忘却の朝 参
放課後の教室は、夕陽に染まっていた。
机の角が赤く光り、黒板の文字が長い影を落としている。
窓の外では、蝉の声が狂ったように鳴いていた。
あゆみは廊下に立ち、清音の後ろ姿を見つめていた。
白いセーラー服。
長い黒髪。
背筋の伸びた、凛とした立ち姿。
美しかった。
いつ見ても、胸が苦しくなるほど。
あゆみの心臓が、早鐘を打つ。
今日こそ。
今日こそ、伝えなければ。
この気持ちを。
ずっと、ずっと抱えてきた想いを。
邪魔な梓が先に帰ってしまった今日がチャンス。
思いを定め、帰り支度をしている清音に歩みよる。
「清音」
声をかけると、清音が振り返った。
その瞳が、あゆみを映す。
あゆみの息が、止まりそうになった。
「あゆみ? どうかした?」
清音の声は、いつも通り優しかった。
柔らかく、穏やかで。
その声を聞くだけで、あゆみの胸は満たされる。
「お話があるんよ。ちょっとだけ、時間もらえる?」
「ええ、構わないわ」
清音が微笑んだ。
その笑顔に、あゆみの頬が熱くなる。
二人は誰もいない教室に入った。
扉を閉めると、外の音が遠くなる。
夕陽だけが、二人を照らしていた。
あゆみは清音の前に立った。
手が震える。
喉が渇く。
言葉が、なかなか出てこない。
「あゆみ?」
清音が心配そうに覗き込む。
その優しさが、あゆみの背中を押した。
「私な、ずっと清音のことが好きじゃった」
言葉が、口から溢れた。
もう止められない。
「小さい頃からずっと。清音を見るたびに、胸が苦しゅうて」
清音の表情が、わずかに変わった。
驚き――いや、困惑。
あゆみは構わず続けた。
「昨日のこと、私だけ覚えとるんよ」
清音の目が、わずかに見開かれる。
「美穂と健太のこと。佐藤さん一家のこと。みんな忘れとるのに、私だけ覚えとる」
あゆみは一歩、清音に近づいた。
「それって、私が特別じゃからじゃろう?」
清音が、何も言わない。
ただ、あゆみを見つめている。
「清音が、私だけを特別に扱うてくれたんじゃろう?」
あゆみの声が弾む。
「記憶を消さんかったんは、私が大切じゃから。私が――」
「違うわ」
清音の声が、静かに響いた。
あゆみの言葉が、止まる。
「え……?」
「あゆみは、勘違いしてる」
清音の声は優しかった。
でも、そこに含まれる何かが、あゆみの胸を凍らせた。
「ええ、記憶は消さなかったわ」
清音が頷いた。
「あゆみが、覚えていたいって言ったから」
「それって……」
あゆみの声が弾む。
「そう。あなたが望んだから、叶えてあげただけ」
清音が一歩、下がった。
「それだけよ」
――それだけ。
その言葉が、あゆみの心に突き刺さった。
「で、でも」
あゆみの声が震える。
「それって、私が特別ってことじゃ……」
「特別ね」
清音が頷いた。
「でも、私が望んだ特別じゃない」
あゆみの足元が、ぐらりと揺れた。
「ごめんなさい、あゆみ」
清音の声が、遠くなる。
「でも、私は……」
清音が目を伏せた。
その表情に、迷いが浮かぶ。
やがて、清音は顔を上げた。
その瞳は、どこか決意に満ちていた。
「あゆみは、梓じゃないから」
世界が、止まった。
蝉の声も、風の音も、すべてが消えた。
「だから、ダメ」
清音の声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「え……?」
あゆみの口が、勝手に動く。
「梓……じゃない……?」
「ええ」
清音が頷いた。
その表情に、一片の迷いもない。
「私が愛してるのは、梓だけ」
あゆみの視界が、歪んだ。
「あゆみのことは、友達として大切に思ってる。でも、それ以上じゃない」
清音の声が続く。
一言、一言が、あゆみの胸にナイフのように突き刺さる。
「ごめんなさい」
清音が頭を下げた。
「あゆみの気持ちには、応えられない」
あゆみは何も言えなかった。
言葉が、喉に詰まって出てこない。
清音が顔を上げる。
その瞳に、哀れみが浮かんでいた。
――哀れみ。
その感情を読み取った瞬間、あゆみの中で何かが音を立てて砕けた。
「そう……そうなんじゃね」
あゆみの口が、勝手に笑った。
「清音は、梓ちゃんが好きなんじゃね」
「ええ」
清音が頷く。
その仕草が、あまりにも自然で。
あまりにも、当然のことのようで。
あゆみの胸が、激しく痛んだ。
「ごめんなさい」




