吉川直樹 井戸の底の声
闇の向こうに、井戸の黒い縁が見えた。
その瞬間、意識が少し遠のいた。
でも、手の中の燃料缶だけは離さなかった。
それだけが、今の自分の役目だった。
井戸のそばに立つと、底から微かな呻き声が聞こえた。
息を詰めて耳を澄ます。
人の声だ。男の声。
「……先生?」
吉川は体をこわばらせた。
聞き覚えのある声だった。
これは……宗次だ。
「ああ、先生……わしゃ間違えてしもうた……千鶴を……千鶴を……」
「宗次さん……千鶴さんは……」
吉川の声に応えるように声が井戸から響いた。
「……先生……吉川先生……」
千鶴……だ。
「千鶴さん……」
声が震えた。
井戸の中から、掠れた声が返ってきた。
「痛いんです……お願い……うちの人と一緒に消えれるなら、それでいいと思いました……でも……でもこれは……」
「ああ、すまん、すまん! おまえに会いたいとわしが願ったばっかりに……」
「いいんです……これを望んだのは私……でも、痛いんです……先生っ!」
井戸をのぞき込む。そこは肉の坩堝だった。幾十、幾百もの人とも肉塊ともつかぬものが、波打ちのたうっている。
「……先生……お願いです……」
彼女はもう、人間の声で喋っていなかった。
喉の奥に何か詰まったような、濁った音。
それでも、助けを求める響きだけは確かに伝わってくる。
吉川は井戸の縁に手を置いた。
冷たかった。湿り気のある石の感触が、掌の中に染み込む。
吐く息が荒い。傷口から命が抜けていくのがわかる。彼はしばらくそのまま動けなかった。
「千鶴さん……宗次さん……」
振り絞るように呟く。二人の顔が脳裏に浮かぶ。
笑いながら弁当箱を差し出す姿。
薬草の香り。
宗次の隣で見せた、あの穏やかな横顔。
「すまない」
吉川は燃料を井戸に流し込みながら呟いた。
灯油の匂いが夜気に混ざる。
「今、楽にしてあげます」
手の中でマッチが震えた。
擦ると、一瞬だけ橙の光が生まれ、指先の震えを照らした。
火が落ちる。
――肉が焼ける匂い。
千鶴の声が、一瞬だけ笑ったように自分の名を呼ぶのが聞こえた。
(ありがとう……先生……)
ぼう、と音がした。
井戸の中が光で満たされ、次いで轟音。
炎が高く吹き上がり、赤い舌のように夜空を舐めた。
――あの時もそうだった。まるで乾燥した和紙のように、あの肉塊は燃え上がっていた。吉川は、脂と炎の匂いに包まれながら遠い過去と、あの日の診療所を思い出す。
吉川は顔を上げ、炎を見つめた。
涙が頬を伝って落ちた。
それでも、心のどこかで、ようやく“救えた”と思った。
宗次も、千鶴も。
――その時だった。
足元の土が盛り上がる。
地中から何かが蠢いている。
井戸の周囲の地面が波打つように動き、黒い塊がのたうった。
触手のようなものが、土を割って伸びる。
それは炎に包まれていた。
炎に包まれた何かは、地面を走り洞窟の方向へと向かってゆく。
地面の下から、微かなうねりと、何かが呻くような鳴動が聞こえてくる。
そして、一瞬の間を置いて、洞窟の中全てがオレンジの光に包まれ、炎が魔物の舌のように洞窟から吹き上がった!
低く鳴動していた地面が巨大な唸り声をあげる。
今やそれは、隠すことも出来ない巨大な咆哮だった。
同時に、全てが崩壊するような巨大な揺れが大地を襲う。
地震? そう、地震だ。それも今まで経験したことがないような、天地が引っ繰り返るような大地震!
洞窟から伸びた炎の舌は、地面を這って森中に、村中に伸びてゆく。
炎に包まれた巨大な何かが、ゆっくりと山を崩しながら姿を現す。それは再び天を揺るがす咆哮を放った!
――遠くで聞こえていた太鼓の音が途切れる。
祭りの囃子が、不協和音に変わった。
世界が掻き回されるような振動に包まれ、吉川は為す術もなく地面にしゃがみ込む。
村一面、地面から盛り上がってくる炎の列に彩られ、夜空が赤く染まってゆく。
吉川は後ずさり、炎の向こうを見た。
村の方角もまた赤く染まっていた。
囃子に代わって、悲鳴が響いた。
吉川は燃料缶を捨て、よろよろと走り出した。
足が一歩ごとに重い。けれど、止まれば二度と立てない。それだけは分かっていた。
「梓さんのところへ……!」
その声は夜風にかき消される。
燃え上がる全ての炎が、彼を照らしていた。




