古井戸 弐
涙が、清音の頬を伝い落ちる。
「それが、私にできる唯一のことだった」
梓の胸が、激しく痛んだ。清音は、二人を殺した。でもそれは――。
「他にも、たくさんいた」
清音が井戸を見つめる。
「歴代の巫女候補。順化に失敗した子供たち。大人になってから崩れた村人たち」
風が吹いた。
井戸の蓋の隙間から、白い指が一本、ゆっくりと伸びてきた。
関節がいくつも、いくつも連なっている。普通の指の三倍はある長さ。骨が透けて見える。爪の先に、小さな口がある。
その口が、声にならない声で呻いた。
あ……い……し……て。
「時折、井戸の結界を抜け出して村を徘徊することもあるわ。皆には見えないようにしているけれど」
梓の喉が凍りついた。
次の瞬間、もう一本。また一本。
白い指が、何本も何本も這い出してくる。それぞれの指先に口があり、目があり、耳がある。すべてがばらばらに蠢いて、呻いて、叫んでいた。
たす……けて。
いた……い。
さむ……い。
ころ……して。
梓の膝が震える。
その指の一本が、梓の足元に這い寄ってきた。ぬめぬめと地面を這う音。湿った肉の匂い。腐った果実のような甘ったるさ。
冷たい。生きているのに、死んでいるような冷たさ。
梓は後ずさろうとしたけれど、足が竦んで動けなかった。
指が、梓の足首に触れた。
その瞬間――映像が脳裏に流れ込んできた。
少女の顔。泣いている。
(お母さん、痛いよ)
身体が歪んでゆく。背中から、何かが膨れ上がる。骨が軋む音。肉が裂ける音。皮膚が破れて、その下から白い塊が溢れ出す。
目だ。無数の目が、少女の背中から生えている。
少女が悲鳴を上げる。
(やだ、やだ、やだ!)
村人たちが少女を取り囲む。誰も助けない。ただ、見ている。冷たい目で。諦めた目で。
少女の父親が、娘を抱き上げた。泣きながら。
(すまん……すまん……)
井戸の縁に立つ。少女が父親にしがみつく。
「お父さん、お父さん!」
父親が、娘を手放した。
闇の中へ、落ちてゆく。
お父さん!
助けて!
痛い、痛い、痛い――!
水音。そして、肉が潰れる音。
でも、死なない。再生する。また崩れる。また再生する。
永遠に。
「やめて!」
梓が叫んだ。涙が溢れて止まらない。
指が離れて、映像が途切れる。梓は膝をついた。震えが止まらない。胃の中のものが、口から溢れそうになる。
清音が梓の前に立った。その背中に、小さな目がいくつも浮かび上がる。巫女装束の布地を通して、うっすらと輝いている。
「下がって」
清音の声が響く。
白い指が、一斉に清音へと向かった。でも清音に触れる直前で、ぴたりと止まる。まるで清音を恐れているみたいに。
いや――清音を、認識しているんだ。巫女として。にくゑに選ばれた者として。
指の一本が、おずおずと清音の足元に触れた。まるで、犬が主人に媚びるように。
清音がゆっくりと手を伸ばす。指の先端が、清音の掌に触れた。
清音の目が、一瞬光った。青白い、冷たい光。
白い指が、するすると井戸の中へ引っ込んでいった。他の指も、それに続く。まるで潮が引くみたいに。
やがてすべての指が消えて、井戸は再び静寂に包まれた。ただ、ごぼごぼという水音だけが響いている。
「不思議ね。梓にも見えたのね? 彼らの記憶が」
「……うん」
梓は膝をついたまま、震えていた。
清音が振り返る。その瞳には、もう人の色が薄かった。月光を映して、どこか透明に見える。
「これが、封じの井戸」
清音の声が静かに響く。
「なりそこないたちの、墓場」
梓は震える手で清音の裾を掴んだ。
「大人でも、なりそこなうことがある」
清音の声が続く。
「一度は順化できても、何かの拍子に崩れる。心が、にくゑ様を拒絶してしまう」
清音の肩が震えた。
「そうなったら、もう止められない」
梓は立ち上がって、清音の手を握った。
「あなたは……大丈夫なの?」
清音が微笑んだ。その笑顔が、あまりにも儚くて、梓は泣きそうになった。
「私は巫女。完全に変わることができる」
でも、その声は震えていた。
「なりそこなうことはない。ちゃんと、にくゑ様と一つになれる」
「一つになるって……」
梓の声が掠れる。
「それって……」
「そう」
清音が梓を見つめた。その瞳に、深い恐怖が宿っている。
「私という存在が、消える……この身体は消えてしまう」
梓の息が止まった。
「にくゑ様に飲み込まれて、溶けて、混ざって――もう、私じゃなくなる。そして次の巫女が産まれるまでにくゑ様の中で支えるの」




