第80話 開戦
夜明け。
水平線の向こうから、ゆっくりと朝日が昇る。
柔らかな光が海面を染め、無数の島々を浮かび上がらせた。
――その直後。
水平線の半分が、黒に塗り潰された。
「……あれが、スエラン連邦か」
甲板の上で、低い声が漏れる。
「左様です」
副官が短く応じた。
静かな海。
だが。
その静けさの上を、黒が覆い始めていた。
黒い帆。無数。
十、二十ではない。
数え切れない艦影が、層を成して迫る。
横一列に並ぶ艦隊が、海を埋め尽くす。帆がはためく低い唸りが、遠雷のように連なった。
「……来たな。戦闘準備だ」
その声に、わずかな愉悦が混じる。
ガルドが、笑う。
「三番隊から一番隊の順で横陣展開」
命令が飛ぶ。
巨大な船団が、ゆっくりと横へ広がっていく。
面。
それは、海そのものを覆う壁だった。
――ヨウヘー港。
「敵影あり!」
見張りの叫び。
双眼鏡の先。
小さな影。
だが、その数が異常だった。
警鐘が鳴り響く。金属音が胸骨に響き、空気が一段冷たくなる。
やがてそれは、鋭い戦闘警戒音へと変わった。
港にはすでに、陸軍と空軍が集結している。
兵が走り、命令が飛び交う。
戦の空気が、満ちていた。
「……来たか」
脳裏に、港で見送った部下の顔が一瞬よぎる――十番艦の操舵手、ユウト。無理に笑って「任せてくださいよ、閣下」と言った。
海軍大将レシトンが、ゆっくりと前に出る。
「出航せよ」
「単縦陣!」
号令。
一番艦から十番艦まで。
速度を合わせ、一直線に並ぶ。
――十隻。
対する敵は、海を埋めるほど。
少なすぎる。
数刻後。
両軍は、互いを視認した。
「……桁が違うな」
喉の奥が焼ける。
――ユウト、持つか。
……最悪、陸で押し返すしかないかもしれねぇな。
鬼若丸、あとは任せるぞ。
思わず息が詰まる。
――なすべきことを、なすだけだ。
レシトンが低く呟く。
その視線の先。
横に広がる敵艦隊。
そして。
「……なんだ、あれは」
胸の奥に、嫌な予感が沈む。
後方。
一隻だけ、異様な船があった。
船体に張り付く無数の殻。
波に合わせて、微かに脈打っている。
「空軍に位置を伝えろ」
「射程ギリギリを保て。左舷から切り崩す」
距離が詰まる。
「撃てぇ!!」
火薬の焦げる匂い。砲口の熱が頬を焼く。
轟音。鼓膜を叩き、骨にまで響く重低音。
スエラン艦隊の砲撃が、海を裂いた。
外れた弾が海面に叩きつけられ、水柱が爆ぜる。
その衝撃で、艦が大きく揺れた。足場が崩れ、兵がよろめく。
「魔法兵、シールド展開!」
光の膜が展開される。
だが。
「……来るぞ」
次の瞬間。
巨大な波が立ち上がった。海水が叩きつける湿り気と塩の霧が視界を白く染める。
「――シーウォール」
海が、壁となる。
砲撃は、すべて飲み込まれた。
「……通らねぇか」
舌打ちが漏れる。
――あいつなら、抜けるか。
潮丸の名が、脳裏をかすめた。
レシトンの歯が鳴る。
「このままじゃ削られるだけだ……!」
視線が走る。
敵陣。
「……横に広げすぎだ」
「回頭が遅い」
「今なら――抜ける!」
「舵を切れ!敵後方へ回り込む!」
艦隊が動く。
単縦陣が、鋭く突き刺さる。
「――いける!」
だが。
ぎぎぎ、と鈍い音。
「……妙だな」
「回頭しない……?」
敵艦。
砲台が、回転していた。鉄が擦れる不快な音が連続し、背筋に冷たいものが走る。
「……砲台が、回っている?」
「後方にも――撃てるのか……!?」
轟音。
黒煙。硝煙の匂いが喉を焼く。
「集中砲火だ!」
次弾。
奇妙な音がした。
しゅるるるる――耳鳴りのように細く長い音。
放たれたのは、三角錐の弾。
「防げ!」
シールドが展開される。
だが。
貫いた。
ねじ切るように。
船体へ突き刺さる。
――十番艦だ。
舳先にめり込み、甲板を抉る。衝撃で船体が大きく軋み、舵が一瞬遅れた。
「十番艦、被弾! 前部損傷!」
「煙が上がっている! 十番艦、応答しろ!」
「シールド、再展開急げ! 右舷補助魔法兵、前へ!」
怒号と報告が交錯し、指揮系統が一瞬だけ乱れる。
「――来るぞ!」
だが、爆発しない。
一瞬の間。
次の瞬間。
殻が、開いた。湿った音とともに、ぬめりのある体液が甲板に滴る。
中から、溢れ出す。
魔物。生臭い匂いが一気に広がる。
「……なんだと」
船上での戦闘が始まる。
敵側の甲板でも、爆風で体勢を崩した魔物が転がり、別の個体に踏み潰されていた。
さらに。
海面。
白い筋が走る。水を裂く高速の軌跡が一直線に伸びる。
「……あれは!?」
サハギン。
高速で船底へ潜り込む。
「撃て!」
砲撃。
当たらない。
次の瞬間。
衝撃。鈍い破砕音とともに、足元から振動が突き上げる。
船体が軋む。
傾いた甲板から、兵が一人、海へと投げ出された。
「うわあああああッ!」
叫びが、波に飲まれる。
穴が開く。
――九番艦だ。
船底を喰い破るように、サハギンが群れで突き刺さる。
「九番艦、船底損傷! 浸水急増!」
「止めろ、下を止めろ! 補助魔法兵、船底へ回れ!」
だが水は早い。冷たい海水が一気に流れ込み、船体が重く沈み始める。
――その時。
「空より来る!」
影。
天狗衆が急降下する。風圧が帆を叩き、縄が鳴る。
空軍大将・天狗族 蝦峰四郎坊が最前に立つ。
「ここを抜かせるわけにはいかねえ」
「おめえら――覚悟を決めろ」
レシトンが歯を食いしばる。
「……頼むぞ、四郎坊」
先頭の天狗。
手には、黒く重たい玉――崩落玉。
もう一方の手には、風を裂く大扇。
翼が唸る。空気が裂け、耳元で悲鳴のような風切り音が走る。
側面から斬り込み、敵陣が一瞬揺らぐ。
「今だ――!」
だが。
空が、暗くなった。日差しが遮られ、温度が一瞬で下がる。
無数の影。
ワイバーン部隊。
その最前。
氷をまとった巨大な竜が、静かに翼を広げる。
その背に、一人の女。
「――さて、始めるわよ」
その声は低く、温度がない。耳に触れた瞬間、芯から冷える。
言葉の端が白く凍り、吐息が霜となってほどけた。
リレーナ。
その隣を飛ぶ魔人が、慌てて声を上げる。
「リレーナ様! いきなり最前は危険ですって!」
「黙りなさい、トルジス」
淡々と返す。
「状況は把握しているわ」
氷の精霊が、背後に淡く揺らめく。
影のように寄り添う冷気が、周囲の音を吸い、温度を奪う。
近づく者の呼気は即座に白く凍り、指先の感覚が消える。
「空域制圧。優先度一」
次の瞬間、空が裂けた。
天狗の扇が風を刃に変え、ワイバーンの群れへと叩き込まれる。
対して、氷を纏った竜が息を吐く。
白い霧が広がり、空気ごと凍りつく。吐息が白くなり、指先の感覚が鈍る。
風と氷が、正面からぶつかり合った。
衝撃が空を歪める。圧が胸を押し潰し、視界が一瞬歪む。
天狗が一体、翼を凍らせ墜ちる。
凍りついた羽根が砕け、破片が朝光を弾いて雨のように散った。風に乗った氷片が頬を切り、白い軌跡を残す。
「四郎坊様ァ!」
次の瞬間、落ちていく影を別の天狗が掴もうとして――届かない。
誰かの叫びが、空に散る。
直後、崩落玉が炸裂し、ワイバーンを巻き込んで爆ぜた。
空中で炎と破片が散り、焼けた鱗の匂いが風に乗る。
空は、拮抗している――かに見えた。だが、耳鳴りの奥で数が違う。
「……増援だと?」
「違う……主力だ」
空が制圧される。羽音が増え、影が層を成す。
天狗衆が押し返される。
空を失う。
海は、包まれていた。前後左右、逃げ場のない圧が迫る。
「……引け」
歯が、軋む。
守れなかった数が、胸に積み上がる。
レシトンが、低く言う。
(これ以上は、全滅だ)
「無駄死にはさせねぇ」
その時。
九番艦が、ゆっくりと傾いた。甲板を走る足音が乱れ、誰かの叫びが途切れる。
沈み始める。
レシトンは、わずかに背筋を伸ばした。
右手を、ゆっくりと上げる。
――敬礼。
沈みゆく艦へ。
声には出さない。
だが、その眼差しだけは、確かに送られていた。
遠く。
レシトンは、かすかにトンジントウの方角へ目を向けた。
黒い帆が、なおも広がっていた。
「海戦において、我らに勝るものなし」
マルグスが、静かに呟いた。鱗に覆われた顎が、わずかに歪む。
――開戦。
その一撃で。
勝敗は、すでに傾き始めていた。
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