第86話 間に合わなかった
夜の海は、静かだった。
風を切る音と、船体を叩く波の音だけが、一定のリズムで続いている。
だが――。
水平線の向こう。
アルマリクの空だけが、赤く燃えていた。
その光は揺らめきながら、夜を侵食している。
「くそっ……!」
ファルトの低い吐き捨てが、風にちぎれて消える。
ミラは何も言わない。
ただ、燃える空から視線を逸らさず、唇を固く結んでいる。
アルヴァンは一歩引いた位置で、静かに状況を観察していた。
揺らぐ炎の色、煙の流れ、風向き――すべてを測るように目を細める。
テオはその隣で、わずかに首を傾げる。
何も言わないが、その視線は遠くの炎の“向こう側”を探るように細められていた。
リオは船首に立ち、ただそれを見つめていた。
拳が、自然と握り締められる。
「……間に合わなかった」
かすれた声が、夜に溶けた。
胸の奥が、焼けるように痛む。
(まただ……)
間に合わない。
守れない。
そんな自分が、何よりも許せなかった。
(守ると決めたのに……何も守れていない)
(次も、間に合わなかったら――)
その瞬間――
アストルが、そっとリオの肩に触れる。
言葉はない。
けれど、その温もりだけが確かにあった。
誰も、すぐには言葉を返せない。
アネリアは悔しげに拳を握り、セフィーナは静かに目を閉じる。
グレイグはただ、前方を見据えていた。
――やがて。
「アルマリクの状況が分からん以上、アルマリク港には向かえんな」
低く、しかしはっきりとした声が響く。
「艦を失えば、帰る足も失う」
ダリウスが口を開く。
「アルマリクの手前に、アルマリアって港町があるぜ。……俺の実家もそこにある」
一同の視線が向く。
「規模は落ちるが、まだ使えるはずだ」
グレイグは一瞬考え――頷いた。
「よし。アルマリアでお前たちを下ろす」
――アルマリクへ直接は向かわない。
一度アルマリアに入り、そこから陸路でアルマリクへ向かう。
その間、艦はさらに南へ退避する。
現実だった。
リオは何も言えなかった。
分かっている。
ここで無理をすれば、全てが終わる。
船は進路を変える。
アルマリクから距離を取り、さらに南へ。
やがて、夜の闇に紛れるように小舟が降ろされた。
アルマリア港の外れに上陸する。
砂混じりの風が、頬を打った。
乾いた空気の中に、かすかに香辛料と干した魚の匂いが混ざっている。
遠くでは、家畜の鳴き声と、人々のざわめきが夜の底に沈んでいた。
石と土で作られた低い建物が並び、壁には熱を逃がすための小さな窓が開いている。
屋根は緩やかな曲線を描き、ところどころに風を逃がすための突起がついていた。
「変わった屋根の形だね」
アストルが小さく呟く。
アネリアはその様子に、ふっと笑った。
「砂の風を逃がすための形よ。ここは風と熱の国だから」
ここはまだ、完全には戦場になっていない。
だが――その気配は、確かに近づいていた。
「ここから先は陸だ」
グレイグが言う。
「迎えが必要なときは、遠話晶で連絡してくれ」
リオは頷いた。
そして――
小舟は静かに岸へと向かう。
背後で、軍艦はさらに南へと離れていった。
その姿は、すぐに闇へと溶ける。
――戻れない戦いが、始まろうとしていた。
* * *
上陸した直後。
「行くぞ」
クロキリの一言で、影の面々は即座に散った。
音もなく、気配もなく。
その直前、わずかに空気が歪んだ。
誰かがそこを通り抜けた気配だけが残り――消える。
まるで最初から存在しなかったかのように。
残されたリオたちは、ダリウスの案内で街外れへと向かう。
「……ここが、俺の実家だ」
やがて現れたのは――巨大な邸宅だった。
白い石壁に囲まれた屋敷は、砂の街の中で異様な存在感を放っている。
中庭には水をたたえた浅い池があり、乾いた空気の中でわずかな涼気を生んでいた。
香木の香りがほのかに漂い、外の砂の匂いとは別世界のようだった。
交易で得たであろう異国の装飾や織物が見え、富と力を静かに主張している。
広大な敷地。
並ぶ倉庫群。
そして、目に見えなくとも分かる護衛の気配。
思わず足が止まる。
その規模は、もはや貴族のそれに近かった。
門が開く。
一瞬、屋敷の者たちは息を呑んだ。
だがすぐに――安堵と、そして拭いきれない不安が混ざった表情に変わる。
中から現れたのは、一組の男女。
ダリウスの父――ダラス。
母――モリア。
二人は、まるで貴族のような上質な衣服に身を包んでいた。
そして――。
ダリウスとダラスは、驚くほどよく似ていた。
「……戻ったのか?」
静かな声。
ダリウスは一瞬、言葉を詰まらせる。
「いや、フェルメリア王国の任務でよ」
「ほう……それは光栄なことだな」
ダラスは頷く。
その目は、一瞬だけリオたちを見た。
――値踏みするように。
だがすぐに、柔らかな表情に戻る。
モリアが一歩前に出る。
「まあ……立派になって」
その声は、温かい。
だが、その瞳の奥には拭いきれない不安が揺れていた。帰ってきた安堵と、すぐに失うかもしれない恐れが同居している。
ダラスは一度だけ深く息を吐き、ダリウスを見た。
誇りと、叱責と、安堵が入り混じった複雑な視線だった。
「勝手に背負い込むな。だが――背負うなら、最後まで背負え」
短い叱責に、わずかな安堵が滲む。
モリアはそっとダリウスの袖に触れ、離した。
触れた指先が、震えていた。
* * *
屋敷の中は明るかった。
そして、すぐに食事が用意された。
豪勢な料理。
温かな灯り。
だが――。
誰も、心からそれを楽しめてはいなかった。
器が触れる音だけが、やけに大きく響く。
誰も話題を選びきれず、言葉は短く途切れる。
アルマリクの状況は、まだ分からない。
ただ燃えていることしか。
「食えるうちに食っておけ」
ダラスの言葉が落ちる。
現実的で、容赦のない言葉だった。
短い食事。
静かな食卓。
その中で、ぽつりと声が落ちる。
「食っとけ。力は裏切らねぇ」
ファルトの低い声。
リオは一度、息を吐く。
「……そうだよね。よし」
ミラは皿を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……分かってる。でも、こういう時に限って味がしないのよね」
セフィーナは静かに手を合わせる。
「それでも……いただきましょう。生きるために」
――食後。
アルヴァンとテオが短い余興を披露する。
場は一瞬だけ和らぐ。
笑いが、ほんのわずかに生まれる。
だが――。
次の瞬間。
影が戻ってきた。
気配もなく。
音もなく。
そして――誰一人として、息を乱していなかった。
「橋は生きてる」
クロキリが言う。声色はいつもと同じだが、視線だけがわずかに鋭い。
「瘴気を流して、戦場を制御してる。……船を連結して、橋にしてる」
一瞬、場の空気が固まる。
「海峡を渡ってくる。あれは“道”だ」
青鬼が続ける。腕の砂を払いながら、短く息を整える。
「水路は一部塞がれてるが、抜け道はある」
黄狐は外套の端を直し、視線だけで周囲を測る。
「市街は混乱中。指揮は崩れてる」
赤鬼は肩を回し、低く笑みを浮かべる。
「補給はまだ生きてるな」
短い報告。
だが、それで十分だった。
「時間はあるが、長くは持たない」
静かな結論。
* * *
――その後。
風呂で汚れを落とす。
張り詰めていた身体から、少しだけ力が抜ける。
湯気の中。
ファルトが肩を鳴らす。
「……正直、ショックだよな」
少しの沈黙。
「だけどよ、まだ負けたわけじゃねえんだ」
視線がリオへ向く。
「明日、現地入りして確かめりゃいい」
その言葉は、現実的で、そして前を向いていた。
* * *
「倉庫街の被害が心配だな」
ダラスが静かに言う。
「各国へ物資を運ぶ手はずになっていたはずだ」
わずかな沈黙が落ちる。
「だが……詳細はまだ分からん」
「人も資金も、まだ動かせる」
再び、短い間が生まれる。
「問題は――あの黒い橋だ」
リオは拳を握る。
「僕たちが……もっと早く来ていれば」
ダラスが静かに言う。
「そんなことを言っても、何も変わらんさ」
「お前たちが来ていても、そこで死んでいたかもしれん」
「ただ――いまの状況に、冷静に対応するだけだ」
誰も慰めなかった。
遠くの炎が、それを許さなかった。
* * *
「ここは俺の故郷だ」
ダリウスの声。
「守りたい」
リオは顔を上げる。
仲間たちを見る。
そして、頷く。
「……ここから始める。……守るために」
* * *
夜が明ける。
中庭に、ラクダの馬車が並ぶ。
四頭立てのラクダが、低く唸るような声を上げている。
長い脚と分厚い蹄、砂に沈まぬための幅広い足裏。
鞍と手綱は重厚で、荷台は布で覆われ、外から中の様子が見えにくい作りになっていた。
砂の街を進むための、実用本位の馬車だった。
「休めるうちに休めたか?」
ダラスの声。
「はい。ありがとうございました!」
ダラスが口の端をわずかに上げる。
「こいつは貸しだからな」
ダリウスが苦笑する。
「おいおい、親父。勘弁してくれよ」
短く笑いが落ちる。
ダラスは視線を細めたまま、低く付け加えた。
「……死ぬなよ」
その一言に、場の空気がわずかに沈む。
軽口のようでいて、冗談ではない。
ダラスの視線は外さない。
見送る者としてではなく――送り出す者としての覚悟がそこにあった。
モリアは何も言わない。
ただ、祈るように手を胸元で重ねていた。
リオとセフィーナは、まだ疲労を残していた。
だが、立つ。
進むために。
クロキリが近づく。
遠話晶を差し出す。
「何かあれば連絡しろ。こちらからもする」
リオは受け取る。
頷く。
その瞬間――影はもういなかった。
誰も見ていないうちに消えたのではない。
“最初からいなかった”かのように、痕跡ごと消えていた。
最初から存在しなかったかのように。
見えない刃が、戦場へと向かった。
リオたちは馬車に乗り込む。
ダリウスがいつもの調子で手綱を握る。
「よし、出発だ」
軽く手綱を打つ。
軋む音。
ゆっくりと、動き出す。
遠くの空は、まだ赤く燃えていた。
アルマリクへ――。
戦いへ――。
その先で、何を守るのか。
リオはもう、迷っていなかった。
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