理想郷 肆
この村を、理想郷を私は壊そうとしているのかも知れない……と梓の心に暗い影が差す。だが清音の手の温もりが、それを押し返した。
「……でも、この村の人々は、生きていると言えるの?」
梓の問いに、初代が微笑んで答えた。
『ええ、生きています。永遠に。時間は流れず、老いもせず、痛みもない。命が穏やかに混ざり合って、まるで水のように循環しているのです』
「循環……?」
『そう。あなたも、もう流れの中にいます。あなたが望めば、清音と永遠に一緒にいられる。愛も別れも、ひとつに溶け合って消えてゆく。――それが幸福なのですよ』
梓は目を伏せた。
その言葉は、あまりに優しかった。
でも、優しすぎて、どこかに冷たさがあった。
やがて梓は小さく首を振る。
「……幸福が終わらないなんて、そんなの、おかしい。不幸がないと幸福もない」
初代が穏やかに微笑んだ。
『人は、孤独を生きる運命にあります。誰も誰かのことを、完全には理解できない。皆、一人なのです。それがどれほどの苦痛を生むか。あなたも知っているでしょう?』
「……」
梓は追想し、口をつぐむ。孤独の痛み、辛さ。わかってもらえない悲しみ。それは彼女の人生で常に足下に巣くう影のような痛みだった。
『この理想郷なら、もう孤独はない。苦しみもない。誰もが誰かの心を区別することなく、ひとつになるのです』
「でも――」
清音が顔を上げた。
瞳の奥に涙が溜まっていた。
「それは確かに……孤独は辛いかも知れない。苦しかったかも知れない。でも、だから私は梓に会えた! 孤独な私だから、孤独な梓に出会えた! それは幸せなことでっ!」
初代は静かに首をかしげた。
『幸せは続けられるものです。終わりを拒めば、永遠になる。あなたの愛を、永遠に守りましょう。あなたも、梓も、この村も、みんな一緒に。もう二度と、誰も失わない』
その言葉に、清音の心が揺れたのがわかった。
梓の指が、少しだけ強く清音の手を握る。
『全てはひとつに。憎しみも妬みも、裏切りもない理想郷。あなたたちも一つになりましょう』
「私は……嫌……」
顔を上げた梓は、初代の目をまっすぐに見つめ、ポツリと呟いた。
その言葉には、何の迷いもなかった。
『何故です?』
――机に書かれた《どろぼうねこ》の文字が、脳裏をよぎる。何も盗っていないのに、全部を奪われた。友達も、居場所も。
「盗ってもいないのに、盗ったと言われて、私は全部失った。だから今度こそ、ちゃんと盗る。この感情は。この想いは。この愛情は、私だけのもの! 誰にも共有できないし、して欲しくないっ!」
『平穏な一つの心になるのは嫌だと?』
「清音を愛するこの気持ちを誰かと共有するなんて……考えられないっ!」
初代清音は静かに首を振る。
『ここにいれば、誰も孤独にはならないのに』
「だから、怖いの」
梓が言う。自らの想いを確かめるように。
「孤独がない世界なんて、きっと愛もない。清音を独占できない世界なんて意味がないっ!」
清音が微笑んだ。
「梓は、ほんとにわがままだったのね」
「そうよ、わがままなの」
笑みを含んだ清音の言葉に、梓は声を震わせ答えた。
「私は、あなたを独り占めしたい。誰のものでもなく、誰とも混ざらない、あなたとだけ一緒にいたい」
清音の頬を、ひとすじの涙が伝った。
「ええ……エゴでもいい。私も梓と、出会えたから」
初代の微笑みが、ゆっくりと悲しみに変わっていく。
空がかすかに揺れ、花びらが止まった。
世界が静かに軋んでいた。
硝子のように透き通った空が、ところどころひび割れ、光の粉を落としている。
理想郷の村はまだ穏やかに笑っていた。
子どもたちの笑い声、風に混じる太鼓の音。
それらが、遠い記憶のようにぼやけてゆく。
初代が静かに口を開く。
『現実の世界で、誰かがこの世界に火をかけました。このままではにくゑ様は暴走し、この世界は崩壊してしまいます』
清音は俯き、梓の手を握りしめた。
その瞳は涙に濡れ、しかしどこか遠くを見ていた。
『強い力を持つ今代の清音、禁忌の血を持つ梓。貴方たちが来てくれれば、力を貸してくれればこの世界を維持できる』
初代の姿が、光の粒に崩れ始める。
『ここが崩壊すれば、現実の世界にも大きな被害が及びます。私たちはそれを食い止めるために――』
「……世界なんて、どうでもいい」
ポツリと梓が言う。
「世界が終わっても、わたしたちの想いは確かにここにあった! 私はそれがわかっただけで、もういいの!」
その声とともに、光景が砕けた。
理想郷の空がひび割れ、赤い光が差し込んでくる。
現実の炎の色と、幻の光が溶け合ってゆく。
§ § §
透明だった空が裂け、村の人々の姿が光と共にほどけていく。
あゆみも、清一も村の人々も、みんな笑いさざめきながら消えてゆく。
――世界が歪む。
理想郷の空がひび割れ、海のような光が押し寄せてくる。
崩壊していく“にくゑ”の内部が、二人を飲み込もうとしていた。
地平の向こうから、黒い影が迫る。
それは空でも地でもなく、世界そのものの意思だった。
神が、二人を取り込もうとしている。
梓は清音を抱きしめた。
「離さない……たとえ世界がなくなっても」
「うん」
清音の声は震えていた。
世界がひび割れ、その中から、肉色に光る触手が伸び、梓の腕に絡みつく。
冷たく、粘ついた感触。
まるで意識そのものが溶かされていくようだった。
梓の血がそれを拒もうとする。だが、飲んだ神酒のせいか、血の力が弱い。そしてにくゑの執着は圧倒的だった。
二人を飲み込もうと、二人とひとつになろうと、にくゑの意思がその手を伸ばしてくる。
「あ、ああ、来ないでっ!」
徐々に浸食されてゆく自我。耐えきれず梓は悲鳴を上げた。
――その瞬間。
耳の奥で、現実の音が割り込んだ。
炎の爆ぜる音。風の唸り。
そして――金属が肉を裂く音。
そして、世界が、断ち切られた。




