奥山紅葉の消滅
奥山紅葉と北村は因幡姉妹に虜にされたようです。
結枝と槙葉は北村が因幡風と知って誘拐して来たようですが、今、昭和十七年のライラ・マーにいる因幡姉妹は奥山紅葉に未だ会っていないはずです。
ならば、因幡姉妹は間違えて奥山紅葉を攫って来たのか?それとも何か誤解が?
時間旅行の謎のひとつが明かされます。
奥山紅葉が、回し蹴りのために上げた足を降ろしたのは木の床だった。
その一瞬前にパンと大きな音がして、次に何かが向こうの竹の柱に当たってパフと空気が抜ける音をたて落ちた。
標的の首根っこに、紅葉の回し蹴りがヒットしたのだ。
だが、落ちていたのは縫いぐるみだった。
「虎の子の縫いぐるみ?でございますか?」
虎の縫いぐるみは首がもげそうになって床に横たわっていた。
北村が紅葉のすぐ横にポッと現れた。
虎の子の縫いぐるみを抱きかかえて、後ろに転倒しそうになっている。
それを紅葉が支えようとしたが、間に合わず腰砕けになって尻餅をつく北村。
「おおっ、魂消た。おもぢゃの虎がぁ」
両手を伸ばしたままで尻餅をつき、その手にしっかりと掴んだ虎の縫いぐるみを見て驚く北村。
その言葉もいつもの東京の言葉ではなくなっている。
「北村さん、どこも痛めていませんか」
「局長秘書殿?大丈夫。んんでも、こごは?あれ?どうなってんだが?」
「それはあの人たちが説明してくださると思います」
木造家屋というよりは竹造りの建物だ。
床は木の板で敷き詰めてあるが、壁は腰の高さまでは竹と板材で囲まれているが、大きく吹き抜けた空間を、上部から簾で覆っているだけだ。
天井が無く、ヤシの葉っぱと藁で葺いてある屋根が見える。それは竹で支えられていた。
日本軍が使っていた野戦病院といったところだろう、しかもすでに戦傷者や病人は後方に移送済みと考えられる。
破れて使い物にならない蚊帳が一つ吊られている
その蚊帳の前に、二十歳前にしか見えない若い看護婦が二人立っている。
そう、野戦病院の推測ができる理由だ。
「風様、お久しぶりでございます」
「お義兄様、なぜ帰って来て下さらなかったのですか、なぜ私たちは、お義兄様が死んだという知らせを受け取らなければならなかったのですか・・」
因幡結枝が久闊の挨拶を告げ、因幡槙葉が早速感情をむき出しにして問い詰めようとする。
姉妹は、いつ現れたのでしょう。この部屋で待ち受けていたのでしょうか。
「だれだべが?いや失礼、どなたでしょうか?」
北村が、怪訝な顔を紅葉のほうに向けて、聞く。
紅葉が姉妹の姿に
「結枝様、槙葉様。現世のお姿では、風様も誰だか分からないようでございます」
結枝と槙葉、互いの目を見合わせて
「みちのくの ちがのうらにて ちよとつゆ おもひいずるは しおかぜの香か」
結枝と槙葉は、北村と紅葉の前で、たちまちのうちに姿を変化します。
ちよは文金高島田、つゆは長振り袖姿で、あの仙台師団の仲間たちで祝言を上げた日の着付けです。
「おちよ!それにおつゆか?」
「はい、お分かりいただけましたでしょうか。ちよでございます」
「お義兄様、義妹のつゆです。生きてお目にかかれて、うれしゅうございます」
「会いだがったぞ。ほんどに会いだがったぞ」
涙を流して近寄ろうとする北村、実は因幡風。
「はい、ほんに。もう私たち三人は、離れまへんよ。離してなるものですか」
と結枝と槙葉が言うと風が立ち止まり
「いや、印度を独立させねばならん」
「・・・」
「・・・」
「大東亜が、亜細亜の民族が、お互いに手を取り合って欧米の奴隷から、自分たちで自分の国を運営できる、自由の身にならねばならない」
と言い出す。
続けて、
「印度は大事なのだ、東亜が、亜細亜が、いや全植民地の独立のために、印度を独立させる必要があるんだ。日本の為にも大事だが、それ以上に有色人種全体のために大事なのだ」
結枝が恨み言を言う
「貴方様は遠い遠い昔、そう、承和の世の前世でも
『たち別れ因幡の山の峰に生ふる松とし聞かばいま帰り来ん』
と仰せになって、ついぞ松風、村雨の姉妹の前に姿を現しませんでした。
今度はちよとつゆを見捨てて、ちよとつゆの生まれ変わりの結枝と槙葉も見捨てると・・、
そうおっしゃるのですか。行平様、いや風様」
「行平?そんな人は知らないし、そんなことは知らない。見捨てるわけではない。生きていれば会えるぞ。『前世では』などとはあまりに未練であろう。それが本当のことであっても、先の世での幸せを追い求めるべきだろう」
「ああ、ああ、哀しいこと。どんなに待ち焦がれ、どんなに心配し続けたか。それでも一緒に暮らせないと・・・」
結枝が吐き出すように口にする。
「知らない」、「あまりに未練」、「先の世での幸せ」、それらの言葉で因幡姉妹の雰囲気ががらっと変わったのを察した紅葉が言う
「北村さん、いや因幡風さん、彼女らはとんでもない能力を使うのです。あまり理詰めに追い込んでは危険です」
槙葉がその紅葉の囁き声を聞いていた。
「黙れ!奥山紅葉。そちはこの北村が因幡風様と知っておったであろう。なぜすぐにつれてこない。連れて来れないまでも、帰れぬ理由と何処であったかを連絡してくれなかったのか。あの、うちらの、おとーはんとそんなに長くいたかったとでも言い訳するつもりなのか」
「結枝さん、槙葉さん、なぜわたしを知っているのですか、時系列的にはまだお会いしていないはずです。結枝さん槙葉さんとの約束はこれから起きる話のはずです」
この質問に対し槙葉が説明する。結枝は怒りで赤い顔をして言葉が出ないようだ。頻りに槙葉の言葉にうなづく
「おおー、そうであったな。元の世界の時間軸ではまだ会っていないが、時間旅行には矛盾解決の法則があってな、同じ時間帯に同じ人物が存在している場合には、矛盾が生じるのを避けるためにその人物の記憶が常に書き換えられているのじゃ」
紅葉
「一度目の昭和十七年の旅で出かけた因幡姉妹は、このわたしにまだ会っていないが、その姉妹は隠れ家レストランに戻って、わたしに初めて会う、その時に社員として採用を決めてから、改めて二度目の旅をした。その時に一度目の訪問時の因幡姉妹にその記憶が宿ったと?」
槙葉
「おお、素晴らしく察しが良いな。私たち姉妹は何度も転生して、何度も時間旅行してやっとわかったというに」
「どういう理屈で?」
「そこまで分からぬわ、時間旅行の物理学的権威ではないからな」
ここに八十島や紅葉のハンドラーがいたらこう答えるだろう
「素粒子物理学的には考えられる。素粒子は選択的に意志あるごとく態様を変えるからだ。この世界の観測者に同じものとして認識されなければ物質として矛盾が生じるのです」
その八十島や紅葉のハンドラーはいない。
物語は理解不能のままでも進む。
紅葉が言う
「では私を攫ったのは、間違いではなく、理由があってのことですね」
結枝は赤い顔をしたまま、まだ文金高島田姿のままだ、ライラ・マーは暑いだろうに。
「そうです、なぜ北村が因幡風と分かっていてすぐに連絡しないのかを知りたかった。私たちを裏切ったとはにわかに信じられなかったのです」
「結枝さん、槙葉さん、まさかあなた方の記憶に「因幡風の顔や姿や偽名を知っている奥山紅葉」が書き込まれるなどとは想像もつかなかったからです。おまけに元中佐から依頼された人道的な問題が絡んでいるのです。日本兵傷病者を少しでも救おうというミッションです。私の一存で、それを放棄して風さんをあなた方の下に送りつけるわけにはいかなかったのです」
因幡風氏は女三人の顔をかわりばんこに見続けている。
「何やら複雑な話をしてますが、ちよと結婚し、つゆの先々の幸せも面倒を見る。それを約束するのだから、任務を完遂させて欲しい。そうしてくれれば良いだけです」
結枝が、悲しみと怒りと絶望の入り混じった声で
「ちよとつゆは死んだのです。というか死ぬのです。昭和十八年の夏に愛する人が死んだという知らせを受けて、ショックを受けて貧乏な境遇で。死んだのは戦後、昭和二十年の九月です」
風が
「ちょっと待て、今は昭和十七年の十一月二十九日だぞ」
槙葉
「姉さま、そんな話をしてはいけません。時間旅行ができるとかしているなどと」
紅葉
「槙葉さん、あなたが時間旅行の話をし始めたのですよ」
結枝
「もうよい、風様には全てをお話して信じてもらうしかないでしょう。それに紅葉さん、あなたがそのきっかけを作ったのです」
紅葉
「わたしの話は、時系列の話で、それだけでは何を話しているかわからなかったはずです」
結枝と槙葉
「今さら何を言っても遅い」
結枝
「紅葉さん」
槙葉
「紅葉」
結枝と槙葉
「紅葉よ、消えよ!」
そうして奥山紅葉は虚空に消えた。




