吉川直樹 裏道を行く
そして夜がやってくる。
村の中心では、火が焚かれ、笛と太鼓の音が夜空に昇っていく。
女たちの歌声が、まるで祈りのように響いていた。
吉川は人目を避けて裏道を歩いて行く。
燃料缶の中身が波打つたびに、手に伝わる感触が変わる。
森の小道を抜け、村の外れにさしかかる。
この先には洞窟。道を外れると目的地の古井戸だ。
暗がりの中で、井戸の影が見えてきた。その奥にはあの廃屋。
目をやると、廃屋の影が揺れた気がした。
まさか……沙織さんたちは、またここに?
燃料缶を地面に下ろす。
吉川は、目を凝らし、廃屋の方向を見つめ歩き出した。
風は止み、木々のざわめきさえ消えている。夜気の奥で、何かが地を這うような音がした。
吉川は足を止めた。
懐中電灯を持つ手が自然と震える。
暗闇の奥に、低いうめきがある。
獣の声ではなかった。人間の呻き声だ。
それも、どこかで聞き覚えのある声。
「……俊夫さん?」
そうだ、この声は俊夫だ。佐藤俊夫。あの惨劇を、吉川は脳裏にくっきりと思い浮かべた。
あの後、村人たちに連れて行かれて――。
唸り声に向け、灯りを当てる。
崩れた土壁の隙間から、四つん這いの男が這い出してきた。
佐藤俊夫だった。
かつて診療所で、赤い薬を投与された男。
息子を喰い、廃屋に閉じ込められた、あの男だ。
俊夫の肌は赤黒く膨れ、血管が浮き上がっていた。
片目が白く濁り、もう片方は異様に赤く光っている。
その口から、血と泡が交互に溢れ出していた。
「さ……おり……」
その唇が動く。
声の形だけが、まだ人間のものだった。見ている間にその姿はねじ曲がり、人と言うよりは人を模した獣のように変化する。
歪な人に似せた肉塊。全身に口と目が生え、本来の口があるべき所には無数の牙が見えている。
ぼろ布を身に纏わり付かせ、俊夫だったものは四つ足で飛びかかってきた!
その速さに反応する間もなかった。
ナイフのように伸びた爪が、吉川の脇腹を薙いだ。
布が裂ける音と、肉の切れる音が重なる。
熱い痛みが、刃物のように走った。
胸の奥から息が漏れた。
触れた手のひらに、どろりとした温かさ。
それが自分の血だと気づいたのは、少し遅れてからだった。
俊夫が再び突っ込んでくる。
吉川は腰の鉈に手を伸ばした。
柄の木肌が掌に食い込む。
「やめろ――!」
叫びと同時に、刃を振り抜いた。
鈍い音。
衝撃で腕が痺れた。
鉄の匂いが一瞬にして鼻を満たす。
刃が俊夫の首に食い込み、肉を裂き、骨に当たる手応え。
俊夫の体が大きくのけぞり、地面に崩れ落ちた。
しばらく、その場に動きはなかった。
息だけが、荒く交互に響く。
吉川は自分の胸に手を当てた。
鼓動が速い。
脇腹から、血が流れ続けているのがわかる。
脇腹の奥が焼けるように熱い。
止血が必要だと、医師としての理性が訴えた。
だが、そんな時間はない。
あの子たちが、今夜、儀式に巻き込まれる。
俊夫の方へ視線を戻す。
男は仰向けに倒れ、もう息をしていなかった。
再生しない、ということは、にくゑの同類になった訳では……なかったのか。
「すまない……俊夫さん」
私は……人を……殺してしまった……。
吉川は、仰向けに倒れ、動かない俊夫を見つめた。
その顔には苦痛と安堵が同居しているように見えた。それは吉川の感傷だったのかも知れない。罪悪感が見せた幻なのかも。
しかし、彼には俊夫の目が、どこか穏やかに見えた。
手を当てて、瞼を閉じさせる。
吉川は膝をつき、そっとその手を握った。
冷たい。けれど、ほんの一瞬、指が握り返した気がした。
「……あなたを救えなかった」
言葉は風に消えた。
吉川は立ち上がる。
視界が赤く滲む。
足元がふらついた。
痛みはすでに遠のいていた。そのことで吉川は傷の深さを知る。
――もう助からないかも知れないな。
そんなことを他人事のように思っていた。それも仕方ない。だって私は人殺しなのだから。
傷口が疼く。熱も、冷たさも、同じ場所にある。
シャツの裾を裂いて傷に巻きつけ、きつく縛る。応急にもならない。だが、歩ける間は、歩ける。
「止血……は、もういい。火を……」
燃料缶を抱え直す。
灯油と血の匂いが鼻を突いた。
肩にずしりと重みが食い込む。
それでも歩き出す。
息を吸うたび、胸の奥が泡立つ音がした。
祭りの太鼓が、遠くで鳴っていた。
一定の拍子が心臓と重なる。
ひとつ叩くたび、血が抜けていくのがわかった。
それでも、足は止まらなかった。
――行かなければ。
にくゑが暴走すれば、あの子達が逃げ出す機会がつくれるかも知れない。
あの子達を、せめてあの子達を救わねば。




