理想郷 壱
――目を開けると、光があった。
柔らかい風が、髪を撫でていく。
耳の奥で小川のせせらぎがきこえ、遠くで誰かの笑い声が弾んでいた。
梓は、ゆっくりと身を起こした。
そこは、いつもの村の光景だった。
けれど違っていた。
(あ、目を覚ましたっ!)
身体を起こした梓に、小さな子供達が駆け寄ってくる。
(心配してたんよ! ずっと寝てたから!)
(いつ目を覚ますか、みな待ってたんよ)
笑みを、普通の笑みを浮かべながら子供達が話しかけてくる。
話しかける? いや違う。その言葉は心の中に直接響いてくるようだった。
「――ここは?」
空はどこまでも澄みきっていた。雲ひとつない青。
木々は芽吹きの季節のように若く、葉の一枚一枚が光を透かして揺れている。
夏の夜だったはずなのに、ここには春の光が満ちていた。
纏わり付いてくる子供達に笑顔を返し、梓は立ち上がった。
村を歩き始める。
どこを見ても、焦げ跡も、崩れた家もない。
道はきれいに掃かれ、軒先には花が飾られている。
子供たちが笑いながら駆け回り、女たちは井戸端で布をすすいでいた。
それは、懐かしい風景だった。
――いつか幻の中で見た、あの村だ。
けれど――こんなにも美しかったことがあっただろうか。
村の通りを歩くと、誰もが梓に笑顔を向けた。
知らない人も、皆が名を呼んでくれる。
その声は、春の日差しのように温かい。
(おかえり、梓ちゃん)
(もう大丈夫よ)
(ここは、ええ所じゃけぇよ)
懐かしい言葉が、胸の奥に沁みていく。言葉だけではない。彼ら、彼女らの気持ちがまるで心が繋がっているかのように胸の奥に伝わってくる。
――涙がにじんだ。
怖くなかった。悲しくもなかった。
ただ、心の奥が静かに満たされていく。
――生きている。
そう思った。
広場では、子供たちが手毬をついていた。
梓の知る誰かに似ていたが、もう思い出せなかった。
それでも、その笑顔を見ているだけで胸があたたかくなる。
川辺では、老夫婦が仲良く洗濯をしていた。
男が冗談を言い、女が笑って肩を叩く。
その笑い声が、村の空気をやわらかく包んでいく。
嫉妬も、憎しみも、悲しみも――どこにもなかった。
ただ、人が人を思いやりながら生きている。
それが、当たり前のこととしてそこにあった。
道端で少女が花を編んでいた。
梓が近づくと、その子はにこりと笑い、花の輪を差し出した。
(これ、今代の清音さまに)
清音――
その名を聞いた瞬間、胸が強く脈打った。
「清音、清音はどこにいるの?」
(この先……みんなの中心におるよ)
少女は、指で広場の方を指した。
そこに、白い衣をまとった清音が立っていた。
柔らかな陽の光の中に、微笑みながら人々に囲まれている。
あの夜の傷も、苦しみの影も、もうどこにもなかった。
美しい。まるで、この世界そのものが彼女を中心に生まれたかのように。
清音がこちらを振り向いた。
目が合う。
彼女は微笑んで、梓の名を呼んだ。
「梓――」
その声を聞いた瞬間、全ての痛みが消えた。
胸を満たしていた不安も、罪悪感も、灰のように溶けて消えていった。
ただ、幸福だけがあった。
それは永遠に続くと思えた。
梓は、清音のほうへ歩きながら何度もまばたきをした。
風が頬を撫でていくたびに、香りが違った。
桜の香、川の水の匂い、木々の若葉の青い匂い。
それらが層をなし、春の午後のような懐かしさをつくっていた。
清音が立っている広場に近づくと、人々が自然に道をあけた。
「梓……会いたかった……」
清音がゆっくりと歩み寄ってきた。
白い衣の裾が光を吸って、淡い金に輝いている。
髪はさらさらと肩に流れ、瞳の奥にはもう苦しみの影がなかった。そして露出している身体には、にくゑの痕跡が一切ない。
「よかった……でも、ここは一体?」
そう口にした瞬間、胸の奥から何かがほどけた。
泣いてはいけないと思っていた。
でも涙は自然にこぼれた。
清音はその涙を指先で拭い、優しく微笑んだ。
「ここはにくゑ様の中の世界。この村の人たちは、最後には皆ここに来る……」
広場の端では、子供たちが花びらを投げて遊んでいる。
笛の音がして、太鼓が軽やかに鳴った。
誰かが笑い、誰かが歌う。
あゆみもいた。
白い着物のまま、手を振っている。
あゆみの心も伝わってくる。繋がってゆく。
その想いに、嫉妬も執着もなかった。
清音と梓を見る目は、ただやさしい祝福に満ちていた。
清一もいた。
彼は静かに祈りを捧げていた。
その姿は、怒りでも恐れでもなく、安らぎそのものだった。




