榊千鶴 朝の台所
朝。
薄い霧が山の稜線を覆い、蝉の声が遠くで重なっていた。榊家の台所には、まだ夜の涼しさが残っている。
湯気を上げる味噌汁の鍋から、だしの香りが静かに立ちのぼる。
千鶴は木杓子を握ったまま、ふと手を止めた。聞こえるのは、柱時計の針の音だけ。針は七時を指したまま、いつからか動いていない。
食卓に湯呑みを二つ並べ、箸を二膳置く。
空席の片側に向かって、そっと笑みを浮かべた。
「宗次さん……いただきます」
その声は、茶碗にぶつかってわずかに震えた。
誰もいない部屋に、匂いだけが満ちていく。
台所の隅では、昨夜洗ったままの弁当箱が乾いていない。
右腕に巻かれた包帯が、少しだけ締めつけるように痛んだ。
千鶴はそれを気にする素振りもなく、夫の作業着を取り出す。
古びたアイロンを当てるたび、蒸気が白く立ち上り、窓の外の朝光と溶け合う。
布地の皺が伸びていく音は、まるで呼吸のようだった。
食卓の向こう、写真立ての中の笑顔がこちらを見ている。
夏祭りの日、浴衣姿の夫と並んで撮った一枚。
あの笑顔のまま、宗次はもう戻らない。
それでも千鶴は、毎朝この儀式をやめなかった。
弁当包みを手に取る。右腕がずきりと疼く。
包帯の下、脈打つ痛みはまだ新しい。
それでも彼女は穏やかに笑った。
「先生に、お昼を届けに行かなくちゃね」
「行ってきます」と小さく呟き、誰もいない玄関に頭を下げる。
その声を、蝉の鳴き声がさらっていった。
障子を開けると、外の光が一気に流れ込む。
夏の空気は湿り、どこか血の匂いが混じっていた。
◆
吉川が机に向かったまま、カルテの山と格闘していたのは、昼を少し過ぎたころだった。
幾つもの黒塗りがある。ナンバーの抜けもある。
「……私が、これをやったのか?」
記憶にない。カルテの改ざんをいつの間にかされている? 吉川の眉間に深い皺が刻まれる。
その時、診療所の扉を叩く音がした。
「先生」
呼び声に顔を上げると、千鶴が立っていた。
いつものように弁当を抱えている。右腕に白い包帯を巻き、手首のあたりまで薄く透けて赤い。
「また朝から何も召し上がってないでしょう? これ、山菜の炊き込みです」
「……いつもすみません」
千鶴はにこりと笑い、机の隅に包みを置いた。
光の少ない室内で、その笑みだけがやけに柔らかく見える。
吉川の両腕にも包帯が巻かれていた。先日、診療所で薬品を扱っている際に負った火傷だ――吉川の記憶では、そういうことになっている。
互いの手に視線が重なり、二人は同時に小さく笑った。
「お互い、満身創痍ですね」
「……そうですね。いつの間にかこんな風に怪我をしているなんて」
そう言いながら、吉川は視線を下げた。
千鶴の右腕の包帯の端が、少し緩んでいるのに気づく。
そこから漂う匂い——甘く、重く、どこか生臭い。以前にも嗅いだ覚えのある匂いだった。だが、いつ、どこでだったのかが思い出せない。
彼は静かに声を落とした。
「怪我の具合を見ましょう。包帯、外しますよ」
千鶴は一瞬ためらい、それから素直に右腕を差し出した。
布を解くたび、包帯の下から湿った匂いが立ちのぼる。
赤黒い線が二本、肘の上をなぞるように走り、周囲の皮膚は微かに脈打っていた。
吉川は手袋越しに脈を取り、低く息を吐く。
「……熱い。本当にいつの間にこんな怪我をしたんでしょうね?」
「気づいたら、こうなっていて……。包帯を替えても、すぐ温かくなるんです」
千鶴の声は静かで、どこか嬉しそうでもあった。
吉川は眉を寄せる。
傷の縁から、淡い甘い匂いが漂ってくる。薬草の香りではない。
「……痛みは?」
「ありません。ただ、夜になると——」
千鶴は言葉を濁し、目を伏せた。
吉川が促すように黙っていると、彼女は小さく息を吸った。
「夜になると、声が聞こえるんです。宗次さんの声が。……あの人が呼んでるんです」
「声……ですか」
千鶴は首を横に振った。
その目は、遠い何かを見ている。
「夢じゃないんです。あの声、昨日はもっと近くで聞こえました。まるで、家のすぐ外にいるみたいに。この声は、私にだけ聞こえているんだと思います」
診療所の奥で、誰かが咳をしたような音がした。
風が吹き込み、窓際のカルテがぱらりとめくれる。
吉川は深く息を吸い、包帯を巻き直した。
布を締めるたび、千鶴の脈動が手のひらに伝わる。
「しばらく安静に。夜は戸を閉めて、決して外に出ないように」
「ええ……先生」




