第89話 黒盾の進軍
朝焼けの空は、赤かった。
夜の名残を薄く引きずった雲の端が、燃えるような色に染まっている。
けれど、その美しさを眺める余裕のある者など、アルマリクの城壁内にはほとんどいなかった。
――重い音が、響いていた。
遠く、地平の向こうから。
大地そのものが軋むような、低く、鈍い行軍音。
それは一つの足音ではない。
何百、何千という魔物たちが、同じ方向へ、同じ意志のもとに進んでくる音だった。
宿の窓が、かすかに震える。
棚に置かれていた木杯が、からん、と小さく鳴った。
リオは寝台の脇で、静かに剣帯を締めた。
昨夜、ほとんど眠れなかった。
眠ろうと目を閉じれば、港で見た炎と悲鳴が瞼の裏に浮かんだ。助けられなかった者たちの声が、耳の奥に残って離れなかった。
けれど、今は俯いている時間ではない。
腰の剣を確かめる。
胸元に浮かぶ青白い精霊紋が、薄く光を帯びていた。
「……来たね」
肩の近くを飛ぶアストルが、いつもの軽さを少しだけ抑えた声で言った。
リオは頷いた。
「ああ」
その時だった。
城壁の方角から、角笛の音が響き渡った。
長く、鋭く。
それでいて、街全体を奮い立たせるような音。
続いて、大警鐘が鳴る。
ごぉん――ごぉん――。
重々しい鐘の音が、朝の空を震わせた。
宿の外では、すでに兵士たちが駆けている。
武具の擦れる音。馬の嘶き。怒号。祈りの声。誰かを探す声。
アルマリクの朝は、戦場の朝へと変わっていた。
「リオ」
扉の前で待っていたファルトが、盾を背負い直しながら声をかけた。
「準備はいいか」
「うん」
ミラは杖を握り、静かに呼吸を整えている。
セフィーナは胸の前で短く祈りを捧げ、アネリアがその隣で不安げに羽を揺らしていた。
アルヴァンは背に負ったグレートソードの柄に手を添え、刃の収まりを確かめていた。無駄のない所作だった。幾度も戦場を越えてきた者だけが持つ、静かな重みがある。
その隣で、テオはロングソードの鞘を押さえ、小盾の革紐を何度も確かめていた。仲間の中では一番年下だ。顔には緊張が浮かんでいる。それでも、退く気配はなかった。
アルヴァンは口元に薄く笑みを浮かべた。
「さて。じゃあ、この舞台での正式な初陣といきますか」
その声に気負いはなかった。
むしろ、戦場の空気を知る者だけが持つ、落ち着いた響きがあった。
テオも小さく息を吸い、ロングソードの柄を握りしめる。
「はい。僕も、できることをやります。見ているだけなんて、もうできません」
ファルトは二人を見て、短く息を吐いた。
「なら、無茶はするな。生きて戻るのが最優先だ」
「わかってる」
リオは二人に視線を向けた。
「一緒に行こう」
アルヴァンとテオは、力強く頷いた。
宿の階段を降りると、入口の前にダリウスとティナが立っていた。
ダリウスはいつもの商人らしい軽口を浮かべようとしていたが、うまくいっていなかった。目の下には薄い隈があり、手には布袋を抱えている。
「おう、英雄候補ども」
そう言って、ダリウスは無理に笑った。
「こいつを持ってけ」
布袋を押しつけるように渡される。
中には、小瓶に入ったポーション、清潔な止血布、干し肉、固焼きのパン、そして小さな水袋が入っていた。
「本当はもっといいものを用意したかったんだけどな。商会の倉庫も、昨日から避難と補給でひっくり返ってる。今の俺にできるのは、このくらいだ」
「十分だよ」
リオは布袋を受け取った。
「ありがとう、ダリウス」
「礼は帰ってから聞く」
ダリウスはリオの肩を軽く叩いた。
「ティナは俺と一緒に避難してる。後ろのことは気にするな。お前は前だけ見てこい」
その言葉に、リオの胸が少しだけ軽くなった。
ティナは両手を胸の前で握りしめていた。
顔色は白い。それでも、彼女は震える声を抑えて、まっすぐリオたちを見た。
「どうか……どうか、ご無事で」
それ以上の言葉は続かなかった。
けれど、その一言に込められた願いは、十分すぎるほど伝わってきた。
セフィーナが柔らかく微笑む。
「必ず戻ります」
ミラも静かに頷いた。
「ええ。あなたたちも気をつけて」
「おう。俺は逃げ足だけは自信あるからな」
ダリウスは軽く胸を叩いた。
だが、その目は笑っていなかった。
リオは一度だけ振り返り、ティナとダリウスを見た。
「行ってきます」
ティナは唇を噛み、深く頭を下げた。
ダリウスは片手を上げた。
「行ってこい」
リオたちは駆け出した。
石畳の道を抜け、城壁へ向かう。
街の中では、民たちの避難が続いていた。荷車を押す者。幼い子を抱く母親。老人を支える若者。祈りながら神像を抱える者。
誰もが恐れていた。
それでも、誰もが生きようとしていた。
リオはその光景を見ながら、拳を握った。
守りたい。
ただ、その想いだけが、足を前へ進ませた。
城壁へ続く階段には、すでに多くの兵士が集まっていた。
槍を持つ者。弓を構える者。砲弾を運ぶ者。バリスタの弦を巻き上げる者。
怒号が飛び交う。
「矢束を北側へ回せ!」
「投石器の射角を合わせろ!」
「水桶を切らすな! 火矢の準備を急げ!」
リオたちが城壁上へ出ると、乾いた朝風が顔を打った。
そこには、都市防衛軍の陸戦隊長ハサンがいた。
陸戦隊長は、広げた地図と城壁外の敵影を交互に見ながら、各部隊の配置を確認していた。
隣にはナディア、サリムの姿もある。
ナディアは弓兵隊と魔術師隊の間を行き来し、指示を飛ばしている。
サリムは城門付近の守備隊へ伝令を走らせていた。
「リオ殿」
ハサンが振り返る。
「来てくれたか」
「はい」
リオは城壁の外へ目を向けた。
そして、息を呑んだ。
砂漠の向こうから、黒い塊が近づいてくる。
いや、塊ではない。
軍勢だった。
魔王軍の大隊。
先頭に並ぶのは、巨大な盾を構えたトロールたちだった。
人間の倍以上ある巨体。岩のような腕。分厚い皮膚。
その前面を覆うのは、漆黒の巨大盾だった。
盾はただの金属ではない。
表面に赤黒い筋が走り、脈打つように明滅している。
まるで、生きているかのようだった。
そのトロールたちが、横一列に並んでいる。
隙間がない。
壁そのものが歩いてくるような光景だった。
黒盾列。
その背後に、ゴブリンの群れが続く。
さらにオークの部隊。魔狼の群れ。荷車を押す魔物。巨大な攻城兵器。
井闌が見える。
高く組まれた木製の攻城塔が、ぎしぎしと軋みながら進んでいた。
投石器もある。
破城槌もある。
港では、魔王軍海軍の砲撃による被害こそ受けた。
だが、街そのものを落とすための本格的な陸上戦は、まだ始まっていない。
目の前にあるのは、その“本番”だった。
井闌、投石器、破城槌、黒盾列。
街を削り、壁を砕き、門を壊すためだけに組まれた軍。
これは――街を落とすための軍だった。
「……本気で来たわね」
ミラが低く呟いた。
ファルトは盾を握り直す。
「正面から潰すつもりか」
セフィーナの表情が強張った。
「数も、兵器も……昨日よりずっと多い」
アストルはリオの肩の近くで、じっと黒盾列を見つめていた。
「嫌な感じがする」
その声は、いつになく真剣だった。
アルヴァンが、城壁の縁から黒盾列を見下ろす。
背のグレートソードには、まだ手をかけていない。彼は剣を抜く前に、まず敵の形を見ていた。
「ふむ。正面から派手に撃つ前に、ちょっと試してみるか」
「試す?」
リオが問い返すと、アルヴァンは頷いた。
「ああ。魔法と精霊魔法が、どのくらい通るか見ておきたい。大技はいらない。軽いやつで十分だ」
ミラがすぐに杖を構える。
「了解。まずは私から」
短い詠唱とともに、火球が生まれた。
「《ファイアボール》」
放たれた火球は黒盾列の一角へ一直線に飛び、漆黒の盾に着弾した。
炎が弾け、黒い表面を舐める。
だが、燃え広がらない。
盾の赤黒い筋が脈打つと、炎は吸い込まれるように弱まり、煙だけが残った。
「……効きが浅い」
ミラが目を細める。
続いて、セフィーナがアネリアへ視線を向けた。
「アネリア、風精霊魔法でいきます」
『うん。軽く、だね』
セフィーナの周囲に淡い風が集まり、アネリアの力と重なって刃となる。
「《ウィンドカッター》」
風刃は盾面を叩き、甲高い音を立てた。
しかし、傷は浅い。衝撃そのものが隣の盾へ流れるように逃げていく。
「手応えが……散らされました」
セフィーナの表情が険しくなる。
リオも剣を抜かず、アストルへ視線を向けた。
「アストル、軽くいくよ」
「うん。反応を見るだけだね」
リオの掌に、青白い光が集まる。
その中心で、細い雷光がぱちりと弾けた。
「《ライトニングボール》」
雷を帯びた光球が黒盾へ向かう。
着弾の瞬間、盾の表面で青白い雷光が弾けた。
その一瞬だけ、赤黒い筋が嫌がるように揺らいだ。
だが、すぐに元へ戻る。
「今の……」
アストルが眉をひそめた。
「ちょっとだけ反応した。でも、足りない」
アルヴァンは顎に手を当て、短く息を吐いた。
「ふむ」
その声は落胆ではなく、確認の響きだった。
「単純な属性攻撃は受け流されるな。火も風も、衝撃ごと散らされてる。リオ君の精霊魔法には少し反応したが……盾を崩すには足りないか」
テオが小盾を握りしめる。
「つまり、普通に撃っても駄目、ということですか」
「そう見ていいだろうな」
アルヴァンは黒盾列を見据えたまま言った。
「問題は硬さだけじゃない。あの盾列、何かで繋がってる」
その時、ファルトがふと目を細めた。
「……おい、リオ」
「どうしたの?」
ファルトは黒盾列のさらに後方を見ていた。
攻城兵器の影、魔物たちの群れの奥。
そこに、大剣を肩に担いだ男の姿があった。
「あれ……バルグじゃないか?」
リオの呼吸が、わずかに止まった。
視線の先にいる男。
粗野な笑み。獣のような気配。巨大な剣。
忘れられるはずがなかった。
「エルバ教官をやったやつが、来てるぜ」
ファルトの声が低くなる。
盾を握る手に、力がこもっていた。
リオの胸の奥にも、熱いものがこみ上げた。
怒りだった。
けれど、同時にわかっていた。
ここで怒りに呑まれたら、何も守れない。
リオは唇を噛み、剣の柄に触れた指をゆっくりと離す。
「……うん。見えてる」
アストルが、心配そうにリオの横顔を見た。
リオは黒盾列の向こうにいるバルグを見据えたまま、小さく息を吐いた。
「でも、今は……前を止めるのが先だ」
ファルトは一瞬だけリオを見て、それから短く頷いた。
「ああ。わかってる」
それでも、二人の胸に灯った怒りは消えなかった。
ただ、刃にする時を待つように、静かに燃えていた。
同じ頃、魔王軍の後方では、バルグが大剣を肩に担ぎ、不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
「あー、じれってぇな」
彼の視線の先では、黒盾列がゆっくりと前進している。
一歩。一歩。
大地を踏みしめるたびに、砂が跳ねた。
「こんな歩き方で何が面白ぇ。俺が突っ込んで城門を叩き割った方が早いだろ」
隣に立つグラムは、冷静に戦場を見ていた。
細身の体に、黒い軍装。
手には指揮杖。顔には感情の薄い笑みが浮かんでいる。
「それでは意味がありません、バルグ様」
「あ?」
「城を落とすだけなら、いくらでも方法はあります。ですが、今回の目的はそれだけではない」
グラムは指揮杖を軽く上げた。
伝令の魔物が走り出す。
「黒盾列、速度を維持。攻城兵器は盾列の影から出すな。側面部隊はまだ動かすな。敵の初撃を待て」
「初撃を?」
バルグが眉をひそめる。
「撃たせるのか」
「はい」
グラムは淡々と答えた。
「防衛側は、最初の一斉射撃に希望を託します。バリスタ、大砲、火矢、魔法。持てるものをまとめて放つでしょう」
彼は城壁の上を見上げた。
「その希望を、真正面から受け止める」
グラムの口元がわずかに歪む。
「最初の攻撃が通じないと知った時、人間は思考を止めます。次に何をすべきか、判断が遅れる。その一瞬が、城壁を崩す隙になる」
バルグは面白くなさそうに舌打ちした。
「理屈っぽいな」
「戦とは理屈です」
「俺にとっちゃ、ぶつかって勝つもんだ」
「その時は必ず来ます」
グラムは静かに言った。
「ですが、今はまだです。あの城壁の上には、例の少年がいる」
バルグの目がわずかに細くなった。
「リオ、だったか」
「光の導き手。ディアス様が気にかけている存在です」
「へぇ」
バルグは大剣の柄を握り、獰猛に笑った。
「フェルメリアじゃ見てるだけだったからな」
肩を鳴らし、獣のように歯を見せる。
「今回は俺の番か。……楽しみだなぁ」
「焦らずとも、機会は来ます」
グラムは再び前方へ視線を戻した。
「まずは、彼らの希望を砕く」
城壁上では、緊張が限界まで高まっていた。
黒盾列は、なおも進む。
距離が縮まる。
バリスタの射程に入るまで、あとわずか。
ナディアが右手を上げた。
「弓兵隊、構え!」
弓兵たちが一斉に弦を引く。
火矢の先端に火が移され、朝風の中で小さな炎が揺れた。
ハサンが砲兵隊へ叫ぶ。
「大砲、角度固定! 初弾は黒盾列中央!」
砲兵たちが火薬を詰め、砲身を押さえる。
サリムはバリスタ隊の側で拳を握りしめていた。
「合図まで待て! 焦るな!」
ハサンは城壁の縁に立ち、迫る黒い壁を見据えた。
誰もが息を殺している。
リオもまた、剣の柄に手をかけたまま、黒盾列を見ていた。
胸の奥がざわつく。
何かが、おかしい。
ただ盾が硬いだけではない。
あの列全体が、一つの生き物のように見える。
赤黒い筋が、盾から盾へと流れているような気がした。
「アストル」
「うん。僕も見てる」
アストルの声は硬い。
だが、その違和感の正体を掴む前に、ハサンの声が響いた。
「まだだ……まだ引きつけろ……!」
黒盾列が、さらに近づく。
トロールたちの顔が見える距離になった。
濁った目。剥き出しの牙。巨体から立ち上る獣臭と瘴気。
盾の向こうで、ゴブリンたちが甲高く笑っている。
オークが斧を振り上げ、魔狼が唸り声を上げた。
ハサンが腕を振り下ろす。
「――放て!」
瞬間、城壁が震えた。
バリスタの太矢が唸りを上げて飛ぶ。
大砲が火を噴き、轟音とともに砲弾が放たれる。
無数の火矢が、朝焼けの空を焦がすように降り注いだ。
魔術師隊からも火球と石弾が撃ち出される。
人間側の初撃。
アルマリクが持てる火力を集めた一斉射撃だった。
それは、黒盾列へ直撃した。
轟音。
爆炎。
砂塵。
火矢が盾に突き立ち、砲弾が弾け、バリスタの太矢が黒い表面を穿つ。
城壁上の兵士たちは、誰もが息を呑んだ。
次の瞬間、砂煙の奥から黒い影が現れた。
黒盾列は、崩れていなかった。
一体も倒れていない。
盾の表面には傷がついている。
火も燃えている。
それでも、盾は砕けていなかった。
赤黒い光が、盾の傷口を這う。
まるで血管のように脈動し、受けた衝撃を隣の盾へ、さらにその隣へと逃がしていく。
バリスタの太矢が、ぎしりと音を立てて押し戻された。
砲弾で歪んだはずの盾面が、瘴気を吐きながら形を保つ。
黒盾列は、止まらない。
一歩。
また一歩。
城壁上に、沈黙が落ちた。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。
「今のを、受けたのか」
「効いていない……?」
「馬鹿な。大砲だぞ……!」
動揺が広がる。
弓兵の一人が、次の矢をつがえる手を震わせた。砲兵が顔を青ざめさせ、火薬袋を落としかける。
若い兵士が膝から崩れかけ、隣の兵に襟首を掴まれて引き戻された。
別の兵は震える唇で神の名を唱え、矢筒を抱く手に爪を食い込ませている。
絶望は、叫びより先に沈黙として広がった。
ナディアが叫んだ。
「怯むな! 次弾装填! あんな盾一枚に、アルマリクの壁を止めさせるな!」
怒りを含んだ声だった。
それでも、その怒りは兵士たちを立たせるためのものだった。
ハサンも声を張る。
「まだだ! 撃ち続けろ! 止まっている暇があるなら、次を撃て!」
だが、その声にも焦りが混じっていた。
ハサン自身もまた、黒盾列が無傷で進む光景を前に、奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばっていた。
その時、黒盾列の背後で動きがあった。
ゴブリンたちが一斉に弓を構える。
オークたちが投石器の腕を引き絞る。
さらに後方の魔術師らしき魔物たちが、赤黒い魔力を掲げた。
「敵、攻撃来ます!」
見張りの声が飛ぶ。
次の瞬間、空が暗くなった。
矢の雨。
投石器から放たれた岩塊。
瘴気を帯びた火球と黒い魔弾。
それらが城壁めがけて、一斉に降り注いだ。
「防御結界、展開!」
ナディアの号令とともに、城壁上の魔術師たちが杖を掲げる。
淡い光の膜が城壁前面に広がり、降り注ぐ矢と魔弾を受け止めた。
ばちばち、と火花が散る。
岩塊が結界にぶつかり、鈍い音を立てて砕ける。
黒い魔弾が光膜を焦がし、煙のような瘴気を撒き散らした。
だが、すべては防ぎきれなかった。
一部の矢が結界の薄い箇所を抜け、城壁上へ降り注ぐ。
砕けた岩片が兵士の肩を打ち、魔弾の余波が弓兵を吹き飛ばした。
「ぐあっ!」
「負傷者を下げろ!」
「結界班、右側が薄い! 補強しろ!」
城壁上に、血と悲鳴が混じった。
それでも兵士たちは持ち場を離れない。
倒れた仲間を引きずり下げ、その隙間へ別の兵が入る。
「母さん……っ」
誰かが掠れた声で呟いた。
その声はすぐに怒号と爆音に呑まれたが、リオの耳には残った。
リオは歯を食いしばった。
胸の奥が、ぎり、と軋む。
攻撃が通らない。
防御しても、完全には防ぎきれない。
黒盾列はその間にも、何事もなかったように進み続けている。
ハサンは奥歯を噛みしめる。
「……これが、魔王軍の正面突破か。くそ、ただの力押しじゃない……!」
リオは黒盾列を凝視していた。
胸の精霊紋が、熱を帯びる。
鼓動に合わせるように、青白い光がわずかに揺れた。
見える。
いや、感じる。
盾そのものではない。
盾と盾の間に、何かが流れている。
耳の奥で、ぬめるような音がした気がした。
血管を流れる血ではない。もっと冷たく、重く、濁ったもの。
瘴気だ。
気づいた瞬間、背筋が冷えた。
ただ硬い盾なら、いつか砕ける。けれどこれは違う。壊すべき場所を見誤れば、どれだけ撃ち込んでも、みんなが傷ついていくだけだ。
焦りが喉を締めた。
「ミラ」
リオが声をかけると、ミラも同じものを感じ取っていたのか、険しい表情で頷いた。
「ええ。変ね。盾に当たった力が、そこで止まっていない」
ミラは杖を握る指に力を込めた。
「横へ逃げてる。まるで、列全体が一枚の盾みたいに」
セフィーナが息を呑む。
「盾同士が……瘴気で繋がっている?」
アネリアがセフィーナの肩の近くで震えた。
「風の流れも変。あの前だけ、重たい膜みたいになってる」
アストルは黒盾列を睨みつける。
いつもの冗談めいた笑みは消えていた。
「ただの防御じゃない。瘴気が、あの盾列を縫い合わせてるんだ」
「なら、一枚を壊すだけじゃ駄目ってことか」
ファルトが低く唸った。
「列そのものを崩さないと、攻撃が通らない」
リオの視線は、黒盾列の足元へ向いた。
盾の下。
トロールたちの足元。
地面を這うように、赤黒い瘴気が薄く流れている。
それは盾同士を繋ぎ、さらに背後の魔物たちへも伸びているように見えた。
まるで、黒い血管だった。
リオの脳裏に、これまで見てきた瘴気だまりの光景がよぎる。
魔物を狂わせ、傷を塞ぎ、力を歪める魔王軍の力。
けれど、今回は違う。
瘴気が暴れているのではない。
誰かの意志で、形を与えられている。
リオは息を呑んだ。
「瘴気……」
その言葉に、自分の声が少し震えていることに気づいた。
恐怖ではない。間に合わなければ、また誰かが目の前で倒れる。その予感が、胸の奥を強く掴んでいた。
胸の奥で、何かが引っかかる。
ただ漂っているのではない。
盾と盾の間を巡り、衝撃を逃がし、黒盾列そのものを一つの壁にしている。
なら――。
壊すべきなのは、盾そのものではない。
リオの視線は、黒盾列の足元を追った。
地面を這う赤黒い流れ。
盾から盾へ、トロールからトロールへと伸びる、見えない鎖。
どこかで、似たものを聞いた気がした。
ふざけた名前なのに、仕組みだけはやけに理にかなっていた。
記憶の端が、光る。
リオは、黒盾列を見据えたまま、ゆっくりと呟いた。
「……もしかして」
黒盾の進軍は、なおも止まらなかった。
城壁へ向けて、一歩ずつ。
確実に。
絶望そのもののように、近づいていた。
それでも、リオの胸の奥で、青白い光が一度だけ強く脈打った。
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