古井戸 壱
森の奥は、静かだった。
風も止んでいて、虫の声すら聞こえない。清音は灯を持たずに、月明かりだけを頼りに山道を歩いていた。
梓はその背中を追いながら、何度も息を呑んだ。闇の中で清音の髪が白く浮かび上がっている。まるでこの世のものではないような光を帯びて。
さっきまで、この髪に触れていた。この髪の匂いを嗅いでいた。梓の指先には、まだ清音の感触が残っている。冷たくて、柔らかくて、震えていた肌。抱きしめたときの体温。唇を重ねたときの吐息。
すべてが、まだ生々しく残っている。
けれど今、目の前を歩く清音の背中は、どこか遠かった。もうこの世界の住人ではないみたいに。梓の胸が締め付けられる。
村の端。祠のある洞窟に向かう小道を脇にずれる。するとそこには、古い石組みの円があった。元々は社務所であったであろう廃屋が、井戸の向こうにその影を見せていた。
「――ここ?」
「ええ、見せたいものは、この井戸」
地面に沈むその口は、夜の海のように黒い。「危険・立入禁止」と書かれた札が錆びた針金で結ばれて、風に揺れている。
音がした。
ごぼ、ごぼ、と。
底の見えない闇から、泡が弾けるような音が響いてくる。
近づけば近づくほど、空気が冷たくなっていった。夏の夜なのに、ここだけが冬みたいだ。梓の足元で霜が光っている。草が凍りついて、白い結晶を纏っていた。
息を吸うと、鉄の匂いと、蜜のような甘さが鼻を刺した。
吐き気がこみ上げる。梓は喉を押さえた。それでも足は止まらなかった。引き寄せられるみたいに、井戸へと近づいてゆく。
「ここは、封じの井戸」
清音が囁いた。その声は、どこか遠くから聞こえるみたいだった。
「変わりきれなかった者たちを、封じる場所」
梓の足が止まる。
井戸の縁から、細い水蒸気のようなものが立ちのぼっていた。白く、ゆらゆらと形を変えながら、夜気に溶けていく。その中に、人の顔のようなものが見える。歪んだ口。溶けた目。叫んでいるみたいな表情。
梓の胃の底が、すっと冷えた。
「変わりきれなかったって……?」
梓の声が震える。
「にくゑ様とひとつになれなかった者たち」
清音が振り返った。月光に照らされた横顔が、涙に濡れている。
「儀式が終わる前に暴走してしまった子供たち。順化の途中で失敗した大人たち。中途半端に変わってしまった、哀れな魂」
清音の声が震えた。
「彼らは、にくゑ様とは繋がれない。でもにくゑ様と同じように永遠を生きる」
梓の喉が渇く。
「永遠? 不死……なの?」
「いいえ、火で滅することは出来るわ。そうすれば死ぬ……でもそれは出来ないの。彼らはにくゑ様と繋がっているから」
「繋がっている?」
「ええ、彼らを滅することは出来る。でもそれをすると、にくゑ様が抑えきれなくなってしまう」
「どういうこと?」
「彼らは、にくゑ様の力を少しずつ受け止める、栓のようなもの。一人焼けば、その分だけにくゑ様の力が地上へ溢れる。それを鎮められるのは、巫女の体だけなの」
「……巫女の」
「だから、これ以上、栓を減らせない。私にとっては、それが判断のすべてよ」
清音の目が、虚ろに井戸を見つめた。
「だから殺せない。封じるしかない。この井戸の底に、永遠に」
永遠に、という言葉が、梓の胸に重く沈んだ。
「それって……さっきもそういってた……でもそんなこと……」
「寛永の頃の子供が今でもここに出現することがあるわ」
清音が悲しげに首を振った。
「彼らは死ぬことすら許されない。ただ、闇の中で再生と崩壊を繰り返すだけ」
それでは、自分が見た、あの子供は――。
梓は震えた。想像しただけで、吐き気を覚えた。
自分の身体が崩れてゆく。痛みに悶えながら、再生する。また崩れる。また再生する。終わりなく、永遠に。
見てはいけない。近づいてはいけない。直感がそう叫んでいるのに、足が動いた。一歩、また一歩と井戸に近づいてゆく。
覗き込もうとした瞬間、清音が梓の手首を掴んだ。
「見てはだめ」
その指先は氷のように冷たくて、骨ばっていた。
さっきまで、この手が私を抱いていたのに。
梓は首を振った。
「知りたいの。あなたがずっと抱えてきたものを」
清音は黙った。その瞳に、深い悲しみが宿っている。
「美穂ちゃんと、健太くん」
梓の声が掠れる。
「二人も……ここに?」
清音が目を伏せた。
「いいえ」
その声が震える。
「二人は、まだ間に合った」
「間に合ったって……?」
「あのままなら、二人はなりそこなうところだった」
清音の手が、梓の手首を強く握る。
「順化に失敗して、中途半端に変わって、そして――この井戸に封じられるはずだった」
梓の息が止まった。
「だから、その前に」
清音の声が途切れる。
「眠らせた」
――眠らせた。
その言葉の意味が、ゆっくりと理解できてきた。
「永遠の苦しみを味わわせないために。人の心が残っているうちに、せめて安らかに」




