祝祭 弐
ざわめきが走った。
村人たちが息を呑み、太鼓が再び鳴り始める。
清一はまず、杯をあゆみに差し出した。
「あゆみや、よう飲め。おまえはもう立派な大人じゃ」
あゆみは迷いなく手を伸ばした。
その動きは、まるで何度も練習した儀式のように滑らかだった。
両手で杯を受け取り、唇を寄せる。
液体が喉を流れ込む音が、やけに鮮明に聞こえた。
あゆみの喉が動き、頬が朱に染まる。
その顔に、うっとりとした微笑みが浮かぶ。
清音を見つめるように目を細め、ありがとうと呟いた。
清一は次に、梓の方を向いた。
「梓。おまえも飲め。今日からおまえは村の子じゃ」
梓は杯を見つめた。
赤い液体の表面が、炎を映して揺れている。
その奥で、何かが蠢いた気がした。
見つめるうちに、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
――飲まなければ。
この祭りを完遂しなければ、計画は成立しない。
あの井戸で、吉川先生が火を放つその時を稼ぐために。
梓は手を伸ばした。
杯を受け取り、唇を寄せる。
液体はどろりとしていた。
口の中に、鉄の味と土の匂いが広がる。
それでも飲み干した。
杯を返すと、清一が満足げに頷いた。
周囲から歓声が上がる。
「よう飲んだ! よう飲んだのぉ!」
「これでええ、これで村は守られるんじゃ!」
太鼓が鳴り響き、笛が叫ぶように高音を奏でた。
梓の胃の中で、液体が冷たく沈む。
だが、あゆみのような変化は起きなかった。
体は変わらない。視界も歪まない。
まるで、自分だけが別の世界に立っているようだった。
――やっぱり、私は違う。
梓はそう思った。
それが恐怖でもあり、救いでもあった。
太鼓が鳴り止み、祭りの熱気が一瞬で静まり返った。
赤い炎だけが夜空を照らし、煙がゆらゆらと揺れている。
梓はまだ、飲んだ液体の鉄の味を口の奥に感じていた。
隣のあゆみは目を閉じ、微笑んでいる。
その顔は幸福そのものだった。
清一が竹杖を突き、声を張り上げた。
「――これより、贄を捧げる。皆、感謝の祈りを!」
その言葉に、村人たちが熱っぽくざわめいた。
顔を見合わせ、祈るように手を合わせる者もいた。
誰もがこの瞬間を待っていた。
太鼓がゆっくりと再び打ち鳴らされる。
ドン、ドン、と低く響くたび、地面が微かに震えた。
笛の音が細く伸び、空気を裂く。
祭壇の奥から、数人の男たちが現れた。
その中心で引きずられているのは――沙織だった。
彼女は白い着物を着せられ、髪を乱し、両腕を後ろで縛られている。
裸足の足首にも縄が巻かれ、引きずられるたびに小石で擦り切れて血が滲んでいた。
腹部は膨らみ、そこが不自然に脈打っていた。
村人たちがどよめく。
「おお……こん方が……」
「ありがてぇ……ありがてぇのぉ」
清一はゆっくりと祭壇の上に立ち、声を張り上げた。
「この女、沙織。この世の為に、にくゑ様の為にこの村にやって来てくれた!」
村人たちは頭を下げた。
涙を流す者もいたが、それは悲しみではなかった。
崇敬の涙だった。
男たちが沙織を祭壇の前へ引きずり出す。
梓は息を呑んだ。
彼女の両目は虚ろで、それでも何かを探すように空を見ていた。
「よういち……あなた……」
掠れた声。
あまりに人間らしいその響きに、梓の胸が締めつけられた。
「やめて……!」
気づけば声が出ていた。
梓は一歩踏み出そうとしたが、腕を掴まれた。
清一だった。
「下がれ」
その声は低く、刃のように冷たかった。
「これはおまえの知る世界の理じゃないけぇな。口を出すでない。お前も巫女の友であるなら、静かに見届けぇ」
「でも、あの人は――!」
「黙れ!」
竹杖の鈴が鋭く鳴った。
その音に、周囲の村人たちが一斉に梓を振り返った。
無数の目が闇の中で光っている。
その光景は人の群れではなく、群体そのもののようだった。
「にくゑ様に穢れを見せるわけにゃいかん!」
「巫女の友なら、掟を破るでない!」
梓は息を呑み、腕を振りほどこうとしたが、清一の手は岩のように固かった。
その力に抗えず、梓は膝をついた。
沙織が引き立てられ、祭壇の中央に立たされる。
太鼓が鳴り響き、笛が悲鳴のようにうねる。
風が吹き上がり、松明の炎が左右に揺れた。
清一が竹杖を掲げる。
「――にくゑ様、今宵、我らは血と肉とをもって贖う。この女を捧げ、命のめぐりをあなたに戻します」
沙織の顔が上を向いた。
月の光が頬を照らしていた。
その瞳は、もはや恐怖の色ではなかった。
「……ふふっ……あ、あは……あははははっ!」
§ § §
その声に反応するかのように、祭壇の下、地面がぐらりと揺れた。
亀裂が走り、赤い光が地の底から滲み出る。
熱が押し寄せ、地面が息をしているかのように波打つ。
梓の体が震えた。
地面の裂け目から、ぬらりと何かが這い出てくる。
赤黒い肉、無数の目。
まるで胎内の臓器そのものが地上に現れたようだった。
村人たちは歓喜の声を上げた。
「にくゑ様じゃ……!」
「ありがてぇ……ありがてぇのぉ!」
肉の塊から幾つもの触手が伸び、沙織の体が宙に持ち上げられる。それは、ゆっくりと肉の裂け目へと沙織を引きずっていく。
「やめてぇ!」
梓が叫ぶ。
しかし、清一がその肩を押さえた。
彼の目は血走り、狂気に満ちていた。
「見届けぇ! これが救いじゃ!」
沙織の体が赤い肉に飲み込まれる。
白い着物が裂け、血と液体が舞い上がる。
だが、彼女の顔には安堵の笑みが浮かんでいた。
「……いっしょだね……だいじょうぶ、あなただけはきっとまもるから……」
その声を最後に、沙織は完全に肉に飲まれ、消えた。
静寂。
次の瞬間、地の底から、胎動のような鼓動が響いた。
――ドクン。
大地そのものが脈打っている。
梓の足元が揺れた。
天地が砕けるような、激しい揺れが大地を覆う。
そして、遠くで爆ぜるような音。
山の斜面から炎の柱が立ち上がった。




