理想郷 弐
すべてが、満ち足りていた。
この世界には、もう涙も争いも存在しない。
誰もが笑い、互いの幸福を願っている。
梓は思った。
――これが、本当の「救い」なのかもしれない。
「ここが……にくゑの中の世界?」
梓が呟いたその時だった。
空気の奥から、もう一つの声がした。
『――そう、これはずっとにくゑ様を御してきた私たちに与えられる救い』
やわらかく、透明な声だった。
どこからともなく響いてくる。
風が止み、村全体が静寂に包まれる。
『今代の清音、そして禁忌の娘。ここが貴方たちの救いです』
清音が顔を上げた。
梓も振り返る。
村の中央、祭壇の上に、白い光が降りていた。
その光の中に、ひとりの女が立っていた。
白い巫女衣。長い黒髪。
清音によく似ていた。けれど年の差を感じさせる。
穏やかな微笑みを浮かべたその顔には、永い年月を超えた静けさがあった。
『おかえりなさい、二人とも。ここには全てがあります。過去になくなった村の人たちも今まさに亡くなりつつある人たちも、永遠にここで暮すことが出来る』
その声は、無数の囁きが重なったように柔らかく響いた。
清音が息をのむ。
「……あなたは?」
女は微笑み、ゆっくりと階段を下りた。
足音がしない。
まるで地面が彼女を歓迎しているかのように、花が咲いてゆく。
『わたしは――清音』
その声には聞き覚えがあった。かつて洞窟で、にくゑと繋がった時に語りかけてきた声だ。
『初代の清音。はじまりの名を持つもの』
初代、と名乗ったその女は、清音に向かって微笑みかける。
『最初ににくゑ様と結ばれ、この村に永遠に封じた巫女』
清音の唇が震えた。
梓の胸にも、冷たいものが広がる。
「この村に封じた?」
『にくゑ様は、飢えた私たちに与えられた神。でもこの神様は、全てを覆い尽くす神でもあったの』
彼女の唇が動くと、同時に梓の脳裏に映像が流れ込んでくる。
それはきっと、かつて実際にあった光景。




