理想郷 参
――曇天の空に、死んだ土の匂いが、鼻を刺した。
梓の足もとに、割れた畦道。
乾ききった田が広がっていた。水はない。風も吹かない。
空気は凍るように冷たい。
村は死んでいた。
藁葺きの屋根が沈み、家々の戸は外れたまま。
道端には、骨と皮ばかりになった牛が横たわっている。
その腹を裂いて、子どもが手を突っ込んでいた。
血はもう流れない。ただ黒い塊を掴んで、口に運ぶ。
『あの年、米が実りませんでした』
声が聞こえた。初代の清音の声だった。
『風も雨も来ませんでした。天が、わたしたちを見放したのです』
梓の目の前を、一人の女がよろめきながら通る。
腰に赤子を背負っている。だが赤子はもう泣かない。
女は土に膝をつき、地面を掘る。
爪が割れて血が滲んでも、掘るのをやめない。
掘り返したのは、芋でも根でもなく――
腐った人の腕だった。
女はそれを抱きかかえるようにして、かじった。
口の端から泥と血が混じって流れる。
『わたしたちは、生きるために何でもした』
初代の声が続く。
『夜になると、子の声が消える。朝になると、母の影がなくなっていた。土を食う者もいた。やがて私たちは、飢えて死んだ人にすら――。それでも腹は満たされなかった』
焚き火の明かりに照らされ、村人たちが集まっていた。
骨のような手が伸びる。
彼らの目は焦点を失い、ただ「食う」ことだけを覚えている。
『誰もが飢え、ただただ滅びを待つばかりだった。夜の空から“それ”が落ちて来るまでは――』
初代の声がかすかに震えた。
そして星が落ちる。
山の向こうに。
昨日までなかった巨大な洞に入り込んだ彼女が見たのは、雪崩のように押し寄せる、肉の塊。
赤黒く、脈打ち、光を放っている。
彼女はそれを見つめる。
恐怖よりも先に、涎が落ちた。
「ああ、神様……ありがとうございます……」
無意識に言葉が漏れる。
同時に手が伸び、掴んだ。
それを口に持って行く。どれだけぶりだろう、彼女はその肉に齧りついた。
ああ――柔らかい。温かい。
喉を通るたびに、血がめぐるような感覚。
飢えを満たした彼女は、肉を村に持ち帰り、洞窟のことを皆に告げる。
生き残っていた村人は、全員洞窟にやってきた。
その肉を前にして、咳き込みながらも、誰もが群がる。
子どもが、女が、老人が、肉を奪い合う。
『わたしたちは救われた。体が軽くなり、飢えが消えた。でも、その晩から……みんな、夢を見るようになりました』
梓の目の前で、村人たちが眠っている。
笑っていた。
夢の中で誰かと話し、誰かを抱いている。
しかしその体の下から、何かが芽吹いていた。
皮膚の下で、眼球が動く。
掌が、口のように開く。
やがて全員の声がひとつになり、空に響いた。
『あの時、わたしたちは“救われた”と思ったの。でも、それは始まりだった』
光景が滲むように変わる。
笑っていた村人たちの体から、目が芽吹く。
耳の裏、掌、舌の奥。
互いの思考が混ざり合い、声がひとつに溶けていく。
気がつくと、村人のほぼ半数は人の姿を失っていた。
『にくゑ――それは、世界そのものを喰らい、ひとつに溶かそうとする“融合”の神。愛も、祈りも、個のままではいられなくなる神』
風景が赤く染まり、無数の手が空をつかもうと伸びた。
『わたしは、その中でまだ“わたし”を保っていた。だから、にくゑの内側に“村”を創った。人々の心が安らげるように。にくゑ様が暴走しないように』
映像の中で、初代が祠の前にひざまずいている。
背後には、初代が引き連れてきた、群体となった村人たちの影。
人の姿を保っていた者たちは、虚木の者を中心に、村の立て直しと信仰を託された。
群体となった彼らは笑っていた。
しかしその笑顔は、もはや人ではなかった。
『わたしは外に“封印”を、内に“理想郷”をつくった。どちらもにくゑ様を鎮めるための器……』
初代清音が、広場の方を指した。
その指先から淡い光が広がり、村の風景を包み込む。
男たちは畑を耕し、女たちは子を抱き、老人は穏やかな日差しの中で将棋を指している。
子供たちは川辺で石を投げ、魚を追いかけて笑っていた。
その光景には、争いも怒号もなかった。
誰も誰かを傷つけない。
どの声も笑っていて、どの瞳も安らいでいた。
『これが、わたしたちが求めた世界。誰も飢えず、誰も泣かず、誰も失われない。全ての心は繋がり、通じ合っている』
初代清音の声は静かだった。
その穏やかな響きは、風と一緒に梓の心に染み込んでいく。
光が強くなった。
村の空がゆっくりと金色に染まり、風に花びらが舞う。
梓は息をのんだ。
胸があたたかく、そして切なかった。
『死はなくなりました。悲しみも、争いも。人は、ただ人として笑って生きられるようになったのです。それが“にくゑ”――すべてを結ぶもの』
初代清音がこちらに目をやる。
梓は何も言えなかった。
その声には、慈悲しかなかった。
悪意も、支配の意図もなかった。
ただ、心からの優しさで語られていた。




