祝災 壱
山の斜面に立ち上がった炎の柱を、梓は見上げた。――先生だ。井戸に、火がついたのだ。
太鼓が乱れ、笛が悲鳴を上げる。
村人たちの歌が、祈りが、叫びに変わった。
地面のあちらこちらから、炎の柱が立ち上った。その炎はあっという間に広がり、木造の村の家々に、その赤い色を移してゆく。
梓はとっさに胸元からメモを取出し、今見えている光景を書き出していた。
記録を。せめて記録を。
私がいなくなっても、記録があれば。
――村全体が、その全てが炎に包まれてゆく。
地の底で何かが呻くような音がする。
にくゑが――燃えながら、目を覚ましている。
村人たちは笑顔のまま、手を合わせていた。
頬を焼くような熱さの中で、誰も逃げようとしない。
火が、赤くない。
──肉の色だ。
脂が焼ける匂い、皮膚が破れる音。
煙に混じって、甘い花の香りが鼻に突き刺さる。吐き気と酩酊が同時に押し寄せる。
人が立ったまま燃えている。
髪が燃える匂い、皮膚が縮む音。
眼窩から黒い液が垂れて、笑いながら口の端からこぼれ落ちていく。
笑っている。歯が炭になっても、笑い声だけは消えない。
熱い。
なのに冷たい。
炎が頬に触れるたび、皮膚の下を氷の爪でえぐられるみたいに痺れる。
焼けつくような指で、梓はメモを握っている。紙が焦げても手を離せない。
清音がいた。
炎の向こうで、唇を開かずに、笑っていた。
白い歯が炎の色を反射する。
笑みは人のものではなく、神が人を真似している仮面のようだった。
地面が脈動する。
村人たちの足元からも、同じように赤いものが滲み出していた。
もう無理だ。梓はメモを胸元に戻す。
笑い声が増え、拍手が響く。
人々は互いの手を取り合い、抱き合い、溶け合っていく。
「にくゑ様……われらをお救いくだされ……」
見る見るうちに、男も、女も、老人も、子供も、ほとんどの村人が衣服だけを残し、うねうねとうごめく巨大な肉塊へと一つになってゆく。
かつて村人であった肉塊が、無数の口で歓声を上げた。
「ああ……こんでいける!」
「もう、お役目はおしまいっちゅうことか!?」
「ようやく、わしらも神の中へ還れるんじゃ! 父さまに会える、母さまに会えるんじゃ!」
その声は歓喜に満ちていた。
誰も恐怖していない。
赤い光が地を這い、炎の中に花が咲くように村全体が脈打つ。
それは地獄でもあり、極楽でもあった。
紅い曼珠沙華に覆われた極楽。
あゆみは祭壇に置かれていた大きな杯を両手で抱え、うっすらと笑っている。
杯に残っていた赤い液体が全身に降りかかり、あゆみをぬらしていった。
その液は血のようで、炎の光を受けて鈍く光った。
「あゆみ……!」
梓は叫んだ。
だが、あゆみはその声に振り向かなかった。
ただ、うっとりとした微笑を浮かべ、両手を広げる。
「清音様……みんな……いっしょになれるんだね」
次の瞬間、彼女の体がふわりと揺れた。
皮膚の下を、何かが這う。
白い着物の袖から、粘液のような赤い筋が滴り落ちる。
祭壇の上で、あゆみの足が崩れた。
髪が、指が、笑顔のまま流れ落ちる。
溶けながら、あゆみは梓を見た。
その目には、痛みも恐怖もなく、ただ満ち足りた安らぎがあった。
「……清音も……すぐ……」
最後の言葉が、空気に消えた。
白い布だけを残しその身体は溶けるように村人達のつくりあげた肉塊に向かって進み、近づくと待ち焦がれていたようにひとつに吸い込まれていく。
梓はその場に立ち尽くした。
世界がひとつの肉に変わっていく。
足元の地面が柔らかくなり、熱を持ってうねり始めた。
山の方から、再び遠く、おおーん、と大気を震わせる唸り声が聞こえる。
地面が揺れ、洞があった山が崩れ、そこから巨大な何かが炎に包まれながら姿を現した。
何もかも、全てが混沌に飲み込まれてゆく中、梓はふと考えた。
――もしかしたら。
梓は思った。この村の人たちは、死にたがっていたのかも知れない。死してにくゑと一つになるなら、あの理想郷へ行けるならそれは確定した極楽だ。
なら、何故村の人たちは人の姿で生活を営んでいたのだろう? この苦界で生を続けていたのだろう?
風が吹き抜けた。
群体の奥で、清音の名を呼ぶ声がいくつも重なった。
まるで神の呼吸のように。




