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にくゑ【ある世界が終焉を迎えるまでの道程。そして――】終焉の探偵  作者: カクナノゾム
第一部 にくゑ

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138/208

理想郷 参

 ――曇天の空に、死んだ土の匂いが、鼻を刺した。

 梓の足もとに、割れた畦道。

 乾ききった田が広がっていた。水はない。風も吹かない。

 空気は凍るように冷たい。


 村は死んでいた。


 藁葺きの屋根が沈み、家々の戸は外れたまま。

 道端には、骨と皮ばかりになった牛が横たわっている。

 その腹を裂いて、子どもが手を突っ込んでいた。

 血はもう流れない。ただ黒い塊を掴んで、口に運ぶ。


『あの年、米が実りませんでした』


 声が聞こえた。初代の清音の声だった。


『風も雨も来ませんでした。天が、わたしたちを見放したのです』


 梓の目の前を、一人の女がよろめきながら通る。

 腰に赤子を背負っている。だが赤子はもう泣かない。

 女は土に膝をつき、地面を掘る。

 爪が割れて血が滲んでも、掘るのをやめない。

 掘り返したのは、芋でも根でもなく――

 腐った人の腕だった。


 女はそれを抱きかかえるようにして、かじった。

 口の端から泥と血が混じって流れる。


『わたしたちは、生きるために何でもした』


 初代の声が続く。


『夜になると、子の声が消える。朝になると、母の影がなくなっていた。土を食う者もいた。やがて私たちは、飢えて死んだ人にすら――。それでも腹は満たされなかった』


 焚き火の明かりに照らされ、村人たちが集まっていた。

 骨のような手が伸びる。

 彼らの目は焦点を失い、ただ「食う」ことだけを覚えている。


『誰もが飢え、ただただ滅びを待つばかりだった。夜の空から“それ”が落ちて来るまでは――』


 初代の声がかすかに震えた。

 そして星が落ちる。

 山の向こうに。


 昨日までなかった巨大な洞に入り込んだ彼女が見たのは、雪崩のように押し寄せる、肉の塊。

 赤黒く、脈打ち、光を放っている。

 彼女はそれを見つめる。

 恐怖よりも先に、涎が落ちた。


「ああ、神様……ありがとうございます……」


 無意識に言葉が漏れる。

 同時に手が伸び、掴んだ。

 それを口に持って行く。どれだけぶりだろう、彼女はその肉に齧りついた。


 ああ――柔らかい。温かい。

 喉を通るたびに、血がめぐるような感覚。

 飢えを満たした彼女は、肉を村に持ち帰り、洞窟のことを皆に告げる。


 生き残っていた村人は、全員洞窟にやってきた。

 その肉を前にして、咳き込みながらも、誰もが群がる。

 子どもが、女が、老人が、肉を奪い合う。


『わたしたちは救われた。体が軽くなり、飢えが消えた。でも、その晩から……みんな、夢を見るようになりました』


 梓の目の前で、村人たちが眠っている。

 笑っていた。

 夢の中で誰かと話し、誰かを抱いている。

 しかしその体の下から、何かが芽吹いていた。


 皮膚の下で、眼球が動く。

 掌が、口のように開く。

 やがて全員の声がひとつになり、空に響いた。


『あの時、わたしたちは“救われた”と思ったの。でも、それは始まりだった』


 光景が滲むように変わる。

 笑っていた村人たちの体から、目が芽吹く。

 耳の裏、掌、舌の奥。

 互いの思考が混ざり合い、声がひとつに溶けていく。

 気がつくと、村人のほぼ半数は人の姿を失っていた。


『にくゑ――それは、世界そのものを喰らい、ひとつに溶かそうとする“融合”の神。愛も、祈りも、個のままではいられなくなる神』


 風景が赤く染まり、無数の手が空をつかもうと伸びた。


『わたしは、その中でまだ“わたし”を保っていた。だから、にくゑの内側に“村”を創った。人々の心が安らげるように。にくゑ様が暴走しないように』


 映像の中で、初代が祠の前にひざまずいている。

 背後には、初代が引き連れてきた、群体となった村人たちの影。

 人の姿を保っていた者たちは、虚木の者を中心に、村の立て直しと信仰を託された。


 群体となった彼らは笑っていた。

 しかしその笑顔は、もはや人ではなかった。


『わたしは外に“封印”を、内に“理想郷”をつくった。どちらもにくゑ様を鎮めるための器……』


 初代清音が、広場の方を指した。

 その指先から淡い光が広がり、村の風景を包み込む。


 男たちは畑を耕し、女たちは子を抱き、老人は穏やかな日差しの中で将棋を指している。

 子供たちは川辺で石を投げ、魚を追いかけて笑っていた。


 その光景には、争いも怒号もなかった。

 誰も誰かを傷つけない。

 どの声も笑っていて、どの瞳も安らいでいた。


『これが、わたしたちが求めた世界。誰も飢えず、誰も泣かず、誰も失われない。全ての心は繋がり、通じ合っている』


 初代清音の声は静かだった。

 その穏やかな響きは、風と一緒に梓の心に染み込んでいく。


 光が強くなった。

 村の空がゆっくりと金色に染まり、風に花びらが舞う。

 梓は息をのんだ。

 胸があたたかく、そして切なかった。


『死はなくなりました。悲しみも、争いも。人は、ただ人として笑って生きられるようになったのです。それが“にくゑ”――すべてを結ぶもの』


 初代清音がこちらに目をやる。

 梓は何も言えなかった。

 その声には、慈悲しかなかった。

 悪意も、支配の意図もなかった。

 ただ、心からの優しさで語られていた。

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