榊千鶴 遠くなる声
その声は素直だったが、どこかもう遠くにあるように感じられた。包帯の白が、蝋のように冷たい光を返している。
千鶴が診療所を立ち去った後、吉川は再びカルテの整理を始めていた。何かがおかしい。私は何か、大切なことを忘れている。そんな思いが脳裏を埋めてゆく。
カルテの整理は遅々としてはかどらない。
あまりにも黒が多すぎる。ナンバーの抜けもある。仕事に関しては几帳面な自分が作った資料とは思えない。夢中になって資料を整理しているうちに、いつしか時は過ぎ夜も深い時間になっていた。
千鶴の用意してくれた弁当を食べることすら忘れ、吉川は思考に埋没する。
――そもそも、この怪我はなんだ。千鶴さんと私はいつの間にこんな怪我をした?
左手の包帯の下はジェルに包まれ、火傷を治療する処理がなされている。ある程度治るまでは外すことは厳禁だ。
――だが。
吉川の手が、包帯を解き始める。自分でも説明はつかない、しかし何か大切なことを行っている実感が湧き上がる。
包帯を完全に解き、ジェル剤を剥がす。そこにはまだ痛々しい火傷の痕が残っていた。じくじくと痛みが湧き上がってくる。火傷を負った腕に目をやり、観察する……が、火傷のほかには何もない。
もう片方の、火傷の痕がない筈の腕。巻かれた包帯を解くと、外側に、焼き付けたような文字が彫ってあるのが目に入る。
――にくゑ。みほ。けんた。わすれるな。
これは……私の字だ。
いや、待て。
何故、こんな怪我を? 一体誰が、どんな理由で、こんな稚拙な文字を――。
「……うッ!」
頭蓋の内側を叩くような痛みと共に、封じられた記憶が溢れ出す。
私だ! 私が自分で彫り込んだのだ! バーナーで炙ったメスを使って、自らの身体をメモ代わりに!
包帯の下に隠されたメモなら、誰にも見つからない。肉体に彫り込んだ文字なら改竄のしようがない!
そうだ、あれは確かにあった! 私は記憶を操作されて、あまつさえ、自分でカルテを改竄した。してしまった!
洞窟で梓と共に見た、にくゑの本体。起き上がる死体。襲いかかる肉塊。無数の目。
悍ましい記憶が一気に蘇る。
千鶴さんが声を聞き始めたのは、怪我の後。美穂だった何かに噛みつかれた後だ。あの時、体液から何かが……いや、おそらくあのにくゑと呼ばれる何かの一部が千鶴さんの中に入ってしまった。それが彼女の意識に影響を与えているとしたら!
「千鶴さんっ!」
医師として冷静であるべきだが、今は一人の人間として、彼女を救いたい。
吉川は、焦りを隠せないように立ち上がった。上着を羽織り、診療所の扉を跳ね開ける。
――何事もなければ、いいのだが。
足を踏み出しながら、吉川は祈るように部屋を飛び出した。




