追跡の開始 鉄道と舟艇と自動車
昭和の戦後と呼ばれる時代に建設された古いビルのなかにあるレストランは時空間が歪んでいて、そこだけが過去のある時間帯を繰り返している。亡霊の記憶がそのレストランの時空間を形作っているのだ。
登場人物たちは、亡霊の記憶の時空間と過去に現実であった時空間とをつなげているレストランを、何かの目的をもって一緒に行き来しようとする。
それは歴史を変えてしまうかもしれない危険な行為だ。そう分かっているはずなのに。
主人公らはライラー・マーの北西部を陸路で目指して出発しようとします。
===夫婦で入浴している頃に===
龍田丸がアングンに着く三日前、もう一人の八十島海人が若く見える元中佐とともにアングン北方二百六十キロほどにある陸軍航空隊基地の滑走路に降り立った。
滑走路はソッド・ストリップ(sod strip)と呼ばれる、芝や草地をそのままローラーで圧して平坦化しただけの簡易なものだ。
神戸の保税倉庫街で謎の男たちと戦った方の八十島海人と若く見える元中佐だ。元中佐はなぜか少佐の階級章を付けている。
飛行機による移動は将官級でも異例であり、戦闘作戦外使用は余程の事だと想像された。
しかし、既に何者かの指示で基地にはくろがね四駆が差し回されていたし、八十島がそれを運転して二人は誰にも面会することなく基地の敷地を飛び出して行った。
極秘任務なのだろう、目的も目的地も、同行者すら、基地関係者に知らされていない。
基地には車と装備のみの準備が命ぜられ、車が基地を出るまで飛行機にすら近づくなと命令されていた。
===追跡の始まり 鉄道===
アングン駅は野原にあった。駅舎どころかあたり一帯が日本軍の資材集積基地になっていた。
もちろん、元の世界で因幡ビルのあったあたりも自動貨車が行き交い、資材の積み下ろしに勤しむ兵士や軍属の活気に満ちていた。
八十島にとっては、周囲にある物や人の様子の何もかもが珍しく感動を呼ぶものであったが、それを口にせず、驚きや感動の表情を隠している。
『「まじで!?」「うそやろ!?」などと口走ったら未来人丸出しや、変な疑いをうけてまう、へたしたらスパイ扱いや、気ぃつけんとな』
八十島夫妻は十一月五日の未明にアングン駅から北方に向かう物資を運ぶ列車群のひとつに乗車しようとしている。まずは、十時間以上をかけてプーラムに向かう。
北方に向かう貨車は、荷物を満載しては次々と出発している。到着便は暫くないと聞く。
八十島は商工省から帝都物産に派遣された役人として軍需物資の調達実体調査のためにライラ・マー内の帝都物産の物資の集荷集積拠点を巡回する名目を与えられた。
紅葉は、商工省付き看護婦の身分で帝都物産のダンガット駐在事務所に巡回衛生指導の名目で行く。
ちなみに、正式には十二月一日付で八十島は商工省が改編されたのちの軍需省ライラ・マー担当官として、妻の紅葉はその通訳秘書兼看護婦として夫の八十島に帯同されるということになっている。
もちろん二人も、手配した元中佐も、そんな辞令は名目で、最初からずっと離れることなく一緒のつもりでいる。
帝都物産アングン駐在山口所長も、バンコック駐在の応援者、岩田、北村も同行する。
船を使えないので山脈越えとなったが、時間がかかることだろう。気は焦るが軍の都合が全てに優先するのがこのご時世である。
紅葉は男装をしている。
色々な書類を持たされ携行食や着替え等をズック製の背負い袋に入れ水筒を持つ。
そんな旅では、軍属と同じ服を着て、男装する方が便利なのだ。
八十島は開襟カッターシャツだ。エリート官吏の威儀を示すためで、この集団を率いていると外見で分かるようにという事らしい。
汽車はアングン駅から夜明け前には出るとのことで、プーラム到着予定は夕方という事以外は分からない。正確な情報は鉄道連隊だけが知っているのだ。
八十島たちが乗る「客車」は実は貨車のひとつに藁ぶき屋根がついけているのを「客車」と称している代物だ。
屋根は藁とニッパヤシの葉で葺いただけの簡易な日よけ兼雨除けで、それを合掌造りのように竹製の棟と垂木で支えている。
側面も竹柱で出来ている。下のほうの腰板と呼ばれる部分だけ、木板で人が落ちないように囲ってある。当然、ガラス窓はなく、格子状に組まれた竹や板が側壁兼車窓兼扉になって、転落防止の役割もしている。その主な役目は空調で、風を入れることだ。
側面の竹柱の上部には雨が降って来た時に直ぐ使えるよう、筵が巻き上げられている。雨が降ってきたらそれを垂らして壁にするのだ。
床は藁を一面に敷いて、それを客席と称している。
まだ太陽は登っておらず、夜明け前の薄闇の光りが、簡易客車の中を横から照らしている。
帝都物産の駐在所長山口が肩掛け鞄二つを結ぶように縄をかけ、それを両側壁に渡しかけている竹の梁に吊るす。
バンコック支社の二人も真似て自分たちの肩掛け鞄を竹の梁に吊るした。
手元に残った大きな背負い袋のズックを背もたれにして水筒を手元に抱き抱えるようにして藁敷の床に座わる。
「こうすると背もたれもできるし足元が空いて楽なんですよ。距離のわりに何時間かかるか分からない長旅ですからね」
と山口。
先に「汽車」と表現したが八十島たちの乗った「客車」や貨車を引っ張る動力車は現代の我々から見ると、どこからどう見てもトラックとしか言いようがない。
当時の言葉でその動力車の事を牽引車といった。
その牽引車は九五式装甲軌道車といった。それが自称客車を含めて六両ほどの簡易貨車を引っ張っていくわけだ。
ようやく鉄道兵が笛を鳴らす。
出発だ。
外で出発を待っていた男達が慌てて客車に入ってくる。
靄のかかる湿気の中をゆっくり九五式装甲軌道車が動き出す。
発動機の鼓動が重く湿った靄を身震いさせる
キイイン、キイイン
鉄輪がレールを鳴らす
旋回架がガチャガチャ、キーキー軋む
懐かしい排気の匂いがする
ガソリン臭だ
元の世界で遠い昔に嗅いだと思う
ソレは記憶だろうか
本の中での疑似体験だろうか
蒸気機関ではなく
ディーゼルでもなく
ガソリンエンジンで動いている。
気持ちよく風が室内に吹き込んで来た
客車には他に同乗者が二十人ほどいた。
女四人と軍属が十人と兵士が少しだ。
占領地の戦場に女と言えば看護婦か慰安婦と思われた。彼女らは女性で軍の鉄道を優先して利用できる特権を持っていると言ってよい。
軍属は山口らの同業者が多いだろう。
おそらくはこの列車で運ばれる資材の関係者だ。
他の貨車に何が積まれて乗客がどういう人間かは知りようがない機密事項だ。
だが鉄道を破壊工作や襲撃から護る鉄道連隊所属の兵士もこの列車のどこかに同乗しているはずだ。
「珍奇でしょう。この九五式という装甲軌道車は。この国、ライラ・マーにこれ1台だけだそうです。写真でも見たことが無いでしょ。秘 密 兵 器 だから。そういう話ですよ」
と山口。
タイから来た岩田と北村も初めてのようで興味深く聞いていた。
『あの変な汽車というか、トラックを見て珍しそうに「ほーっ!」と驚いてもええ場面やったんやな。珍しくないような振りしとったけど。素直に感心した顔して聞いてみよ』
と思った八十島
「ガソリンの匂いしてましたけど。揮発油で動かしてるんですね」
北村が答える
「東京の本省から来た八十島局長さんらには珍しいでしょう。本土以外の鉄道は軽油で動くもんが多いんですよ。私もタイに来て初めて知った口ですけど。貨車もそうなんですが、機関車は軽くて悪路でも走れるのが良いんだそうです」
紅葉が
「悪路って線路が、ですか」
笑い顔で岩田が
「線路が無くても走れるという事です」
続けて得意顔で説明を続ける
「線路も道路も、どころか、この九五式は無限軌道で走れるらしいですよ。まさにこっちの環境に最適で、泥沼もでこぼこ道も走れる世界で唯一の装甲軌道車という事で。大日本帝国の秘密兵器だそうです」
へぇーと八十島と紅葉が驚いた顔。
「岩田君、それ大きな声で口にしたら…」
と山口。
「おっと、ここにはスパイはいませんよね」
「岩田さん、それ、そのスパイ発言も時と場所をわきまえてくれないと」
北村は兵隊がいるほうを見て首をすくめる。
岩田と北村はいいコンビのようだ。
外の風が側面から車内に吹き込むこの環境では一間も離れれば聞き咎められることはない、それが分かっていて軽口を叩いているのだ。
隣にいる紅葉が「無限軌道」とはキャタピラーのことですと耳打ちしてくれた。
『そうか、「無限軌道」はキャタピラーか、わかった。でもおかげで知りたいことが減らずに、増えてもうたぞ。鉄の車輪をどうやってキャタピラーに履き替えるんやろ、鉄輪回すんとキャタピラー回すんでは動力を伝える下回りの構造が大分違ってくるやろうからな』
八十島はそう思ったが、この世界に来てからの習い性、疑問をすぐ口にせず、いつものようにそのまま腹に飲み込むことにした。
おそらくだが、この秘密兵器は北方のジャングル地帯の道なき道で使われる予定なのだろう。積み込む資材や人間より、この牽引車こそが最大の機密なのかもしれない。
やがて日が昇り、薄暗い車室が明るくなる。
右側面から太陽の光が入って来た。
簡易客車の壁は竹格子で出来ている。
その影が乗客全てに飛びかかって、皆の顔や服に弁慶格子模様の影が映る。
小さな村の前を弁慶格子模様した列車の影が通り過ぎようとしている。
子供たちが一斉に出て来た。
「村にあるのと同じ、藁と葉っぱと竹で出来た家が、大蛇に乗って動いている」
とでも思っているのだろう。
こちらに手を激しく振って、飛び跳ねるように見ている。
彼ら子供たちが見ているのは未来の夢だ。列車が国内の色々な場所を走っている姿やそれに乗っている自分たちを夢見て飛び跳ねているのだろう。
八十島は、竹格子の隙間からその景色を眺めて
『貨車の外側だけでなく、内側の人々も、ここの全てが、遥か遥か、遠く遠く、時間と距離が離れた空間なんや。ここにやって来た僕と紅葉はこの世界の異分子で、本当はここにいるはずのない人間なんや』
と今さらながらの奇妙な現状を、ギリッギリッと奥歯で噛み締め、叫びたくなる気持ちを押し潰すのだった。
列車は北に向かっている。八十島らが降車したあと、どこまで北に行くのかは知らない。
===舟艇の中===
プーラムには夕方早くに付いた。僕らはここで降りて、乗り換える。
プーラム駅で自動貨車と呼ぶ軍用トラックらしい軍用トラックが大河の渡し場まで連絡していた。
八十島らは、そのまま川向こうのさらに北方にある自動車部隊に合流しようというのだ。
日が暮れる前に川船から資材を積みかえようと忙しく働く人々を横目に、対岸に舟艇で渡る。
舟艇では、汽車で同乗した女性4人と軍属2人と一緒になった。
その女の一人が陽気に話しかけてくる。
「遠目でみたら、えらい、いい男が乗ってはるなと思うたら、女の人でしたか。ほらほら、あっちに長谷川一夫みたいな男前が乗っているよとゆうて、うちら四人で話してまして。近くで見たら、あら、また、李香蘭さんみたいな別嬪さんですから、ほんまにびっくりしました。本当に天女のような」
珍しくも言葉に詰まって返事ができない紅葉に代わって、岩田が、答える。
「こちらは、商工省の局長とお付きの秘書通訳兼看護婦さんです。この仁王さんみたいな人の奥様ですよ」
すると、話しかけた女に代わって、その連れの男が
「仁王さんに天女さんですか。こりゃえろうついてますがなー。道中安全にご加護がありそうですわ」
と続けて、話しかけた女に
「これこれ、本省の役人の局長さんゆうたら師団の連隊長より偉いお人や。失礼の無いように。その秘書さんいうたら大尉さん並みや、そないに気安うしとったらあかん」
と同じおどけ口調で叱る。
「かたいこと言わんでもええよ。旅は道連れや。ただせっかく褒めてもろうても、何にも 出 ん け ど な」
と、八十島。
「局長」と煽てられ、美人秘書を連れて、いい気になっている。
紅葉は無言で微笑んでいる。
八十島は、紅葉の緊張した笑顔を
「突然、当代の美男美女に例えられて、どう返事していいか分からんなったんやろ。褒められたから気分はええんやろけどな」
とそう解釈していた。
だがそうではなかった。
紅葉が耳打ちする
「気が付きましたか?彼女らのなかに因幡結枝と槙葉のふたりがいますよ。まだわたしも八十島さんも知らない頃の姉妹です」
「紅葉さん、気ぃが付いたんか、さすがやな」
八十島はそう返事したが、嘘である。
気が付かなかったから平静を保てたのだった。
だが、動揺をみせることなく、平静さの意味をすり替えたのは流石と言ってよいのだろう。
怪我の功名に過ぎないともいえるが。
舟艇で渡る「象の川」という大河は満々と水をたたえて流れているのが分からないくらい微かに緩やかに流れていた。
向こう岸はなかなか見えてこない。河幅が三~四キロもあろうかという大陸の大河だ。
昭和二十年の五月、雨期の走りのころ、この大河も西から東に渡りたくて渡れなかった日本の敗残兵たちが英軍の攻撃を受けて大勢死んでいる。
工兵隊が退去する前に渡河地点に来られなかった(二百キロメートルを不眠不休でろくに食事もせず歩きとおした、ほぼ戦闘力の無い)兵らが川の西岸に取り残され、英軍の飛行機と戦車で何度も波状攻撃を受け続けた。
実は八十島は隠れ家レストランで会った英霊からその悲劇も聞いているはずだ。
しかし八十島は、目の前の穏やかな大河と悲劇とを結び付けられなかった。
遠い昔にいる八十島の近未来に起きる出来事だ。
渡り着いた西岸でも川船から資材を積み替える人々がいる。
こちらは自動車で山越えをする物資の集積場のようだ。
どこに持って行く補給品なのか、北に行くんなら建設中の鉄路があるのに。こっちの岸から道は何処に繋がってるのか、補給路と言うのは複数確保しとくという事かな。
戦後、ライラ・マーにおける戦争では「補給」「兵站」という語句は忘れ去られていたと反省がなされた。
「困苦欠乏に耐える日本軍」「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならない」という精神論が「腹が減っては戦が出来ぬ」という現実の前では机上の空論以下の価値しかないものとして敗れ去った。
そのように結果論ありきで批判された。
だが、昭和十七年十一月に来た八十島の目には、現実的に考えられる着実で充分な補給と兵站の積み上げがあちこちでなされているように見えた。
『それでも足りんかったということやろうか』
その日は「象の川」近くの兵站まで自動車で行き、そこで宿と夕食を食べさせてもらう。
兵站に到着した時、因幡結枝と槙葉のふたりのいるグループと一緒だった。
彼らの目的地はその兵站部だったらしい。翌日の朝食時に姿は見えなかった。
===自動車部隊===
翌日、八十島らは大河の西岸をさらに北方に自動車で向かった。
目指す自動車連隊に到着した八十島と紅葉は懐かしい顔に出会った。辺見少尉だ。
彼は、辺見小隊とここで呼ばれている自動車部隊の小隊長をやっていた。
「連隊長からの指示で軍の特命で来られたあなた方を支援することになりました。辺見です。詳細を伺わせて頂きます」
と八十島ら五人を見ていうその声は明らかに警戒心に満ちていた。
この昭和十七年十一月初旬の時点では、辺見少尉は生きていている。
当然、八十島と紅葉にはまだ会っていない。
死後に初めて会うのだから、自分の運命も知らないのは当然だが、八十島は奇妙な感じがした。
紅葉と八十島は少尉の地金というか人柄を前もって知っている。八十島の心の中では好感度ナンバーワンの青年将校だ。
「ミンブからダンまでアラタン山脈を越えて行く。だから自動車に便乗したい」
と八十島が、会議の冒頭、皆が席に着くと同時に、いつも通り、気安く単刀直入に言う。
お茶を運んで来た兵隊が部屋の隅でお辞儀をして退室しようとしているのが、辺見少尉の背中越しに見える。
辺見少尉が、
「それは出来ない」
と強く言う。
「そこを何とか」
と八十島が言うと
辺見少尉はにわかに顔を真っ赤にして
「ふざけるな。無理だ!」
と叫ぶように大声を出した。
しばらく沈黙が続く。
少尉がお茶を飲んで表情を和らげて
「いや、失礼しました。局長にはダンまでの山岳ルートがどれだけ過酷なルートであるかご存じでしょうか」
八十島もお茶を飲む。
少尉が続けて小さな声で言う
「山口さんから、ある作戦のために極秘工事中と聞いているでしょうが、全く何もできていないのですよ。自動車で年明けまでに通れるようにしろと厳命されているんですが」
先程の大声は演技らしい。何のためなのかはわからないが、自動車部隊の都合だろう。
少尉は鯱張った態度を改めて、打ち明け話をするように続けた
「先の作戦の時に使った道があって、ある程度進めているのですが、未だに峠を抜けるとなると…。ここならいけそうだと山口さんに聞いた象の道を辿っているのですが、なかなか通り抜けられないのですよ」
八十島が
「象?」
と言いながら山口所長を「うん?」と見る。
帝都物産のライラ・マー責任者が頷く。
八十島の隣で紅葉までが頷いている。
『どうやら僕だけが知らない情報があるようやな』
「象と言うのはなかなか用心深い動物でして危険察知能力が強いので、山賊のような輩が出没するところ、敵ゲリラの匂いがする方向には決して進まないらしいのです」
と辺見が象を用いて峠越え道路を建設中の工兵部隊から聞いた話をする。
山口が辺見少尉に
「我々、実はその突破口を見つけましたので参上したのです」
と切り出した。
「峠を抜ける象道を知る協力者を見つけました。彼と三日後に連絡をとります。その案内人と連絡を取るため岩田と北村を連れてきています。案内人は印度国民軍の支援者です。我々は、連合国側がアッサムから支那に物資を運ぶルートを監視・遮断する必要から、数か月前からアラタン山脈の山岳路を横断移動して生活する部族の住人を味方に付けようとライラ・マー北部と印度アッサム州等で、工作を続けて来ました。その工作途上で有益な情報と手段を掴んだという事です。ある村の象使いと連絡を取りあっており…」
と、どんどん話を進める。
八十島は呆気にとられてただ話を聞いていた。
その日決定したことは、辺見小隊に自動車で行けるところまで運んでもらうこと、そこで動物隊と呼ばれる横断路建設の最前線部隊の少尉と話をして峠を越えられる方法について相談すること、ということだと八十島は理解した。
寝る前に紅葉がドラム缶風呂を馳走になっていた。
テント内に衝立をこしらえてもらって「基地内で女が風呂を使う」という噂が流れる頃には既に入浴も着替えも終わっていて、すっきりしていた。辺見少尉の配慮だ。
八十島ら男四人は翌朝の起床時に野外の矢倉に備え付けられたドラム缶の下でシャワーを順番に浴びるつもりだ。
通常、基地や兵站を臨時に訪れて泊まる者は軍人、軍属、民間人を問わず兵舎に寝かされる。
だが、八十島らの寝間はアラタン作戦時に医療班付き看護婦室として使用していた看護婦室を紅葉が独占し、医療班部屋に男4人が入って寝た。
ちなみにそのアラタン作戦は雨期でうまくいかなかったらしい。
ここにいた傷病者は医療班の軍医、衛生兵、看護婦とともに川の荷揚げ地にできた病院に移動済みなのだ。傷病者の使っていた病室は兵舎になっている。
『なるほど今日の女性たち、結枝と槙葉の目的地はその病院やったんやな』
寝る前に帝都物産の男三人が、実は日本軍の特務に従事している機関員だと八十島に説明した。
八十島は会議の後、急に口数が少なくなり、元気がなくなったらしい。
自分の口数が少なくなっていることに八十島自身が気付いたのは、彼らが「実は」と話をしてくれた時だ。
五人の中で名目上一番偉いはずの八十島だけが何も知らされず、先程の会議で口火を切って話を始めてしまい。マヌケ野郎に見えてしまったことを三人は真摯に詫びた。
彼らの間ではよくあることなのだろう、八十島のような立場に置かれた人の気持ちが分かるようだ。
工作員同士でも時間軸・空間軸によって共有できる情報と出来ない情報があって、その情報をいつどこで明かすかの「暴露のタイミング」はそれ自体が繊細な機微情報として管理されるのだという。
八十島は自尊心を捨てて身や命を守ろうとまでは達観していない未熟者にすぎないので、辺見少尉との会議で、自分の顔に困惑がありありと見えていただろうと思った。
「皆には気い使わせてもうたな。すまんこっちゃ。紅葉が僕にあの後、声をかけて説明せずにあなた方三人に説明をさしたんも、どうやら僕に対する心遣いやろ思う」
と演技している自分と本物の自分のギャップをわきまえていないことを反省の言葉にした。
『事情が飲み込めん事態に陥っても、表に出さず、腹に押し込んで、全ては我が掌の上にあるような太々しい演技が出来たら、僕もホンマの工作機関員やろけどな』
外に出ると、星が美しい。
遥か南東の地平線の上に 昴 の青白い光がはっきりと見える。
その西には紅く光るアルデバラン。
南の空は日本では日本ではあまりなじみのない星座たち。ほうおう座・ちょうこくしつ座・きょしちょう座。
天頂には大きな四辺形。
今日の会議と告白で、八十島は印度とライラ・マーの独立に関係ある何らかの作戦にも参加させられていると、初めて知った。
紅葉は特務機関内では、機関長の命を救った人物と噂されているらしい。それでも帝都物産の三人とはアングンの事務所が初対面という。
朝、自動車部隊の兵站で朝食を済ませ、弁当と予備の携帯食料まで持たされる。山越えに必要なものは先の動物隊でもらえると思うが念のために持って行けと言う。出発前には毛布も手渡された。これも辺見少尉の配慮だという。仕事のできる男のようだ。
動物隊とは山地の中腹に駐留の工兵隊の別名らしい。
その頃のアラタン州は英領支配が崩壊したことでイスラム教徒と仏教徒の衝突が日常的に起きていて、大変危険な土地だった。
そう、令和の今日も「少数民族の虐待による難民化」とマスコミが伝えるイスラム教徒と仏教徒の衝突は、昔からある根の深い問題なのだ。当時の英国はその対立を日本軍への牽制に使った。武器を与えて日本軍を攻撃させたのだ。
いまはどこぞの大国が同様な手段を用いライラ・マーとその周辺国を分裂させ、地域を混沌と化し、そこに党や軍の息のかかった武装集団や犯罪集団を置いて、売春、賭博、その他の非合法活動や薬物栽培販売や果ては武器売却までして、金儲けに利用している。
党内や軍内の権力闘争の資金集めは他国の権力者と協力するのが、党が国であるあの国の常套手段なのである。




