下の石の下にメモを押し込める。
――熱風が梓の頬を叩いた。
喉が焼け、息が詰まる。
遠くで、あゆみの笑い声がした気がした。
笑っていた。幸せそうに。
炎に包まれながらも、まるで夢の続きを見ているようだった。
気がつくと、清音が立ちあがっていた。
全身に無数の目を宿しながらも、その顔は人のままだった。
涙を流していた。だが、その涙も、途中で蒸発して消えた。
不意に、その身体が紅蓮に包まれる。
「清音!」




