第88話 燃える商都
アルマリクは、まだ落ちてはいなかった。
だが、無傷でもなかった。
ラクダ馬車が街へ近づくにつれ、空気の匂いが変わっていく。
砂の乾いた匂いの奥に、焦げた木材と油の臭いが混じっていた。
遠くで鐘が鳴っている。
祝祭の鐘ではない。
警告の鐘。
逃げろ、備えろ、まだ終わっていない――そう叫ぶような音だった。
リオは荷台の布を少しだけ持ち上げ、外を見た。
港の方角から、太い黒煙が空へと昇っている。
城壁の一部は砲撃で崩れ、門楼には黒い焦げ跡が残っていた。
道の脇には、壊れた荷車が横倒しになっている。
割れた水瓶。
焼け焦げた布袋。
捨てられた靴。
それでも、人々は動いていた。
避難する者。
荷物を運ぶ者。
土嚢を積む者。
泣く子どもの手を引きながらも、後ろを振り返って街を見る者。
アルマリクは壊れている。
だが、死んではいなかった。
「……ひどい」
ミラが小さく呟いた。
その声には怒りよりも先に、痛みがあった。
ファルトは拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「くそ……派手にやりやがって」
セフィーナは胸元で手を重ね、静かに目を伏せた。
風が、焦げた匂いを運んでくる。
アネリアの小さな羽が、かすかに震えた。
「瘴気も混じっているわ。まだ薄いけれど……嫌な流れ」
アストルはリオの肩に座ったまま、いつもの軽い調子を消していた。
「リオ……」
「うん」
リオは短く答える。
胸の奥が痛んだ。
間に合わなかったものは、確かにある。
けれど、目の前では兵士が土嚢を運び、片腕に包帯を巻いた商人が荷物を仕分け、市民たちが燃え残った木材を防柵へ運んでいる。
まだ、終わっていない。
なら――まだ、間に合うものがある。
馬車が臨時の検問で止められた。
槍を持った防衛兵が近づいてくる。
彼の頬には煤がつき、目の下には濃い隈が浮かんでいた。
「止まれ。所属と目的を――」
防衛兵の声は鋭かった。
無理もない。
この状況で、素性の知れない一団を通すわけにはいかないのだろう。
ダリウスは荷台から身を乗り出し、懐から小さな金属製の徽章を取り出した。
フェルメリア王国の紋章。
それを見た瞬間、防衛兵の表情が変わった。
「……フェルメリアの紋章」
兵士はすぐに槍を引き、深く頭を下げた。
「ああ……あなた方でしたか。お待ちしておりました」
「市長より通達を受けております。市長邸へご案内いたします」
別の兵士が馬車の横へ回る。
「馬車はこちらへ。お荷物は市長邸へ運んでおきます」
ダリウスは徽章をしまい、肩をすくめた。
「話が早くて助かるぜ」
リオたちは馬車を降り、兵士に案内されて門の内側へ進んだ。
門をくぐった先に広がっていたのは、傷ついた商都の姿だった。
石畳はところどころ砲撃で割れ、壁の欠けた建物には応急の板が打ちつけられている。
それでも人々は、走り、運び、叫び、支え合っていた。
その混乱の中を抜け、一行は市長邸へ向かう。
市長邸もまた、無傷ではなかった。
庭の噴水は砕け、外壁の一部には焦げ跡が残っている。
だが入口には兵士が立ち、使用人たちは慌ただしく行き来していた。
そこに、数人の護衛を連れた男が現れた。
上質な衣服は煤で汚れ、外套の裾は裂けている。
目元には深い疲労が刻まれていた。
それでも背筋は伸び、声は折れていなかった。
アルマリク自由都市市長――ザファル・ベン=カディール。
「フェルメリア王国の導き手殿か」
ザファルは煤に汚れた外套のまま、深く頭を下げた。
「このような形で迎えることになった非礼を詫びる」
「いえ……僕たちは」
リオは慌てて首を振る。
ザファルの視線が、リオの顔を一瞬だけ見つめる。
少年。
だが、ただの少年ではない。
煤と血の匂いが残るこの門前で、怯えるでもなく、逃げ出すでもなく、まっすぐ街を見ている。
そのことを、ザファルはすぐに理解したようだった。
そして、リオの少し後ろに立つ青年へ視線を移した瞬間、ザファルの眉がわずかに動いた。
「……お前」
疲れ切った顔に、一瞬だけ別の色が差す。
「ダラスのせがれのダリウスか!?」
ダリウスは、しまったと言いたげに肩をすくめた。
「気づくの早すぎません?」
「当たり前だ。ダラスとは何度も商談をした。お前も、その後ろで菓子ばかり狙っていただろう」
「その話、今します?」
ダリウスが苦笑すると、ザファルはほんのわずかだけ笑った。
戦火の中で生まれた、小さな息抜きのような笑みだった。
「大きくなったな。昔は、父親の後ろに隠れていた小僧だったというのに」
「そりゃ、こっちも多少は成長しますよ」
ダリウスはそう返してから、焼けた街並みへ視線を向けた。
声の調子が、少しだけ低くなる。
「……で、こっちの台詞だ、市長。街、派手にやられてるじゃねぇか」
その声には、いつもの軽さがあった。
だが、その奥に滲む怒りを、リオは聞き逃さなかった。
ザファルの表情から、わずかな懐かしさが消える。
そこに戻ってきたのは、商都を預かる者の顔だった。
「ああ。派手にやられた」
短く認める。
だが、次の言葉は沈まなかった。
「だが、まだ立っている。なら、終わってはいない」
その言葉に、リオは顔を上げた。
同じことを、自分も思ったばかりだった。
* * *
リオたちは市長邸の一室へ通された。
そこは応接室というより、すでに臨時の作戦所になっていた。
壁にはアルマリク周辺の地図が張られ、机の上には駒と石が置かれている。
部屋には、ザファルのほかにも三人の指揮官がいた。
砂色の鎧をまとった壮年の男が、都市防衛軍の陸戦隊長ハサン。
潮に焼けた肌を持つ片目の女が、港湾防衛隊長ナディア。
そして、薄い羽根飾りのついた帽子をかぶった細身の男が、空警備隊長サリムだった。
いずれも疲れ切った顔をしている。
だが、誰一人として席に沈み込んではいなかった。
立ったまま地図を見下ろし、次に動くべき場所を探している。
アルマリクは、まだ戦うつもりだった。
港区。
倉庫街。
外壁。
海峡。
その海峡の上に、黒い線が引かれていた。
ザファルは迷わず、その線を指した。
「港は砲撃を受けた。外壁も削られた。倉庫街も一部は燃えた」
ザファルは、倉庫街に置かれた駒を一つ動かす。
「だが、中核はまだ生きている。ある程度の荷は事前に運び出してあるが、すべてではない。間に合わなかった分が、まだ倉庫街に残っている」
ダリウスの表情が険しくなる。
「食料、薬、武具、魔導具……」
「その通りだ。あれを失えば、アルマリクだけでは済まん」
指が、海峡へ動く。
「問題はこれだ」
「黒い橋……ですか」
リオが呟く。
ザファルは頷いた。
「海峡には、黒い橋が掛けられた。船を繋ぎ、瘴気で固めた道だ」
その言葉だけで、室内の空気が重くなる。
「その向こうには瘴気門がある。複数だ。そこから魔物と陸軍が吐き出され、こちらへ向けて進軍している」
ミラが目を細める。
「瘴気門が複数……」
「確認できた限りでは、三つ」
ザファルの声は淡々としていた。
今は嘆く時間すら惜しい、という声だった。
「偵察部隊を出したが、海峡を越える前に落とされた」
「落とされた?」
ファルトが眉をひそめる。
空警備隊長サリムが、悔しげに唇を噛んだ。
「こちらの飛行偵察班が二組やられた。敵は対空の備えまで置いている。矢だけではない。瘴気を帯びた魔法弾も飛んできた」
港湾防衛隊長ナディアが地図の海峡部分を指で叩く。
「海からも近づけない。橋の周囲には船団が残っている。下手に寄れば、砲撃と魔物の両方を浴びる」
ザファルが低く続けた。
「つまり、橋を見に行くことすら簡単ではない」
ナディアが、悔しげに腕を組んだ。
「海軍は、先の交戦でほぼ壊滅した。残っている船も、まともに撃ち合える状態じゃない」
サリムもまた、苦い顔で頷く。
「空も厳しい。ファルコン部隊は半数を失った。飛べる者はいるが、これ以上無駄に落とせば、街の上空すら守れなくなる」
ハサンが、都市前面の駒を静かに押した。
「陸は動ける。だが、数は敵の半分ほどだ。正面から押し返す力はない」
部屋の空気が、重く沈む。
ハサンは続けた。
「やれるのは、籠城だ。門と防柵で受け止め、倉庫街まで抜かせない。それが限界だ」
ミラは地図を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
「偵察を落とされたということは、敵は橋を守るだけじゃない。こちらが情報を取ること自体を妨害しているのね」
アルヴァンが静かに頷く。
「黒い橋、瘴気門、対空迎撃。即席の侵攻ではありません。最初から、ここを戦場にするつもりだったのでしょう」
ザファルの目が、そこでアルヴァンへ向いた。
一瞬。
本当に一瞬だけ、その表情が変わる。
「……あなたは」
言いかけた言葉を、アルヴァンが止めた。
静かに、首を横へ振る。
その動きは小さかった。
しかし、意味は明確だった。
今は、その名に触れるな。
ザファルは一拍置き、何事もなかったように表情を戻した。
交易都市の長として、触れてよい情報と、触れてはならない情報を知っている顔だった。
「失礼。アルヴァン殿、テオ殿」
そこでリオが、少しだけ前に出た。
「ザファル市長。お二人は、ここまでの道中で僕たちを助けてくれた方々です」
ザファルは言葉を改める。
「ここまでの同行には感謝する。だが、この先はアルマリクの戦だ。今後、どう動かれるおつもりか」
アルヴァンは静かに笑った。
「ここまで来て、引き返す理由はありません」
その声は穏やかだった。
だが、揺らぎはない。
「どのみち、これは魔王軍との戦争です。ならば、できる限りのことをさせてもらうつもりです」
「僕も行きます」
テオが短く言った。
「アルヴァン様の護衛ですから」
アルヴァンは困ったように微笑む。
「護衛というより、最近は私の方が君に怒られている気もするがね」
「それは、アルヴァン様が無茶をするからです」
わずかに空気が和らいだ。
だが、それも一瞬。
ザファルは再び地図へ視線を落とす。
「あそこには、各国へ送るはずだった食料、薬、武具、魔導具がある」
ザファルの指が倉庫街を叩いた。
「敵の狙いは街ではない。補給路だ」
ザファルはそこで、少しだけ声を落とした。
「ただし、こちらも手をこまねいていたわけではない。メフレト魔導評議国へ援軍を要請していた」
「メフレト……」
ミラが、ほんの一瞬だけ反応した。
その名を聞いた瞬間、彼女の指がわずかに杖へ触れる。
クラヴィスから学んだ魔法理論の記憶と、火の魔術を中心とする砂漠の魔導国家の名が、頭の中で結びついた。
ザファルはミラの反応に気づいたようだったが、今は深く触れなかった。
「彼らも、先ほど到着した。数は多くないが、魔法戦力としては頼りになる」
「やっぱり、倉庫街か……」
ダリウスが歯を噛みしめた。
「あそこが落ちたら、アルマリクだけじゃ済まねぇ」
「そうだ」
ザファルは頷く。
陸戦隊長ハサンが、都市前面に置かれた駒を動かした。
「正面の防衛線は、我々が受け持つ。だが、敵は正面だけから来るとは限らない」
ザファルの視線がリオたちへ向く。
「君たちには、遊撃として動いてほしい」
「遊撃……」
リオが繰り返す。
「崩れそうな場所へ走り、逃げ遅れた者を救い、敵の穴を突く。命令系統に縛りつけるより、その方が君たちの力は生きる」
アルヴァンが頷いた。
「妥当です。固定配置では、敵に読まれます。我々は戦場の継ぎ目を埋める役に回るべきでしょう」
ファルトは肩を回した。
「分かりやすくていいな。困ってるところに突っ込めばいいんだろ」
「単純に聞こえるけど、一番難しい役目よ」
ミラが淡々と返す。
「だから、無茶しすぎないで」
「お、おう」
ファルトが少しだけ背筋を伸ばす。
ザファルは続けた。
「本格的な開戦は、早ければ明日だ」
「明日……」
セフィーナが小さく息を呑む。
「今日は防衛軍の再編、民間人の避難、物資の移動、防柵の追加で手一杯だ。君たちは休め」
「休む……ですか」
リオは思わず聞き返した。
ここまで来て。
街が燃えているのに。
魔王軍が黒い橋を渡っているのに。
休む。
その言葉が、うまく飲み込めなかった。
ザファルは、まっすぐリオを見た。
「休むのも、戦う準備だ」
低い声だった。
「疲れた英雄ほど、戦場で危ういものはない」
リオは唇を結ぶ。
英雄という言葉には、まだ慣れない。
けれど、ザファルの言いたいことは分かった。
明日、動けなければ意味がない。
守りたいものがあるなら、今は休む。
それもまた、戦いなのだ。
「……分かりました」
リオは頷いた。
「でも、街を少し見てもいいですか」
ザファルは少しだけ目を細める。
「構わん。ダリウス、案内してやれ」
「任せろ。……まあ、こんな時に見せたい街じゃねぇけどな」
「こんな時だからこそだ」
ザファルは言った。
「この街が何を守ろうとしているのか、見ておいてほしい」
* * *
市長邸を出ようとしたところで、クロキリが近づいてきた。
いつの間にいたのか、分からない。
相変わらず、そこに影が落ちて初めて気づくような男だった。
「正面は任せる」
クロキリが短く告げた。
「俺たちは、裏を削る」
「裏……?」
リオが聞き返す。
「橋、砦、伝令、指揮。戦場は、前だけじゃない」
その言葉は短い。
だが、敵陣の奥へ入り、見つかれば戻れない場所を探るという意味でもあった。
黄狐が小さく笑う。
「情報は流します。けれど、こちらを待たないでください」
赤鬼は肩を鳴らし、歯を見せた。
「ま、派手な音がしたら俺だと思っとけ」
青鬼は淡々と言う。
「捕虜がいれば、聞くことを聞いておく」
セフィーナが少しだけ引いた。
ファルトが苦笑する。
「お前ら、相変わらず物騒だな」
「影だからな」
クロキリはそう言って、リオの腰元にある遠話晶へ視線を向けた。
この作戦に入る前、すでに渡されていた連絡用の遠話晶だ。
「何かあれば、それで呼べ」
「分かりました」
リオが頷いた瞬間だった。
そこにいたはずの四人は、もういなかった。
足音も、気配も残さず。
戦場の裏側へ、影が溶けていった。
* * *
ダリウスに案内され、リオたちは街中へ出た。
アルマリクは交易都市だ。
本来ならば、香辛料、織物、金属細工、異国の果実、魔導具、珍しい酒、乾燥肉、宝石まがいの装飾品――あらゆるものが雑多に並び、人の声と匂いが混ざり合う場所だという。
だが今は、その色の半分が焦げていた。
「ここは香辛料の市場だ」
ダリウスは、焼けた屋台の前で足を止めた。
「普段なら、鼻が馬鹿になるくらい匂いが混ざってる」
口元だけで笑う。
「……今は、焦げ臭さの方が勝ってるけどな」
リオは周囲を見る。
崩れた屋台の横で、男が焦げた木箱を片づけている。
別の女は、水桶を抱えて走っていた。
子どもが、小さな手で布袋を運んでいる。
防衛兵が、通りの端で折れた槍を束ねていた。
「それでも、みんな動いてるんですね」
「商人ってのはな、店が半分焼けても、残り半分で勘定する生き物なんだよ」
ダリウスは軽く言った。
だが、その目は笑っていなかった。
そのとき、通りの向こうで短い悲鳴が上がった。
リオが反射的に振り向く。
崩れかけた壁材を運んでいた若い防衛兵が、膝をついていた。
肩から血が滲んでいる。
砲撃で飛んだ破片が、まだ傷口の近くに残っているようだった。
「大丈夫ですか!」
リオが駆け寄る。
防衛兵は慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です。これくらい……まだ動けます」
「動かないでください」
セフィーナがすぐに膝をついた。
その声は穏やかだったが、逆らえない強さがあった。
「リオ様、傷を塞ぎます。破片は浅い位置です」
「うん」
リオは手をかざした。
青白い光が、そっと傷口を包む。
セフィーナの風が、血と砂を払い、傷の周囲を清めていく。
「癒えよ。光は巡り、傷を包み、再び立つ力となれ――《リカバリー》」
柔らかな光が広がる。
防衛兵の強張っていた表情が、少しずつ緩んだ。
「……痛みが、引いていく」
「無理はしないでください。完全に治ったわけではありません」
セフィーナが包帯を巻き直す。
近くにいた市民たちが、息を呑むようにその光景を見ていた。
誰かが小さく息を呑む。
「この光は……?」
リオは少しだけ困ったように目を伏せた。
「僕だけじゃありません。みんなで、まだ守れるものを守りましょう」
防衛兵は唇を噛み、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。俺……明日、また立てます」
その言葉に、リオの胸が小さく震えた。
まだ、間に合う。
その実感が、ほんの少しだけ形を持った気がした。
そのときだった。
人混みの中から、砂色の外套をまとった男がふらりと現れた。
顔の半分を布で隠し、目だけが妙に鋭い。
足取りは軽い。
まるで路地裏そのものを庭のように歩いている。
「おっと、悪いな」
男はリオの肩に軽くぶつかり、そのまま通り過ぎようとした。
動きは自然だった。
自然すぎるほどに。
「やめておけ」
ダリウスの声が落ちた。
男の足が止まる。
「……何の話だ?」
「その手だよ。今の相手、悪すぎるぞ」
男は一瞬だけ目を細めた。
そして、初めてリオをまっすぐ見た。
服装だけなら、どこかの商家か貴族の若いぼんぼんに見えなくもない。
護衛を連れて、戦場を視察しているだけの物知らず。
最初は、そう見えたのだろう。
だが、男の目が変わる。
周囲の仲間たちの立ち位置。
ファルトの盾。
ミラの警戒。
セフィーナの静かな祈り。
アルヴァンの視線。
テオの反応。
そして、リオ自身の立ち方。
守られているのではない。
背負っている。
男は、ふっと息を吐いた。
「へぇ。商人の坊ちゃんにしては、よく見てる」
「商人だから見るんだよ」
ダリウスが返す。
男は肩をすくめ、それからリオへ視線を戻した。
「……あー、なるほど」
軽薄だった声が、ほんの少しだけ変わった。
「これは俺の間違いだった。どこかのぼんぼんが、戦場見物でもしてるのかと思ったんだがな」
「え……?」
リオが瞬く。
「見逃してくれ。これは借りだ」
「君は……?」
リオが尋ねると、男はにやりと笑った。
「ラシュド。しがない一団の頭領さ」
その名を聞いた瞬間、ダリウスの表情がわずかに変わった。
「ラシュド……? まさか、あんた……」
「おっと。そこから先は、今はなしだ」
ラシュドは片手を上げる。
その仕草は軽い。
だが、どこか隙がない。
「借りなら、覚えとけよ」
ダリウスが言う。
「忘れねぇよ。こういう借りは、高くつくからな」
ラシュドはそう言って、ひらりと身を翻した。
逃げる直前、彼は懐から小さなパン袋を取り出し、路地の奥へ放った。
そこには、煤で汚れた顔の子どもがいた。
子どもは驚いたようにそれを受け取る。
ラシュドはもう見ていない。
そのまま路地へ消える。
その瞬間、足元の砂がふわりと舞った。
風はなかった。
それなのに、砂だけが彼の背中を隠すように流れた。
「……今の、ただの風じゃないよね?」
アストルが小さく言う。
アネリアも目を細めた。
「風じゃないわ。砂が、動いた」
リオは路地の奥を見つめる。
ラシュドの姿は、もうなかった。
「知り合いなの?」
リオが尋ねると、ダリウスは少しだけ考えてから首を振った。
「いや。だが、ああいう目の奴は知ってる」
「目?」
「盗む目じゃねぇ。……背負ってる奴の目だ」
ダリウスはそう言って、視線を街へ戻した。
「行こうぜ。まだ見せたい場所がある」
* * *
街を回ったあと、ダリウスは一行を城壁へ案内した。
石段を上るたびに、焦げた匂いと瘴気の重さが濃くなっていく。
城壁の上では、防衛兵たちが慌ただしく準備を進めていた。
折れた矢を選り分け、使えるものだけを束ねる者。
油壺を壁際へ並べる者。
崩れた胸壁に板を打ちつける者。
巨大な弩――バリスタの滑車に油を差し、太い矢を慎重に運び込む者。
まだ撃つ時ではない。
だが、撃つための準備は、すでに始まっていた。
「矢をありったけ持ってこい! 折れてないやつだけだ!」
「北側の補修を急げ! あそこを抜かれたら、内側に回り込まれるぞ!」
「油壺は倒すな! 火矢と一緒に扱うなよ!」
「バリスタ二番、弦を確認しろ! 切れかけてるなら今のうちに替えろ!」
その声には焦りが混じっていた。
だが、誰も手を止めていない。
リオは城壁の縁まで進み、外を見た。
海峡の向こうに、黒い橋があった。
何隻もの船が鎖と板で繋がれ、瘴気に包まれながら海の上に一本の道を作っている。
その上を、魔物たちが渡っていた。
ゴブリンの群れ。
オークの重装隊。
遠目にも分かる巨体のトロール。
そして、そのさらに奥。
丘の上に、三つの黒き門が見えた。
赤黒い縁が脈打ち、瘴気を吐き出している。
三つの門は、それぞれが違う種類の闇を吐き出しているように見えた。
小柄な影の波。
巨体の群れ。
重く歪んだ大型種の列。
「あれが……瘴気門」
リオの声は、思ったよりも小さかった。
アストルが肩の上で唇を結ぶ。
「嫌な感じ。あれ、ただ開いてるだけじゃない。橋に瘴気を流してる」
ミラも眉を寄せる。
「橋そのものを維持しているのね。壊せば終わり、というほど単純じゃなさそう」
アルヴァンは黒い橋と敵陣を見比べた。
「敵は、すでに陣を作り始めています。橋の出口を守り、こちらを正面に引きずり出す構えでしょう」
テオが空を見上げる。
遠く、黒い橋の周囲を飛ぶ影があった。
鳥ではない。
魔物か、魔法で飛ぶ斥候か。
「空も見張られていますね。市長の言っていた対空迎撃、あれだけではないかもしれません」
ダリウスは、城壁の上から倉庫街の方を見た。
煙の向こうに、まだ残っている倉庫群が見える。
「あそこまで抜かれたら終わりだ」
低い声だった。
「あそこには、物だけじゃない。アルマリクが積み上げてきた信用も入ってる」
リオは黙って頷いた。
城壁の下では、防衛軍が列を整え始めている。
商会の私兵。
傭兵。
槍を持った市民志願兵。
誰もが不安を抱えながら、それでも前を向いていた。
黒い橋の向こうでは、魔王軍が進む。
アルマリク側では、人々が備える。
まだ合戦は始まっていない。
だが、戦場はもう、目の前にあった。
* * *
やがて一行は、かろうじて営業を続けている食堂へ入った。
壁の一部は板で塞がれ、窓には布が張られている。
床にはまだ煤の跡が残っていた。
だが、鍋は火にかかっている。
温かい匂いがあった。
「ここ、まだ開けてたのか」
ダリウスが驚いたように言う。
奥から、大柄な店主が顔を出した。
腕には包帯。
額には煤。
それでも声は太い。
「店が残ってて、鍋があって、腹を空かせた奴がいる。なら開けるだろ」
ファルトが思わず笑う。
「……いい店だな」
「さぁさぁ、食えるうちに食っておけ! 腹が鳴ってちゃ、魔物も笑うよ!」
店主の声が店内に響く。
防衛兵らしき男が笑い、商人がスープをすすり、市民の老婆がパンをちぎって子どもに渡している。
街は傷ついていた。
それでも、この場所には火があった。
飯の匂いがあった。
人の声があった。
「……どこかで聞いたような台詞だな」
ファルトが苦笑する。
「戦場の近くにいる人って、みんな同じことを言うのね」
ミラが肩をすくめた。
ダリウスは得意げに笑う。
「ここの連中は、商売根性と胃袋だけは魔王軍にも負けねぇんだよ」
「当たり前だろ!」
店主が鍋をかき混ぜながら怒鳴った。
「街が半分焼けたくらいで、鍋まで冷ましてたまるかい!」
リオは出されたスープを両手で受け取った。
具は少ない。
パンも硬い。
けれど、温かかった。
食えるうちに食っておけ。
その言葉を、リオは昨日も聞いた。
ダラスの声。
現実的で、容赦のない言葉。
けれど今は、少し違って聞こえた。
ただ生き残るためではない。
明日も立つために、食べる。
この街は、まだ負けていない。
「……すごく、あたたかいです」
リオが呟くと、店主は少しだけ照れたように鼻を鳴らした。
「熱いうちに飲みな。冷めたら半分損だよ」
その言葉に、店内の誰かが笑った。
ほんの少しだけ、リオの胸の奥の痛みが和らいだ。
* * *
食事を終えたあと、リオたちは市長側が用意した宿へ向かった。
その途中で、リオはふと足を止めた。
「ダリウス」
「ん?」
振り返ったダリウスに、リオは少しだけ迷ってから言った。
「ティナを、頼む」
少し離れたところで荷物を抱えていたティナが、はっと顔を上げる。
「リオ様……?」
「明日からは、きっと僕たちは前に出ます。だから……ティナは、無理をしないでください」
ティナは何か言いかけた。
けれど、リオの表情を見て、言葉を飲み込む。
ダリウスは頭を掻き、少しだけ困ったように笑った。
「任せとけ。俺と一緒に避難してるさ。変なところに突っ込ませたりしねぇよ」
「ありがとう」
ティナは小さく拳を握った。
「私は……私にできることをします。リオ様たちが戻ってきた時に、ちゃんと休めるように」
その言葉に、リオは少しだけ微笑んだ。
「うん。お願いします」
本来は商人や旅人向けの宿だという。
今は廊下に荷物を抱えた避難民が座り、階段の脇には防衛兵の予備の槍が並べられていた。
豪華ではない。
けれど、屋根がある。
横になれる場所がある。
それだけで、十分だった。
部屋に入ると、ファルトは盾を壁に立てかけた。
「寝られる時に寝る。戦場じゃ、それが一番難しいんだ」
「明日、動けなかったら意味がないものね」
ミラは荷物を下ろしながら言う。
セフィーナは窓辺で短く祈りを捧げた。
「休むことも、命を繋ぐための務めです」
リオは頷く。
「うん。ちょっと見てから寝るよ」
窓の外。
アルマリクの街には、眠りきれない気配が満ちていた。
防柵を打つ音。
水桶を運ぶ足音。
遠くで泣く子どもの声。
そして、城壁の向こうから響く、魔王軍の太鼓。
低く、重く。
腹の底に沈むような音だった。
リオは剣の柄に手を置く。
まだ間に合うものがある。
まだ守れるものがある。
明日、そのために戦う。
そう思いながら、リオは浅い眠りに落ちた。
そして――夜が明ける。
朝焼けの空に、鐘が鳴った。
ファルトが盾を取り、ミラが杖を握り、セフィーナが静かに祈りを終える。
リオもまた、剣の柄に手を置いた。
仲間たちの顔を見回し、小さく頷く。
「よし、行こう」
アルマリク前面会戦が、始まろうとしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もし面白いと感じていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。




