忘却の朝 肆
清音がもう一度頭を下げ、教室を出ていった。
扉が閉まる音。
静寂。
あゆみは一人、夕陽の中に取り残された。
机に手をついた。
膝が震える。
立っていられない。
崩れ落ちるように、椅子に座った。
そのまま、机に突っ伏す。
目を閉じても、清音の言葉が耳に残る。
――あゆみは、梓じゃないから。
――だから、ダメ。
あゆみの指が、机の端を掴んだ。
爪が、木に食い込む。
胸の奥から、何かが湧き上がってくる。
熱い。
灼けるように熱い。
それは悲しみではなかった。
――梓。
あゆみの脳裏に、梓の顔が浮かんだ。
いつも困ったような顔をしている。
おどおどして、自信がなさそうで。
どこが良いのか、あゆみには分からなかった。
あんな子が。
あんな、何の取り柄もない、東京から来ただけの子が。
――清音を奪った。
あゆみの胸の奥で、黒いものが渦巻く。
それは嫉妬だった。
そして、憎悪だった。
「梓さえ……」
あゆみの口が、呟いた。
「梓さえ、おらんかったら」
言葉が、自然に溢れてくる。
「清音は、私を見てくれたのに」
あゆみの目から、涙が零れた。
でもそれは、悲しみの涙ではなかった。
もっと黒く、もっと重い感情。
「どうして……どうして梓なん?」
あゆみの声が震える。
「私じゃ、ダメなん?」
答えは、返ってこない。
ただ、夕陽だけが、あゆみを照らしていた。
その光は、まるで血のように赤かった。
あゆみは顔を上げた。
涙で濡れた頬が、夕陽を反射する。
その目には、もう悲しみはなかった。
ただ、燃えるような憎しみだけが宿っていた。
「梓さえ……おらんくなったら」
その言葉が、教室に響く。
誰も聞いていない。
ただ、夕陽だけが、その言葉の証人だった。
あゆみは立ち上がった。
涙を拭う。
鏡を見る。
顔は、いつも通りだった。
笑顔を作る。
完璧な、明るい笑顔。
誰も気づかない。
この笑顔の裏に、何が渦巻いているか。
あゆみは教室を出た。
廊下を歩く。
笑顔で、手を振る。
「またね」と言って、友達と別れる。
誰も、何も気づかない。
あゆみの心が、壊れていることに。
あゆみの中で、愛が憎しみに変わったことに。
夕陽が沈んでいく。
闇が、村を包み始める。
あゆみは一人、家路についた。
その影が、長く伸びている。
まるで、何かに追われているように。
いや――。
追っているのだ。
あゆみは、もう決めていた。
梓を、この世界から消す。
そうすれば、清音は自分を見てくれる。
そうすれば――。
あゆみの笑顔が、登り始めた月明かりに浮かび上がった。
その笑顔は、どこか歪んでいた。
美しく、そして――恐ろしかった。




