古井戸 参
涙が、清音の頬を伝い落ちる。
「それはとても幸せなこと、そう教わってきた。でも――」
梓は清音を抱きしめた。冷たい身体。けれど、確かに生きている。心臓の音が聞こえる。遅くて、弱々しいけれど、まだ打っている。
「嫌だ」
梓の声が震える。
「そんなの、嫌だ」
清音が泣いた。
「でも、それが定め。それに私が消えても、次代の清音はいずれ産まれるから――」
「次代の?」
「ええ、虚木の傍流で女の子が産まれるの。その子がきっと次の清音になる。だから、私の役割ももうすぐ終わるわ」
その声が掠れる。
「巫女は、にくゑ様に捧げられる。それが、この村の掟」
「逃げようっ!」
梓は清音の手を強く握った。
「この村から、遠くへ。二人で」
清音が首を振った。
「無理よ」
その声が、諦めに満ちている。
「もう、私の身体は……」
清音の袖がはだけた。その腕に、無数の目が浮かんでいる。さっきより、数が増えていた。ぎっしりと、びっしりと。それぞれの目が、梓を見つめている。
梓は息を呑んだ。
「もう、止められないの」
清音の声が震える。
「祭りが終わる頃には、私は完全ににくゑになる」
清音が梓を見つめた。その目に、必死の懇願が宿っていた。
「あなただけは、覚えていて」
「清音……」
「私が、清音だったことを。人として、あなたを愛したことを」
涙が、止まらない。
「本当は……怖い」
清音の声が掠れる。
「消えるのが。あなたのことを忘れるのが」
梓は清音の涙を拭った。
「忘れない」
梓の声が震える。
「絶対に、忘れない」
清音が声を上げて泣いた。子どもみたいに、しゃくり上げながら。
梓はただ、その背中を撫で続けた。さっきまで愛し合った背中。にくゑの目が宿る背中。それでも、愛おしかった。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。清音の泣き声が、少しずつ収まっていく。
遠くで、太鼓の音が響いた。祭りの近いことを告げる音。
闇の底で水音が応えた。ごぼ、ごぼ、と。まるで何かが呼吸をしているみたいに。
いや、呼んでいるんだ。清音を。
違う、と梓は首を振った。清音は、あんなところには落ちない。巫女として、完全に変わる。でもそれは――。
梓の胸が、激しく痛んだ。
清音は梓の手を握って、静かに言った。
「もうすぐ夜が明ける」
その声は震えていた。
「祭りが終われば、すべてが終わる」
梓は清音の手を握り返した。
「だから――最後まで見届けて」
清音の指に、力が込められる。
「私が、どうなるのか」
「誰にも、ならないで」
梓の声が震える。
「清音のままでいて」
「……ごめんなさい」
清音が囁く。
「それはきっと、できない」
井戸の底から、また水音が響いた。今度はもっと大きく、もっと深く。まるで、何かが目を覚ましたみたいに。
月が雲に隠れた。井戸の闇が広がって、世界の輪郭が溶けていく。
風が止んで、森のざわめきも消えた。残ったのは、水音と、二人の鼓動だけ。
梓は清音を抱きしめたまま、その音に耳を澄ませた。
これが、封じの井戸。永遠の地獄。でも、清音はここには落ちない。もっと別の、もっと恐ろしい場所へ。
遠くで、夜鳥が一声、鳴いた。その響きが、哀しげに森に木霊した。
清音が囁く。
「これで全て話したわ……後は」
清音の言葉を継いで、森の奥から誰かが姿を現した。
「後はわしの仕事じゃな」
それは神官服を纏った、清音の父親。いや――梓と清音の、父親。
虚木清一だった。
§ § §
【筆者後書き】
すべてのなぞ あきら……か
もうすこしでかきおわる
にくゑは、でんぱする、ふうじたの
……いたい
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