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にくゑ【ある世界が終焉を迎えるまでの道程。そして――】終焉の探偵  作者: カクナノゾム
第一部 にくゑ

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吉川直樹 井戸の底の声

 闇の向こうに、井戸の黒い縁が見えた。

 その瞬間、意識が少し遠のいた。

 でも、手の中の燃料缶だけは離さなかった。

 それだけが、今の自分の役目だった。


 井戸のそばに立つと、底から微かな呻き声が聞こえた。

 息を詰めて耳を澄ます。


 人の声だ。男の声。


「……先生?」


 吉川は体をこわばらせた。

 聞き覚えのある声だった。

 これは……宗次だ。


「ああ、先生……わしゃ間違えてしもうた……千鶴を……千鶴を……」

「宗次さん……千鶴さんは……」


 吉川の声に応えるように声が井戸から響いた。


「……先生……吉川先生……」


 千鶴……だ。


「千鶴さん……」


 声が震えた。

 井戸の中から、掠れた声が返ってきた。


「痛いんです……お願い……うちの人と一緒に消えれるなら、それでいいと思いました……でも……でもこれは……」

「ああ、すまん、すまん! おまえに会いたいとわしが願ったばっかりに……」

「いいんです……これを望んだのは私……でも、痛いんです……先生っ!」


 井戸をのぞき込む。そこは肉の坩堝だった。幾十、幾百もの人とも肉塊ともつかぬものが、波打ちのたうっている。


「……先生……お願いです……」


 彼女はもう、人間の声で喋っていなかった。

 喉の奥に何か詰まったような、濁った音。

 それでも、助けを求める響きだけは確かに伝わってくる。


 吉川は井戸の縁に手を置いた。

 冷たかった。湿り気のある石の感触が、掌の中に染み込む。

 吐く息が荒い。傷口から命が抜けていくのがわかる。彼はしばらくそのまま動けなかった。


「千鶴さん……宗次さん……」


 振り絞るように呟く。二人の顔が脳裏に浮かぶ。

 笑いながら弁当箱を差し出す姿。

 薬草の香り。

 宗次の隣で見せた、あの穏やかな横顔。


「すまない」


 吉川は燃料を井戸に流し込みながら呟いた。

 灯油の匂いが夜気に混ざる。


「今、楽にしてあげます」


 手の中でマッチが震えた。

 擦ると、一瞬だけ橙の光が生まれ、指先の震えを照らした。

 火が落ちる。


 ――肉が焼ける匂い。

 千鶴の声が、一瞬だけ笑ったように自分の名を呼ぶのが聞こえた。


(ありがとう……先生……)


 ぼう、と音がした。

 井戸の中が光で満たされ、次いで轟音。

 炎が高く吹き上がり、赤い舌のように夜空を舐めた。


 ――あの時もそうだった。まるで乾燥した和紙のように、あの肉塊は燃え上がっていた。吉川は、脂と炎の匂いに包まれながら遠い過去と、あの日の診療所を思い出す。


 吉川は顔を上げ、炎を見つめた。

 涙が頬を伝って落ちた。

 それでも、心のどこかで、ようやく“救えた”と思った。

 宗次も、千鶴も。


 ――その時だった。


 足元の土が盛り上がる。

 地中から何かが蠢いている。

 井戸の周囲の地面が波打つように動き、黒い塊がのたうった。

 触手のようなものが、土を割って伸びる。

 それは炎に包まれていた。

 炎に包まれた何かは、地面を走り洞窟の方向へと向かってゆく。


 地面の下から、微かなうねりと、何かが呻くような鳴動が聞こえてくる。


 そして、一瞬の間を置いて、洞窟の中全てがオレンジの光に包まれ、炎が魔物の舌のように洞窟から吹き上がった!


 低く鳴動していた地面が巨大な唸り声をあげる。

 今やそれは、隠すことも出来ない巨大な咆哮だった。

 同時に、全てが崩壊するような巨大な揺れが大地を襲う。


 地震? そう、地震だ。それも今まで経験したことがないような、天地が引っ繰り返るような大地震!


 洞窟から伸びた炎の舌は、地面を這って森中に、村中に伸びてゆく。


 炎に包まれた巨大な何かが、ゆっくりと山を崩しながら姿を現す。それは再び天を揺るがす咆哮を放った!


 ――遠くで聞こえていた太鼓の音が途切れる。

 祭りの囃子が、不協和音に変わった。


 世界が掻き回されるような振動に包まれ、吉川は為す術もなく地面にしゃがみ込む。


 村一面、地面から盛り上がってくる炎の列に彩られ、夜空が赤く染まってゆく。


 吉川は後ずさり、炎の向こうを見た。

 村の方角もまた赤く染まっていた。

 囃子に代わって、悲鳴が響いた。


 吉川は燃料缶を捨て、よろよろと走り出した。

 足が一歩ごとに重い。けれど、止まれば二度と立てない。それだけは分かっていた。


「梓さんのところへ……!」


 その声は夜風にかき消される。

 燃え上がる全ての炎が、彼を照らしていた。

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