目覚め 弐
窓の外で、村の人々が何やら準備をしているのが見える。笑顔で、せっせと働いている。遠くから笛や太鼓の音が聞こえてくる。
「もうすぐ、祭り……ですね」
梓が口にした。村のお祭り。梓は引っ越してきた当初のことを思い出す。
あれは初めて分校に登校した時。床にしみているワックスの匂い、美穂や……健太の笑顔が脳裏に浮かぶ。
授業が終わると同時に、三人が駆け寄って声をかけてくれたっけ、と梓は懐かしく思い出す。そう、あれはあゆみが言っていたんだっけ。
「そうじゃ、もうすぐお祭りもあるんじゃよ。にくゑ様をたたえるお祭り」
「そうじゃ、そうじゃ、なんもないこの村じゃけんど、祭りはええよ」
三人が三回笑顔を浮かべながら話しかける。
「お祭り、あるんだね」
「そうじゃ、成人の祭りで十七の子供が主役じゃ。ちょうど僕らが主役じゃけん」
得意げな顔で健太が胸を張った。
――ああ、なんて遠い! まだほんの少ししか時間が経っていないのにもうあの二人には二度と会えない。そしてもう一人は私を憎んでいる。
「そういえば、村の祭りって何です?」
「おそらくは……だが」
吉川は振り返った。
「おそらくは通過儀礼。村の子供たちが大人になる、にくゑの一部になる儀式なんだろう」
梓の胸に、嫌な予感が走った。
「あゆみも?」
「そうなるだろうね。今ならわかる。この村に村医が必要な訳が」
「訳?」
「ああ、この村の大人たちは、にくゑという異物と同化することで、人間離れした体力と回復力を持っている。しかし子供は違う」
だから、私は生かされているんだろう、と吉川は苦い笑みを浮かべた。
梓は立ち上がった。傷がずきりと痛んだが、構わず吉川の前に進み出る。
驚いたように目を見開いた吉川の前で、彼女は寝間着の裾を掴んだ。
「失礼します」
そのまま、腹部の包帯を指先で解いた。乾いた布が剥がれる音。下から現れた皮膚は、赤黒く線を描きながらも――その中心が淡く光を帯びていた。
吉川が息をのむ。
「……もう癒着が始まっている。普通なら身動きもできないはずなのに」
吉川は医師の目で梓を見つめた。
「君の回復力は、やはり普通ではない。村の秘薬は効かなかったはずだ。薬じゃない、君自身の力だ」
梓は自分の体を見下ろした。確かに、刺された傷の痛みは和らいでいる。普通なら起き上がることすらできないはずなのに、こうして立っていられる。自分でも不思議だった。
でも今は、そんなことより大切なことがある。
「チャンスかも……知れません」
「チャンス?」
「そう、村の全ての意識が祭りに集中する。その時が最初で最後の機会かもしれません」
「何の機会だと?」
問い返す吉川を、梓はまっすぐに見つめ返す。
「この悲劇を終わらせる、その機会です」
吉川の目が見開かれるのが見えた。
「終わらせる?」
「焼くんです。全てを」
梓の声は静かだったが、確信に満ちていた。
清一の話を聞いた後だと、それは不可能にも思える。あの話が本当なら国家ぐるみの隠蔽だということになる。
そんな陰謀論じみた話を、以前の吉川なら、一笑に付していたかもしれない――。
吉川の表情が変わった。医師として命を救ってきた彼にとって、「焼く」という言葉は重いものだろう。しばらくの沈黙があった。
吉川は目をつぶり天を仰いだ。まるで遠い過去を追想するかのように。
「なるほど。あの存在は火に弱い。この診療所の地下には、自家発電装置用の燃料がある。あれを使って、あの洞窟に火を放てば……」
吉川は考え込んだ。
「いや、持ち運べる程度の燃料で、洞窟を焼き尽くすことはできない。どうすれば……」
梓はしばらく考えて、顔を上げた。
「あの井戸。なりそこなった人たちなら、焼けるかもしれません。彼らを焼けば、にくゑの本体が暴走すると聞きました」
吉川の顔が青ざめた。にくゑという化け物ならさておき、あの井戸に封じられているのは人間だ。そしてそこには、千鶴もいる。
「千鶴さんがいる、あの井戸を、焼くのか? しかし、彼らには人としての意識があり、それを行うことは……」
「永遠に終わらない苦痛を味わうことになるそうです。多分、千鶴さんも」
梓の声が震えた。
「清音から聞いたんです。なりそこなった人たちは、死ぬことも生きることもできない。ただ苦しみ続けるだけだって。村の中にも、井戸から漏れ出て彷徨っている人がいるそうです」
梓は吉川を見つめた。
「それなら、楽にしてあげることも、一つの救済なのではないでしょうか」
言ってから、梓は唇を噛んだ。清音から聞いたことが、もう一つある。焼けば溢れ出す力を、鎮めるのは巫女の体だと。
「……清音に、真っ先に負担がかかるかもしれません。でも、にくゑごと燃やしてしまえば、清音も解放される。そう信じたいんです」
吉川は長い間黙っていた。梓には、吉川が千鶴の最後の姿を思い出しているように見えた。千鶴の弁当箱を見つめる彼の目に、何かが決まったような光が宿った。
やがて、静かに頷いた。
§ § §
「わかった。井戸に火をかけよう。そして、にくゑが暴走する。それがどんなことなのかはわからないが、美穂さんたちの遺骸の様子から考察するに、多分それも燃えるだろう」
梓の目に希望の光が宿った。
「上手くいけば、村中に張り巡らされているというにくゑの全てが燃やし尽くせる可能性もある。清音さんは私の記憶を残してくれた。それは、この運命からの解放を願っているのかもしれない」
梓は吉川を見つめた。
「私は祭りに参加して、皆の注意を引きます。先生は、井戸に火をかけてください。そして叶うなら、にくゑを燃やし尽くしてください」
吉川は梓の手を握った。その手は震えていたが、握り返す力は確かだった。
「できるかどうかはわからない。しかし、やってみよう」
二人は固く手を握り合った。外では、祭りの準備が着々と進んでいる。
あと数日、夜が回れば、全てが始まる。あるいは終わるのだろう。




