第87話 橋を渡る者
瘴気が、丘を覆っていた。
夜明け前の空は、本来ならば淡い青へと変わり始めるはずだった。
だが今、アルマリクへ続く海峡沿いの丘陵には、朝の気配などなかった。
黒く、重く、粘つくような気配。
砂混じりの風は腐った鉄のような臭気を運び、草木は瘴気に焼かれたように黒ずんでいる。
海から吹き上げる潮風さえ、その丘の上では淀んでいた。
その中心に――門があった。
ひとつではない。
三つ。
丘の上に、三つの黒き門が並んでいた。
空間を裂くように開いた巨大な歪みは、赤黒い縁を脈打たせ、まるで生き物の傷口のように瘴気を噴き出している。
門の奥は見えない。
ただ、深い闇だけがある。
ぎしり、と空間が軋む。
最初に、左の門が大きく震えた。
次の瞬間、小柄な影が溢れ出す。
ゴブリンの群れだった。
錆びた短剣を握り、歪んだ笑みを浮かべ、丘の斜面へと次々に飛び出してくる。
その数は十や二十ではない。
波が打ち寄せるように、途切れることなく現れる。
続いて、槍を持ったゴブリン兵。
粗末な鎧をまとったゴブリン・ジェネラル。
そして、ひときわ大きな体躯を持ち、錆びた王冠をかぶったゴブリン・キングが、唸るような声を上げながら姿を現した。
ゴブリンたちは甲高い声を上げ、互いを押しのけながら丘を下る。
そこへ、黒い鎧をまとった魔王軍の兵が怒号を飛ばした。
「走れ! 止まるな!」
「橋を渡れ! この先の黒い橋を越えろ!」
「遅れた奴は踏み潰されるぞ!」
右の門が震える。
地響きが続いた。
オークだ。
棍棒を肩に担いだ巨体の群れが、黒き門から押し出されるように現れる。
オーク・ジェネラルが怒号を放ち、オーク兵たちが列を整える。
さらに後方には、鈍い金属片を鎧のように身につけたオーク・キングの姿もあった。
ゴブリンの群れとは違う。
オークたちは重く、荒々しく、だが一定の隊列を保って丘を下っていく。
「オーク隊、前へ!」
「黒い橋を渡った先で待機! 押すな、列を崩すな!」
「橋を壊した奴は、その場で首を刎ねる!」
中央の門が、最後に軋んだ。
瘴気が濃くなる。
空間の裂け目が悲鳴を上げるように震え、その奥から、巨大な腕が突き出された。
トロール。
巨体が丘の上に足を下ろした瞬間、乾いた地面がめり込む。
その後ろから、オーガ、魔狼、さらに荷を担がされた異形の魔物たちが続いた。
中央の門は、重装の魔物と大型種を吐き出すための門だった。
丘全体が、魔物の足音で震えている。
三つの黒き門から吐き出された軍勢は、丘を下り、海峡へ向かって流れていった。
その先に、船の橋があった。
何隻もの船が、黒い鎖と板と瘴気によって繋ぎ合わされ、海峡を横切る一本の道となっている。
それは橋と呼ぶには、あまりに歪だった。
だが、道だった。
魔王軍の兵を、瘴気を、破壊を、アルマリクへ流し込むための道。
海の上に作られた、黒い血管。
その橋の上を、魔物たちが進んでいく。
ゴブリンが走る。
オークが踏み鳴らす。
魔狼が船縁を飛び越え、低く唸る。
オーガが重い足音を響かせ、トロールが橋を軋ませる。
船体が悲鳴を上げる。
鎖が鳴る。
だが、沈まない。
橋の向こう、アルマリクの城壁前では、鐘が鳴っていた。
煤けた空の下、残存防衛隊が防柵を並べ直している。
海軍の砲撃で外壁の一部は崩れ、門楼には黒い焦げ跡が残っていた。
それでも、兵たちは逃げていない。
割れた盾を抱え、折れた槍を握り、血の滲む包帯を巻いたまま、都市の前面に兵を並べている。
「橋が……」
若い防衛兵の声が震えた。
海峡の向こうから、黒い軍勢が渡ってくる。
ゴブリンの甲高い叫び。
オークの地鳴り。
トロールの巨体が黒い橋を軋ませる音。
それは、ただの敵影ではなかった。
逃げ場を塞ぐ、黒い潮だった。
市民たちは城壁の内側へ押し込まれ、泣き叫ぶ子どもを抱えた母親が膝をつく。
商人が倉庫の鍵を握りしめたまま、呆然と海を見ていた。
昨日まで荷馬車が行き交っていた街道に、今は土嚢と折れた荷車が積まれている。
「下がれ! 倉庫街へは通すな!」
誰かが叫ぶ。
だが、その声にも恐怖が滲んでいた。
城壁の上では、弓を構えた兵の指が震えている。
矢筒には、もう半分も残っていない。
それでも弦を引くしかなかった。
背後には、家族がいる。
倉庫街には、各国へ送るはずだった食料と薬がある。
そして目の前には、黒い橋を埋め尽くす魔物の群れがいる。
「……あれを、止めろっていうのか」
誰かの呟きは、鐘の音に掻き消された。
橋の先――アルマリク側の岸では、すでに簡易な砦が築かれ始めていた。
杭が打たれ、黒い布が張られ、崩れた荷車や木材が防壁代わりに積み上げられている。
その周囲を、異様な色彩の天幕が取り囲んでいた。
赤、紫、黒。
道化の旗。
歪んだ笑顔を描いた看板。
まるで戦場のただ中に、悪趣味なサーカス小屋が生えたかのようだった。
ゼインの部隊だった。
その簡易砦の中央に、一際大きな黒いテントが張られている。
作戦会議は、そこで始まろうとしていた。
黒き門はなおも開いていた。
だが、その赤黒い縁は、すでに不規則に揺らいでいる。
瘴気は濃くなりすぎていた。
空間そのものが耐えきれず、ひび割れているようにも見えた。
その光景を、黒いテントの前から見据える者たちがいた。
ひとりは、海風に晒された大柄な男。
ガルド。
魔王軍海軍を率いる大将である。
彼の視線は、黒き門ではなく、海峡に掛かった橋へ向けられていた。
橋が生きているか。
船が保つか。
鎖が切れぬか。
瘴気の流れが乱れぬか。
彼が見ているのは、勝利ではない。
維持だった。
橋が落ちれば、ここまで築いた戦場そのものが崩れる。
その横で、仮面の男がくつくつと笑った。
道化の仮面。
ゼインだった。
「うわぁ、出るねぇ。ぞろぞろ、ぞろぞろ。蟻の巣をひっくり返したみたいだ」
その声は、楽しげで、どこか空虚だった。
ガルドは答えない。
ゼインも、返事など求めていない。
彼の視線は、橋の先――燃える商都アルマリクへ向いていた。
「門って、いいよねぇ。入口にも出口にもなる。逃げる人も、助けに来る人も、みんなそこを目指す」
仮面の奥で、目が笑う。
「だから、そこに置いておけばいいんだ。悲鳴と、死体と、少しだけ希望をね」
そのとき、黒き門が大きく震えた。
現れた魔物たちが、自然と道を開ける。
重い足音が、橋の上に落ちた。
魔物たちの群れを割るように、一人の男が歩いてくる。
若い。
だが、その姿を見た魔物たちは、誰一人として進路を塞がなかった。
背には巨大な剣。
歩くだけで、周囲の空間がわずかに軋む。
バルグだった。
彼は黒き門から出ると、燃えるアルマリクを見て、口の端を吊り上げた。
「遅くなったな」
低く、だがよく通る声だった。
「道はできてる。なら、あとは踏み潰すだけだろ?」
ゼインが拍手をする。
「いいねぇ。単純で分かりやすい。君、嫌いじゃないよ」
「お前に好かれても、嬉しくねぇな」
バルグは肩を鳴らし、大剣の柄に手をかける。
その背後に、もう一つの影があった。
鎧の音も、足音もない。
黒い軍装に身を包んだ、痩せた魔人。
灰色がかった肌。
後方へ流れる小さな角。
片目を覆う細い金属製の片眼鏡。
その手には、黒い板状の戦場図があった。
魔人は、砦の喧騒にも眉ひとつ動かさず、ガルドの前へ進み出る。
「多重欺瞞作戦、成功おめでとうございます。ガルド大将」
グラム。
姓を持たない、魔王軍参謀本部の魔人。
バルグ隊に派遣された副官である。
ガルドは短く鼻を鳴らした。
「世辞はいらん。橋は掛かった。それがすべてだ」
「はい。海戦、足止め、誘導。予定範囲内です」
一同は、黒いテントの中へ入った。
外では、魔物たちを橋へ送り出す怒号が絶えず響いている。
テントの中央には、アルマリク周辺を模した粗い立体地図が置かれていた。
グラムは戦場図を開く。
海峡、港、門、倉庫街。
そして、各国へ延びる交易路。
灰色の指が、倉庫街の上で止まる。
「橋掛けは成功しました。ここからバルグ様の大隊を、アルマリク前面へ展開させます」
その声に熱はない。
結果だけを読み上げていた。
「狙いは倉庫街。ただし、先に都市前面へ布陣します」
グラムの指が、門前の広場を叩く。
「海軍砲撃で外壁は損傷。ですが、防衛軍は再編済み。倉庫街を守るため、前へ出ざるを得ません」
ゼインが、楽しそうに首を傾げる。
「街ごと?」
「もちろんです」
グラムは何のためらいもなく答えた。
「アルマリクは完全に破壊して構いません。商都である以上、街そのものが補給路です」
バルグは笑った。
「分かりやすいな」
「破壊ではありません。補給線の切断です」
「同じことだろ」
「結果は同じです。意味が違います」
その言葉に、ゼインが小さく笑った。
「うわぁ、つまらない人だ」
グラムは、仮面の男へ視線だけを向ける。
「ゼイン殿。門の防衛は任せますが、必要以上の遊戯は控えていただきたい」
「やだなぁ。遊びじゃないよ。芸術だよ」
ゼインは、指先で仮面の口元をなぞった。
「人ってさ、逃げ道が見えた瞬間が一番いい顔をするんだ」
声音だけが、すっと冷えた。
「だから、門は閉じない。開けたまま殺す。希望ごとね」
「戦場に芸術は不要です」
「だから、つまらないんだよ」
ゼインは肩をすくめる。
ガルドの低い声が、二人の間に割って入った。
「光の導き手の動きは」
その問いに、グラムは戦場図の端へ指を滑らせた。
アルマリクの南東。
小さな港町の印がある。
「後方の都市、アルマリア付近に到着している模様です」
グラムの声は淡々としていた。
「海路から直接アルマリクへ入ることは断念。現在は陸路でこちらへ向かっていると見られます」
バルグが、低く笑う。
「来るのか」
「来ます」
ゼインが、仮面の奥で愉快そうに目を細めた。
「だよねぇ。来るよねぇ。だって、燃えてるもんねぇ」
グラムは、燃える商都の印へ指を戻す。
「ただし、こちらが早い。彼らが到着する頃には、都市前面で会戦が始まっています」
「なら、間に合わせなければいい」
ガルドが短く言う。
「そのための門です」
グラムは頷いた。
「門はどうする」
ゼインが、待ってましたとばかりに仮面の奥で笑う。
「僕が見ておくよ。逃げたい人も、助けたい人も、正義の味方も。ぜんぶ門に集まる」
彼は燃える街を見た。
「門の前に泣いてる人を置く。助けを呼ばせる。そうすれば、まっすぐ来るよ」
仮面の奥で、目だけが笑った。
「正義の味方ってさ、分かりやすい道を選ぶからねぇ」
ガルドは不快そうに眉を寄せたが、否定はしなかった。
正しい。
そういう読みは、ゼインの領分だった。
「海峡と橋は俺が抑える」
ガルドは言った。
「橋は命綱だ。落とされれば、この戦場は孤立する。船に近づくものは沈める」
「承知しています」
グラムは頷く。
「敵の目を都市前面へ固定します」
「囮か」
「侵攻です」
淡々とした返答に、ガルドはわずかに口元を歪めた。
「参謀本部の連中は、言葉を飾る」
「誤解を避けるためです」
「その言い方が誤解を増やす」
グラムは答えなかった。
代わりに、戦場図の別の点に指を置く。
「なお、ディアス様の前線投入はありません」
その名が出た瞬間、ゼインの笑いがわずかに止まった。
バルグも、ほんの少しだけ目を細める。
「例の悲劇以降、ディアス様は覚醒の途上にあります」
グラムは告げた。
「不安定です。前線投入は許可されておりません」
ガルドが低く言う。
「あの状態で戦場に出せば、敵より先にこちらの陣が壊れる」
ゼインが、くすりと笑った。
「怖いねぇ。王子様の癇癪は、戦場より危ないって?」
ガルドの視線が鋭くなる。
「口を慎め」
「はいはい」
ゼインは両手を上げる。
しかし、その声から笑みは消えない。
グラムはさらに続けた。
「リレーナ殿の空軍も、現時点での再投入は困難です」
バルグが片眉を上げる。
「あの女が?」
「楼蘭帝国の謎の部隊により、甚大な損害を受けています」
その言葉に、テントの空気がわずかに冷えた。
楼蘭帝国。
古代魔導技術を有する大帝国。
その名は、魔王軍にとっても軽いものではない。
「現在、リレーナ殿は氷結領域に閉じこもっています。接触は困難です」
ゼインがわざとらしく肩を抱く。
「あーあ。氷のお姫様、怒っちゃったんだ。近づいたら、骨まで綺麗に凍らされそうだねぇ」
「笑い事ではない」
ガルドは低く告げる。
「空軍を欠いた分、橋と陸路で押し切るしかない」
「そのための黒い橋です」
グラムが言う。
「空を失っても、道は作れます。海そのものを道に変えればいい」
バルグは、大剣の柄を軽く叩いた。
「で、俺はどこを斬ればいい?」
その問いに、グラムは即座に答える。
「都市前面の防衛線です」
戦場図の上で、灰色の指が線を引く。
アルマリクの外縁。
門前の広場と街道。
守る側が、必ず兵を並べる場所だった。
「敵主力を割ります。防衛線が崩れれば、港区、倉庫街、居住区は分断。指揮も避難路も潰れます」
「分かりやすい。好きだぜ、そういうのは」
「バルグ様の一撃は、戦術そのものです」
グラムは静かに言った。
「振るう場所を誤らなければ、それだけで戦場は崩れます」
バルグは楽しげに笑った。
「褒めてんのか、使いやすい駒だって言ってんのか、どっちだ?」
「どちらでも。結果が出るなら、呼び名に意味はありません」
「ますます気に入った」
そのとき、黒き門がひときわ大きく歪んだ。
赤黒い縁が明滅し、門の奥で何かが爆ぜる。
瘴気が逆流するように吹き荒れ、近くにいたゴブリンの数体が悲鳴を上げて膝をついた。
ガルドが門を見る。
「限界か」
グラムは戦場図に視線を落としたまま答えた。
「黒き門からの追加投入は、これ以上見込めません」
ゼインが口笛を吹く。
「おやおや。便利な入口も、もうお疲れ?」
「橋の維持、瘴気の流入、空間固定。すべて限界です」
グラムは言い切った。
「追加投入は、門の崩壊を招きます」
ガルドが目を細める。
「つまり、手持ちの札で勝てということか」
「はい」
グラムは、戦場図から顔を上げた。
「ですが、札は揃っています」
海峡には、ガルド。
門には、ゼイン。
都市前面には、バルグ。
そして、黒い橋はすでに掛かっている。
魔王軍が無限に兵を呼べる時間は終わった。
これ以上の増援はない。
空軍は欠け、ディアスは不安定。
それでも――作戦は成功している。
バルグが大剣を抜いた。
鈍い音が、黒いテントの中に響く。
ゴブリンたちが一斉に振り返る。
オークが唸る。
トロールが巨体を揺らし、魔狼が牙を剥いた。
グラムが指揮棒を上げる。
「第一、第三ゴブリン隊は側面へ。逃走経路を潰しなさい」
ゴブリン・ジェネラルたちが甲高い声で命令を飛ばす。
「オーク重装隊は中央。敵の防衛線を正面から押し潰せ」
オーク兵が棍棒を打ち鳴らす。
「トロール隊、門前の障害を排除。防柵も土嚢も、まとめて踏み砕け」
巨体が動く。
「魔狼は伝令を狩れ。情報を外へ出すな」
黒い獣たちが橋の上を駆け出した。
魔物の群れではない。
軍だった。
瘴気に染まった、破壊の軍勢だった。
彼らが向かう先は、ただの市街ではない。
アルマリクの前面。
防衛軍が否応なく兵を並べる、乾いた広場と街道。
そこに魔王軍は布陣する。
市街戦ではない。
まず始まるのは、軍と軍が正面からぶつかる合戦だった。
バルグは燃える商都を見据える。
「弱ぇ奴を斬っても、剣は鳴らねぇ」
彼は笑う。
「だが、守る奴がいるなら話は別だ」
ゼインは仮面の奥で笑い、門の方へ歩き出す。
「じゃあ、僕は僕の舞台を整えようかな」
ゼインは軽く首を傾けた。
「来るかなぁ。来るよねぇ。光の子。君が助けようとした人たちを、どこに並べておこうかな」
その声には、笑いよりも冷たさがあった。
ガルドはテントの外――海峡へ視線を戻す。
船。
鎖。
波。
橋。
そのすべてを守るために。
グラムは、最後に戦場図を閉じた。
黒き門は、背後で軋みながら揺れている。
もう、追加の札はない。
だが、盤面は整った。
グラムは、薄く唇を歪めた。
「さあ、はじめましょう」
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