第84話 迫り来る黒帆
楼蘭海北西域。
静かな海を裂くように、黒い帆を掲げた船団が進んでいた。
先頭から最後尾まで、水平線を埋め尽くすように連なる黒い影。
黒点が、増える。増え続ける。
数は把握しきれない。だが、見る者の本能が理解する。
――あれは、数で勝てる相手ではない。
波は従うように流れ、風はその背を押す。
帆布が鳴る。艤装が軋む。その上から――低い笑いが、海面を伝って広がった。
逃げるでもなく、急ぐでもなく――ただ悠々と。
それは、すでに勝利を確信した者たちの進軍だった。
旗艦の甲板。
ガルドは腕を組み、前方を見据えていた。
「ガッハッハ……追撃もねぇか」
低く、腹の底から響く笑い。
「スエランの連中、まんまと引っかかったようだな」
その声に呼応するように、周囲の黒帆が一斉にきしむ。
その時。
空間が、わずかに歪む。
裂け目のような揺らぎの中から、一人の男が現れた。
ジャンだ。
「ガルド様。足止めは終わりましたよ」
ジャンは肩をすくめ、まるで些事のように言った。
「クラーケンは……やられちまいましたが」
「船のマストは前列から二隻分、根元から吹っ飛ばしておいたので、時間稼ぎには十分でしょう」
口元が歪む。
「舵は死ぬ。風を受けられなきゃ、ただの的です」
「マストが吹っ飛んだ時のあいつらの顔……見せてやりたかったですよ」
ガルドは、低く喉を鳴らして笑った。
「ハッハッハ……そいつは愉快だな」
「その面、拝めなかったのが残念だ」
ガルドは、ゆっくりと息を吐き、海を見下ろす。
「海獣を落としたか。上出来だ」
「損耗は織り込み済みだ。遅延が目的なら、結果は満点だな」
その声音には苛立ちも焦りもない。
ただ、戦況を“数字”として処理する冷たさだけがあった。
ジャンは笑う。
「だが――」
ガルドが口角を吊り上げる。
「それでも、ここには届かねぇ」
わずかな沈黙。
だが、それは緊張ではない。
余裕だ。
「よし……さっさと目的地まで行くか」
ガルドが一歩踏み出す。
その手が、ゆっくりと海へ向けられる。
指先がわずかに開き、まるで海そのものを掴むように。
低く、笑いが漏れる。
「……応えろ」
その瞬間。
ガルドが低く詠う。
「母なる海よ――我が声を聞き届けよ」
海が、応じた。
水面が沈む。
引かれるように――まるで巨大な引力に掴まれたかのように。
次の瞬間、持ち上がる。
月の潮汐のように、だがそれよりも遥かに強く、意図を持って。
うねりが連なり、艦首の下に“道”を作る。
押すのではない。
“乗せている”。
旗艦を先頭に、船団は海そのものに運ばれるように加速した。
後列の艦も同時に引き込まれ、黒い帆が一斉に膨らむ。
風と水が同時に従う――異様な進軍。
誰もが理解していた。
この進軍を、止める者はいない。
数刻後。
アルマリク前哨、見張り台。
(同刻――楼蘭海西南域、リオたちはなお遠い)
「敵船影を確認! 方位、北東!」
「この進路……海峡方面か!?」
見張りが叫ぶ。
同時に、遠晶話が起動する。
『こちら前哨! 黒帆の船団を確認! おそらく魔王軍のもの!』
『距離は!?』
『接近中、速い! 想定より早い!』
『識別は!?』
『黒帆確認! 魔王軍所属と断定! 軍艦……十隻以上!』
『旗艦らしき大型艦を視認!』
『規模より見て――一個師団規模と推定!』
通信が一斉に飛び交う。
「規模……多数! 至急対処されたし!」
鐘が打ち鳴らされる。
ドン、ドン、と重い音が街へ広がる。
「野郎ども、出航準備急げ! 港を固めろ!」
「動け! 配置に付け!」「弓兵、上へ!」「港湾封鎖、急げ!」
「投石機を準備しろ! バリスタの矢、ありったけ持ってこい!」
「売り物も全部出せ! 破壊されたら一緒だ! 砲台展開準備!」
「大鷲部隊を上げろ! ファルコンライダー、離陸準備!」
怒号が重なり、足音が駆ける。
「門を閉めろ! 子どもを下げろ!」
幼子を抱えた母親が走り、叫ぶ。
「早く! 早く来て!」
子どもが泣き叫び、腕にしがみつく。
商人は帳簿と袋を抱えて右往左往する。
「くそっ、どれを捨てる……いや、全部持ってけ!」
「荷を捨てるな、持てるだけ持て!」
荷車がぶつかり、木箱が割れる。金属音と悲鳴が混じる。
街の空気が、一瞬で戦時へと切り替わった。
だが、その中に混じるのは、怒号だけではない。
「……来るのかよ、本当に……」
誰かの呟き。
恐怖が、確かに広がり始めていた。
「ついに来やがったか……」
アルマリク市長ザファルは、寝不足の目をこすりながら低く呟いた。
その指先はわずかに震えている。
(逃げるか、守るか――)
一瞬だけ過る思考。
だが視線は逸らさない。
海の向こうを睨む。
「海峡越しでも瘴気が流れてきてやがる……」
顔をしかめる。
「いつ来てもおかしくなかったってわけだ」
即座に振り返る。
「よし、陸海空を全部叩き起こせ」
「雇ってた傭兵も全部呼び戻せ」
「運べる荷は、街の外へ運び出せ! 失うわけにはいかん!」
部下が走る。
「メフレトに支援要請を出せ! 今すぐだ!」
命令が飛び交う。
「侵入を許すな」
市長の声が鋭くなる。
「倉庫街を絶対死守だ」
一瞬の静寂。
誰もが、その意味を理解していた。
そこを抜かれれば――街は終わる。
戦場は――すでにアルマリクへ移っていた。
その火種は、すぐそこまで来ている。
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