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勇者とは呼ばれずとも 封じられし精霊と少年の物語  作者: カイメイラ
第4章 胎動する世界

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第89話 黒盾の進軍


 朝焼けの空は、赤かった。


 夜の名残を薄く引きずった雲の端が、燃えるような色に染まっている。

 けれど、その美しさを眺める余裕のある者など、アルマリクの城壁内にはほとんどいなかった。


 ――重い音が、響いていた。


 遠く、地平の向こうから。

 大地そのものが軋むような、低く、鈍い行軍音。


 それは一つの足音ではない。

 何百、何千という魔物たちが、同じ方向へ、同じ意志のもとに進んでくる音だった。


 宿の窓が、かすかに震える。

 棚に置かれていた木杯が、からん、と小さく鳴った。


 リオは寝台の脇で、静かに剣帯を締めた。


 昨夜、ほとんど眠れなかった。

 眠ろうと目を閉じれば、港で見た炎と悲鳴が瞼の裏に浮かんだ。助けられなかった者たちの声が、耳の奥に残って離れなかった。


 けれど、今は俯いている時間ではない。


 腰の剣を確かめる。

 胸元に浮かぶ青白い精霊紋が、薄く光を帯びていた。


「……来たね」


 肩の近くを飛ぶアストルが、いつもの軽さを少しだけ抑えた声で言った。


 リオは頷いた。


「ああ」


 その時だった。


 城壁の方角から、角笛の音が響き渡った。


 長く、鋭く。

 それでいて、街全体を奮い立たせるような音。


 続いて、大警鐘が鳴る。


 ごぉん――ごぉん――。


 重々しい鐘の音が、朝の空を震わせた。


 宿の外では、すでに兵士たちが駆けている。

 武具の擦れる音。馬の嘶き。怒号。祈りの声。誰かを探す声。


 アルマリクの朝は、戦場の朝へと変わっていた。


「リオ」


 扉の前で待っていたファルトが、盾を背負い直しながら声をかけた。


「準備はいいか」


「うん」


 ミラは杖を握り、静かに呼吸を整えている。

 セフィーナは胸の前で短く祈りを捧げ、アネリアがその隣で不安げに羽を揺らしていた。


 アルヴァンは背に負ったグレートソードの柄に手を添え、刃の収まりを確かめていた。無駄のない所作だった。幾度も戦場を越えてきた者だけが持つ、静かな重みがある。


 その隣で、テオはロングソードの鞘を押さえ、小盾の革紐を何度も確かめていた。仲間の中では一番年下だ。顔には緊張が浮かんでいる。それでも、退く気配はなかった。


 アルヴァンは口元に薄く笑みを浮かべた。


「さて。じゃあ、この舞台での正式な初陣といきますか」


 その声に気負いはなかった。

 むしろ、戦場の空気を知る者だけが持つ、落ち着いた響きがあった。


 テオも小さく息を吸い、ロングソードの柄を握りしめる。


「はい。僕も、できることをやります。見ているだけなんて、もうできません」


 ファルトは二人を見て、短く息を吐いた。


「なら、無茶はするな。生きて戻るのが最優先だ」


「わかってる」


 リオは二人に視線を向けた。


「一緒に行こう」


 アルヴァンとテオは、力強く頷いた。


 宿の階段を降りると、入口の前にダリウスとティナが立っていた。


 ダリウスはいつもの商人らしい軽口を浮かべようとしていたが、うまくいっていなかった。目の下には薄い隈があり、手には布袋を抱えている。


「おう、英雄候補ども」


 そう言って、ダリウスは無理に笑った。


「こいつを持ってけ」


 布袋を押しつけるように渡される。

 中には、小瓶に入ったポーション、清潔な止血布、干し肉、固焼きのパン、そして小さな水袋が入っていた。


「本当はもっといいものを用意したかったんだけどな。商会の倉庫も、昨日から避難と補給でひっくり返ってる。今の俺にできるのは、このくらいだ」


「十分だよ」


 リオは布袋を受け取った。


「ありがとう、ダリウス」


「礼は帰ってから聞く」


 ダリウスはリオの肩を軽く叩いた。


「ティナは俺と一緒に避難してる。後ろのことは気にするな。お前は前だけ見てこい」


 その言葉に、リオの胸が少しだけ軽くなった。


 ティナは両手を胸の前で握りしめていた。

 顔色は白い。それでも、彼女は震える声を抑えて、まっすぐリオたちを見た。


「どうか……どうか、ご無事で」


 それ以上の言葉は続かなかった。

 けれど、その一言に込められた願いは、十分すぎるほど伝わってきた。


 セフィーナが柔らかく微笑む。


「必ず戻ります」


 ミラも静かに頷いた。


「ええ。あなたたちも気をつけて」


「おう。俺は逃げ足だけは自信あるからな」


 ダリウスは軽く胸を叩いた。


 だが、その目は笑っていなかった。


 リオは一度だけ振り返り、ティナとダリウスを見た。


「行ってきます」


 ティナは唇を噛み、深く頭を下げた。


 ダリウスは片手を上げた。


「行ってこい」


 リオたちは駆け出した。


 石畳の道を抜け、城壁へ向かう。

 街の中では、民たちの避難が続いていた。荷車を押す者。幼い子を抱く母親。老人を支える若者。祈りながら神像を抱える者。


 誰もが恐れていた。

 それでも、誰もが生きようとしていた。


 リオはその光景を見ながら、拳を握った。


 守りたい。


 ただ、その想いだけが、足を前へ進ませた。


 城壁へ続く階段には、すでに多くの兵士が集まっていた。

 槍を持つ者。弓を構える者。砲弾を運ぶ者。バリスタの弦を巻き上げる者。


 怒号が飛び交う。


「矢束を北側へ回せ!」


「投石器の射角を合わせろ!」


「水桶を切らすな! 火矢の準備を急げ!」


 リオたちが城壁上へ出ると、乾いた朝風が顔を打った。


 そこには、都市防衛軍の陸戦隊長ハサンがいた。


 陸戦隊長は、広げた地図と城壁外の敵影を交互に見ながら、各部隊の配置を確認していた。

 隣にはナディア、サリムの姿もある。


 ナディアは弓兵隊と魔術師隊の間を行き来し、指示を飛ばしている。

 サリムは城門付近の守備隊へ伝令を走らせていた。


「リオ殿」


 ハサンが振り返る。


「来てくれたか」


「はい」


 リオは城壁の外へ目を向けた。


 そして、息を呑んだ。


 砂漠の向こうから、黒い塊が近づいてくる。


 いや、塊ではない。

 軍勢だった。


 魔王軍の大隊。


 先頭に並ぶのは、巨大な盾を構えたトロールたちだった。

 人間の倍以上ある巨体。岩のような腕。分厚い皮膚。

 その前面を覆うのは、漆黒の巨大盾だった。


 盾はただの金属ではない。

 表面に赤黒い筋が走り、脈打つように明滅している。

 まるで、生きているかのようだった。


 そのトロールたちが、横一列に並んでいる。


 隙間がない。

 壁そのものが歩いてくるような光景だった。


 黒盾列。


 その背後に、ゴブリンの群れが続く。

 さらにオークの部隊。魔狼の群れ。荷車を押す魔物。巨大な攻城兵器。


 井闌せいらんが見える。

 高く組まれた木製の攻城塔が、ぎしぎしと軋みながら進んでいた。


 投石器もある。

 破城槌もある。


 港では、魔王軍海軍の砲撃による被害こそ受けた。

 だが、街そのものを落とすための本格的な陸上戦は、まだ始まっていない。


 目の前にあるのは、その“本番”だった。


 井闌せいらん、投石器、破城槌、黒盾列。

 街を削り、壁を砕き、門を壊すためだけに組まれた軍。


 これは――街を落とすための軍だった。


「……本気で来たわね」


 ミラが低く呟いた。


 ファルトは盾を握り直す。


「正面から潰すつもりか」


 セフィーナの表情が強張った。


「数も、兵器も……昨日よりずっと多い」


 アストルはリオの肩の近くで、じっと黒盾列を見つめていた。


「嫌な感じがする」


 その声は、いつになく真剣だった。


 アルヴァンが、城壁の縁から黒盾列を見下ろす。

 背のグレートソードには、まだ手をかけていない。彼は剣を抜く前に、まず敵の形を見ていた。


「ふむ。正面から派手に撃つ前に、ちょっと試してみるか」


「試す?」


 リオが問い返すと、アルヴァンは頷いた。


「ああ。魔法と精霊魔法が、どのくらい通るか見ておきたい。大技はいらない。軽いやつで十分だ」


 ミラがすぐに杖を構える。


「了解。まずは私から」


 短い詠唱とともに、火球が生まれた。


「《ファイアボール》」


 放たれた火球は黒盾列の一角へ一直線に飛び、漆黒の盾に着弾した。

 炎が弾け、黒い表面を舐める。


 だが、燃え広がらない。

 盾の赤黒い筋が脈打つと、炎は吸い込まれるように弱まり、煙だけが残った。


「……効きが浅い」


 ミラが目を細める。


 続いて、セフィーナがアネリアへ視線を向けた。


「アネリア、風精霊魔法でいきます」


『うん。軽く、だね』


 セフィーナの周囲に淡い風が集まり、アネリアの力と重なって刃となる。


「《ウィンドカッター》」


 風刃は盾面を叩き、甲高い音を立てた。

 しかし、傷は浅い。衝撃そのものが隣の盾へ流れるように逃げていく。


「手応えが……散らされました」


 セフィーナの表情が険しくなる。


 リオも剣を抜かず、アストルへ視線を向けた。


「アストル、軽くいくよ」


「うん。反応を見るだけだね」


 リオの掌に、青白い光が集まる。

 その中心で、細い雷光がぱちりと弾けた。


「《ライトニングボール》」


 雷を帯びた光球が黒盾へ向かう。

 着弾の瞬間、盾の表面で青白い雷光が弾けた。


 その一瞬だけ、赤黒い筋が嫌がるように揺らいだ。


 だが、すぐに元へ戻る。


「今の……」


 アストルが眉をひそめた。


「ちょっとだけ反応した。でも、足りない」


 アルヴァンは顎に手を当て、短く息を吐いた。


「ふむ」


 その声は落胆ではなく、確認の響きだった。


「単純な属性攻撃は受け流されるな。火も風も、衝撃ごと散らされてる。リオ君の精霊魔法には少し反応したが……盾を崩すには足りないか」


 テオが小盾を握りしめる。


「つまり、普通に撃っても駄目、ということですか」


「そう見ていいだろうな」


 アルヴァンは黒盾列を見据えたまま言った。


「問題は硬さだけじゃない。あの盾列、何かで繋がってる」


 その時、ファルトがふと目を細めた。


「……おい、リオ」


「どうしたの?」


 ファルトは黒盾列のさらに後方を見ていた。

 攻城兵器の影、魔物たちの群れの奥。

 そこに、大剣を肩に担いだ男の姿があった。


「あれ……バルグじゃないか?」


 リオの呼吸が、わずかに止まった。


 視線の先にいる男。

 粗野な笑み。獣のような気配。巨大な剣。


 忘れられるはずがなかった。


「エルバ教官をやったやつが、来てるぜ」


 ファルトの声が低くなる。

 盾を握る手に、力がこもっていた。


 リオの胸の奥にも、熱いものがこみ上げた。


 怒りだった。


 けれど、同時にわかっていた。

 ここで怒りに呑まれたら、何も守れない。


 リオは唇を噛み、剣の柄に触れた指をゆっくりと離す。


「……うん。見えてる」


 アストルが、心配そうにリオの横顔を見た。


 リオは黒盾列の向こうにいるバルグを見据えたまま、小さく息を吐いた。


「でも、今は……前を止めるのが先だ」


 ファルトは一瞬だけリオを見て、それから短く頷いた。


「ああ。わかってる」


 それでも、二人の胸に灯った怒りは消えなかった。

 ただ、刃にする時を待つように、静かに燃えていた。


 同じ頃、魔王軍の後方では、バルグが大剣を肩に担ぎ、不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。


「あー、じれってぇな」


 彼の視線の先では、黒盾列がゆっくりと前進している。

 一歩。一歩。

 大地を踏みしめるたびに、砂が跳ねた。


「こんな歩き方で何が面白ぇ。俺が突っ込んで城門を叩き割った方が早いだろ」


 隣に立つグラムは、冷静に戦場を見ていた。


 細身の体に、黒い軍装。

 手には指揮杖。顔には感情の薄い笑みが浮かんでいる。


「それでは意味がありません、バルグ様」


「あ?」


「城を落とすだけなら、いくらでも方法はあります。ですが、今回の目的はそれだけではない」


 グラムは指揮杖を軽く上げた。


 伝令の魔物が走り出す。


「黒盾列、速度を維持。攻城兵器は盾列の影から出すな。側面部隊はまだ動かすな。敵の初撃を待て」


「初撃を?」


 バルグが眉をひそめる。


「撃たせるのか」


「はい」


 グラムは淡々と答えた。


「防衛側は、最初の一斉射撃に希望を託します。バリスタ、大砲、火矢、魔法。持てるものをまとめて放つでしょう」


 彼は城壁の上を見上げた。


「その希望を、真正面から受け止める」


 グラムの口元がわずかに歪む。


「最初の攻撃が通じないと知った時、人間は思考を止めます。次に何をすべきか、判断が遅れる。その一瞬が、城壁を崩す隙になる」


 バルグは面白くなさそうに舌打ちした。


「理屈っぽいな」


「戦とは理屈です」


「俺にとっちゃ、ぶつかって勝つもんだ」


「その時は必ず来ます」


 グラムは静かに言った。


「ですが、今はまだです。あの城壁の上には、例の少年がいる」


 バルグの目がわずかに細くなった。


「リオ、だったか」


「光の導き手。ディアス様が気にかけている存在です」


「へぇ」


 バルグは大剣の柄を握り、獰猛に笑った。


「フェルメリアじゃ見てるだけだったからな」


 肩を鳴らし、獣のように歯を見せる。


「今回は俺の番か。……楽しみだなぁ」


「焦らずとも、機会は来ます」


 グラムは再び前方へ視線を戻した。


「まずは、彼らの希望を砕く」


 城壁上では、緊張が限界まで高まっていた。


 黒盾列は、なおも進む。


 距離が縮まる。


 バリスタの射程に入るまで、あとわずか。


 ナディアが右手を上げた。


「弓兵隊、構え!」


 弓兵たちが一斉に弦を引く。

 火矢の先端に火が移され、朝風の中で小さな炎が揺れた。


 ハサンが砲兵隊へ叫ぶ。


「大砲、角度固定! 初弾は黒盾列中央!」


 砲兵たちが火薬を詰め、砲身を押さえる。


 サリムはバリスタ隊の側で拳を握りしめていた。


「合図まで待て! 焦るな!」


 ハサンは城壁の縁に立ち、迫る黒い壁を見据えた。


 誰もが息を殺している。


 リオもまた、剣の柄に手をかけたまま、黒盾列を見ていた。


 胸の奥がざわつく。


 何かが、おかしい。


 ただ盾が硬いだけではない。

 あの列全体が、一つの生き物のように見える。


 赤黒い筋が、盾から盾へと流れているような気がした。


「アストル」


「うん。僕も見てる」


 アストルの声は硬い。


 だが、その違和感の正体を掴む前に、ハサンの声が響いた。


「まだだ……まだ引きつけろ……!」


 黒盾列が、さらに近づく。


 トロールたちの顔が見える距離になった。

 濁った目。剥き出しの牙。巨体から立ち上る獣臭と瘴気。


 盾の向こうで、ゴブリンたちが甲高く笑っている。

 オークが斧を振り上げ、魔狼が唸り声を上げた。


 ハサンが腕を振り下ろす。


「――放て!」


 瞬間、城壁が震えた。


 バリスタの太矢が唸りを上げて飛ぶ。

 大砲が火を噴き、轟音とともに砲弾が放たれる。

 無数の火矢が、朝焼けの空を焦がすように降り注いだ。


 魔術師隊からも火球と石弾が撃ち出される。


 人間側の初撃。

 アルマリクが持てる火力を集めた一斉射撃だった。


 それは、黒盾列へ直撃した。


 轟音。


 爆炎。


 砂塵。


 火矢が盾に突き立ち、砲弾が弾け、バリスタの太矢が黒い表面を穿つ。


 城壁上の兵士たちは、誰もが息を呑んだ。


 次の瞬間、砂煙の奥から黒い影が現れた。


 黒盾列は、崩れていなかった。


 一体も倒れていない。


 盾の表面には傷がついている。

 火も燃えている。

 それでも、盾は砕けていなかった。


 赤黒い光が、盾の傷口を這う。

 まるで血管のように脈動し、受けた衝撃を隣の盾へ、さらにその隣へと逃がしていく。


 バリスタの太矢が、ぎしりと音を立てて押し戻された。

 砲弾で歪んだはずの盾面が、瘴気を吐きながら形を保つ。


 黒盾列は、止まらない。


 一歩。


 また一歩。


 城壁上に、沈黙が落ちた。


「……嘘だろ」


 誰かが呟いた。


「今のを、受けたのか」


「効いていない……?」


「馬鹿な。大砲だぞ……!」


 動揺が広がる。

 弓兵の一人が、次の矢をつがえる手を震わせた。砲兵が顔を青ざめさせ、火薬袋を落としかける。


 若い兵士が膝から崩れかけ、隣の兵に襟首を掴まれて引き戻された。

 別の兵は震える唇で神の名を唱え、矢筒を抱く手に爪を食い込ませている。


 絶望は、叫びより先に沈黙として広がった。


 ナディアが叫んだ。


「怯むな! 次弾装填! あんな盾一枚に、アルマリクの壁を止めさせるな!」


 怒りを含んだ声だった。

 それでも、その怒りは兵士たちを立たせるためのものだった。


 ハサンも声を張る。


「まだだ! 撃ち続けろ! 止まっている暇があるなら、次を撃て!」


 だが、その声にも焦りが混じっていた。

 ハサン自身もまた、黒盾列が無傷で進む光景を前に、奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばっていた。


 その時、黒盾列の背後で動きがあった。


 ゴブリンたちが一斉に弓を構える。

 オークたちが投石器の腕を引き絞る。

 さらに後方の魔術師らしき魔物たちが、赤黒い魔力を掲げた。


「敵、攻撃来ます!」


 見張りの声が飛ぶ。


 次の瞬間、空が暗くなった。


 矢の雨。

 投石器から放たれた岩塊。

 瘴気を帯びた火球と黒い魔弾。


 それらが城壁めがけて、一斉に降り注いだ。


「防御結界、展開!」


 ナディアの号令とともに、城壁上の魔術師たちが杖を掲げる。

 淡い光の膜が城壁前面に広がり、降り注ぐ矢と魔弾を受け止めた。


 ばちばち、と火花が散る。

 岩塊が結界にぶつかり、鈍い音を立てて砕ける。

 黒い魔弾が光膜を焦がし、煙のような瘴気を撒き散らした。


 だが、すべては防ぎきれなかった。


 一部の矢が結界の薄い箇所を抜け、城壁上へ降り注ぐ。

 砕けた岩片が兵士の肩を打ち、魔弾の余波が弓兵を吹き飛ばした。


「ぐあっ!」


「負傷者を下げろ!」


「結界班、右側が薄い! 補強しろ!」


 城壁上に、血と悲鳴が混じった。

 それでも兵士たちは持ち場を離れない。

 倒れた仲間を引きずり下げ、その隙間へ別の兵が入る。


「母さん……っ」


 誰かが掠れた声で呟いた。

 その声はすぐに怒号と爆音に呑まれたが、リオの耳には残った。


 リオは歯を食いしばった。

 胸の奥が、ぎり、と軋む。


 攻撃が通らない。

 防御しても、完全には防ぎきれない。


 黒盾列はその間にも、何事もなかったように進み続けている。


 ハサンは奥歯を噛みしめる。


「……これが、魔王軍の正面突破か。くそ、ただの力押しじゃない……!」


 リオは黒盾列を凝視していた。


 胸の精霊紋が、熱を帯びる。

 鼓動に合わせるように、青白い光がわずかに揺れた。


 見える。


 いや、感じる。


 盾そのものではない。

 盾と盾の間に、何かが流れている。


 耳の奥で、ぬめるような音がした気がした。

 血管を流れる血ではない。もっと冷たく、重く、濁ったもの。


 瘴気だ。


 気づいた瞬間、背筋が冷えた。

 ただ硬い盾なら、いつか砕ける。けれどこれは違う。壊すべき場所を見誤れば、どれだけ撃ち込んでも、みんなが傷ついていくだけだ。


 焦りが喉を締めた。


「ミラ」


 リオが声をかけると、ミラも同じものを感じ取っていたのか、険しい表情で頷いた。


「ええ。変ね。盾に当たった力が、そこで止まっていない」


 ミラは杖を握る指に力を込めた。


「横へ逃げてる。まるで、列全体が一枚の盾みたいに」


 セフィーナが息を呑む。


「盾同士が……瘴気で繋がっている?」


 アネリアがセフィーナの肩の近くで震えた。


「風の流れも変。あの前だけ、重たい膜みたいになってる」


 アストルは黒盾列を睨みつける。

 いつもの冗談めいた笑みは消えていた。


「ただの防御じゃない。瘴気が、あの盾列を縫い合わせてるんだ」


「なら、一枚を壊すだけじゃ駄目ってことか」


 ファルトが低く唸った。


「列そのものを崩さないと、攻撃が通らない」


 リオの視線は、黒盾列の足元へ向いた。


 盾の下。

 トロールたちの足元。

 地面を這うように、赤黒い瘴気が薄く流れている。


 それは盾同士を繋ぎ、さらに背後の魔物たちへも伸びているように見えた。


 まるで、黒い血管だった。


 リオの脳裏に、これまで見てきた瘴気だまりの光景がよぎる。

 魔物を狂わせ、傷を塞ぎ、力を歪める魔王軍の力。


 けれど、今回は違う。


 瘴気が暴れているのではない。

 誰かの意志で、形を与えられている。


 リオは息を呑んだ。


「瘴気……」


 その言葉に、自分の声が少し震えていることに気づいた。

 恐怖ではない。間に合わなければ、また誰かが目の前で倒れる。その予感が、胸の奥を強く掴んでいた。


 胸の奥で、何かが引っかかる。


 ただ漂っているのではない。

 盾と盾の間を巡り、衝撃を逃がし、黒盾列そのものを一つの壁にしている。


 なら――。


 壊すべきなのは、盾そのものではない。


 リオの視線は、黒盾列の足元を追った。

 地面を這う赤黒い流れ。

 盾から盾へ、トロールからトロールへと伸びる、見えない鎖。


 どこかで、似たものを聞いた気がした。


 ふざけた名前なのに、仕組みだけはやけに理にかなっていた。


 記憶の端が、光る。


 リオは、黒盾列を見据えたまま、ゆっくりと呟いた。


「……もしかして」


 黒盾の進軍は、なおも止まらなかった。


 城壁へ向けて、一歩ずつ。

 確実に。


 絶望そのもののように、近づいていた。


 それでも、リオの胸の奥で、青白い光が一度だけ強く脈打った。

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