忘却の朝 弐
――朝の教室。
梓は鉛筆を握ったまま動けない。
夜が明けてから、まだ朝が来ただけなのに、誰も何も覚えていない。
あゆみが手を挙げ、笑顔で発言する。
声は明るく、表情もいつも通り。
けれど、彼女の瞳の奥には、かつての友人を失った影さえなかった。
(清音の言葉は……ほんとうだったんだ)
世界のほうが、記憶を消してしまった。
その事実を理解するたび、心臓がひやりと縮む。
§ § §
昼を過ぎると、初等部の子供たちが教室に合流してきた。
机を寄せて合同授業になる。
小さな子が弾む声で言う。
「お祭り、もうすぐなんよ!」
拍手が起こる。
「今年は白い着物なんじゃって」
「お菓子もいっぱい出るけぇ」
紙飾りや赤い紐が机に並び、部屋は一気に賑やかになった。
あゆみが微笑んで振り返る。
「ねえ梓ちゃん、楽しみじゃろ? 今年の主役はウチと梓ちゃん、そして、清音じゃけん!」
梓は言葉を失った。
その笑顔が、どこか清音に似ていた。
(どうして……こんなに嬉しそうにできるの)
子供たちの声が高く響く。
――夏の陽射しの下で、誰もが笑っていた。
三度ずつ。
§ § §
放課後の陽射しは、どこか白んでいた。
蝉の声が遠くで響き、風がひときわ乾いている。
分校を出た梓は、そのまま山道を下りて診療所へ向かった。
昨日と同じ道のはずなのに、景色が少し違って見えた。
瓦屋根の影が浅く、風の匂いも軽い。
誰も彼も、少しずつ別の人間にすり替わっていくような気がした。
玄関の戸を叩くと、すぐに吉川が顔を出した。
「どうしました?」
柔らかい笑顔。
昨日、床に崩れ落ちた男の顔ではなかった。
白衣の袖をまくり、手首に小さな赤い跡が見えた。
梓の胸がきゅっと縮む。
「先生……昨日のこと、覚えてますか」
「昨日?」
吉川は軽く首を傾げた。
「何かあったかな。最近、暑さのせいで頭がぼんやりしてね」
その言い方が、あまりに穏やかで、恐ろしかった。
まるで忘れたというより、書き換えられたみたいに。
「……佐藤さん。俊夫さんと、沙織さんのことです」
名前を出した瞬間、吉川の表情がわずかに動いた。
だがそれは、懐かしい歌を思い出すような、薄い笑みだった。
「――ああ、そんな名前の患者さんがいたような気もするな。でももう、帰られたんじゃないかな? 確か村に移住してきたけれど、空気が合わないとかで……」
梓の喉が凍った。
嘘だ。先生まで……記憶を書き換えられている……。
その言葉の下に、血の色をした沈黙が見えた。
「先生……ほんとうに、何も覚えてないんですか。健太君のことも美穂ちゃんのことも?」
「健太? 美穂? どこかで聞いたことがあるような……」
「私のことも! 一緒に祠に行きましたよね!? あの夜!」
「祠? 梓さんと?」
「そう、先生はあの夜から私のことを梓って呼んでくれたんですよ!」
「――祠……沙織さん……にくゑ……あ、うぅッ!」
吉川の瞳に、何かが浮かび上がったかと思った其の瞬間、彼は頭を押さえてうずくまる。
「せ、先生!?」
「大丈夫です。不意に頭痛が……」
――やがて起き上がった吉川は一瞬、不自然に優しい目で梓を見つめた。
「疲れてるんだね、矢野さん。無理をしちゃいけない。この村では、よくあるんだ。夢と現実の境があやふやになることが」
その言葉を聞いた瞬間、梓はぞっとする。
それは清音の言葉と同じだった。
(みんな、すぐに楽になる)
吉川の手が肩に触れた。
温もりがあるのに、どこか死んだ体温だった。
指先が紙のように乾いている。
「ゆっくり……休むことが大切だよ?」
梓は黙って頷き、診療所を出た。
戸を閉める音が、胸の奥にまで響いた。
坂道を降りると、村の家々の屋根が夕陽を受けて赤く光っている。
どの家の窓にも、柔らかな灯がともり、笑い声が漏れていた。
――まるで、昨日の血を照らすための光みたいに。
梓は歩きながら思った。
(もう誰も、わたしの味方じゃない)
頬を撫でた風が、生温い。
風の中に混じる甘い匂い――あの赤黒い瓶の匂いがした。
どこかの家から子供の声が上がる。
「お母さーん、祭りの準備できたよ!」
笑い声が続く。
それが遠ざかるほどに、世界が薄くなっていく気がした。
歩きながら、梓は胸の奥でそっと呟いた。
(私は……一体どうすれば……)




