第79話 開戦前夜:スエラン防衛戦
スエラン連邦首都、トンジントウ。
海と水路に囲まれたその都は、静かに息づいていた。
建物は高くはない。
だが、整然と並び、木と石と水が調和している。
独特の曲線を持つ屋根が、連なっていた。
水路には穏やかな流れが巡り、橋がそれを繋ぐ。
風が抜け、音が通り、どこか柔らかな空気が満ちていた。
だが今、その都は。
静けさの裏で、確かに戦の気配を宿していた。
――守るための国が、戦おうとしていた。
まだ朝の気配が残る時間。
だが、その静けさは、唐突に破られた。
「――緊急連絡! テルマインより入電!」
通信士の声が、わずかに震えていた。
室内の空気が、一瞬だけ凍りつく。
直後。
「前線哨戒艇よりも同時刻に報告!」
重なる声。
偶然ではない。
確定情報。
「内容は」
玉座に座す女王セリュシアが、短く問う。
その指先が、わずかに玉座の肘掛けを握りしめていた。
「魔王軍海軍の大船団、接近中……」
一瞬、言葉が詰まる。
「黒い帆が、水平線を埋め尽くす規模です」
ざわめきが走る。
誰かが、息を呑んだ。
蝋燭の炎が、小さく揺れる。
誰かの指が、海図の上でわずかに震えた。
重い沈黙。
――軍議が、即座に開かれた。
重厚な卓に海図が広げられる。
「出せる艦は?」
海軍大将レシトンが問う。\n\n 日焼けした太い腕が卓を震わせる。
「……即応可能なのは十隻程度かと」
「それで守れるのか?」
答えはない。
誰もが分かっている。
足りない。
「……相手の意図が見えん」
低く、押し潰すような声。
「ならば叩き潰すまでだ!」
レシトンが拳を叩きつける。
「海に出ればこちらの領分だ。数が多かろうが関係ねぇ」
「……敵は三倍だ」
陸軍大将・鬼若丸が低く言った。
「力押しで勝てる戦ではない」
「だが、退けぬ戦だ」
短く返すレシトン。
「ならば――落とすまでよ」
空軍大将・蝦峰四郎坊が笑った。
「空は我らが制する」
それだけで十分だった。
沈黙が、さらに重くなる。
その時。
「――落ち着きなさい」
セリュシアの声が、すべてを断ち切った。
視線が集まる。
彼女は静かに息を吸い、一瞬だけ目を閉じた。
……これまで、守ることだけを信じてきた。
平和を、穏やかな水路の流れを、国民の笑顔を。
水路で遊ぶ幼い子供たちの笑い声が、脳裏に蘇る。
戦など、決して望まなかった。
だが今、水平線を埋め尽くす黒い帆の影が、そのすべてを飲み込もうとしている。
ゆっくりと、目を開いた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「やることは一つです」
静かに、だが鋼のような声で。
「全軍で、防衛するのです」
空気が変わる。
「首都侵攻を前提とし、防衛線を再編します」
「第一防衛線――ヨウヘー港」
「第二防衛線――トンジントウ」
「最優先防衛目標は、造船所です」
「ここを失えば、我が国は戦う術を失います」
「全軍、緊急配備」
「空は任せろ」
天狗衆を率いる空軍大将・蝦峰四郎坊が低く笑う。
「奴らが空を使うなら、叩き落とすまでよ」
「陸は我らが受け持つ」
鬼若丸が静かに頷く。
「一歩たりとも通さぬ」
「遅れは許しません」
命令が放たれた瞬間。
全てが動き出した。
伝令が駆ける。
鐘が鳴り響く。
兵が走る。
国家が、戦争へと移行した。
――だが。
「……テルマインは動けません」
宰相サルバンが告げる。\n\n 白髪を後ろに流した老臣が、目を細めた。
「ならば」
セリュシアは、迷わない。
「楼蘭帝国に、会談を申し入れなさい」
「最優先で」
数刻後。
魔道具《遠話晶》が光を帯びる。
空気がわずかに歪む。
現れたのは――
楼蘭帝国皇帝、恒星帝。\n\n 漆黒の長髪が肩に流れ、白磁のような肌の帝が静かにこちらを見据える。
「これはこれは、セリュシア殿」
「緊急と伺ったが、どうされた?」
柔らかな笑み。だが、その目だけが冷たい。
その声に、場の温度が下がったように感じられた。
「魔王軍が、我が領土を侵犯しようとしています」
「援軍をお願いしたい」
「……なるほど」
「援軍を送るのは吝かではない」
「だが――前回の件を進めたい」
一瞬。
その言葉が落ちた瞬間、セリュシアの胸に、かつての屈辱的な記憶がよぎる。
わずかに、奥歯が噛み締められた。
それでも。
「……その程度であれば、この国難を越えるためならば問題ありません」
「……あい、わかった」
「精鋭を送ろう」
通信が、途切れる。
――楼蘭帝国帝都、チャンナン。
城壁は、空を食い破るように黒く聳えていた。
淡く脈動する魔導光が、まるで帝国の心臓のように鼓動している。
その奥で。
「例の部隊を派遣せよ」
恒星帝の一言。
老臣の喉が、わずかに鳴った。
「恐れながら陛下……あの部隊は――」
「朕に恥をかかせる気か?」
空気が凍る。
「……承知いたしました」
声は、かすれていた。
「皇帝陛下、万歳!」
その声が、どこか遠くに響く。
――そして。
ヨウヘー港。
警鐘が、鳴り止まない。
遠くの海面。
黒い影が、ゆらりと揺れた。
魔導の光が、波間に瞬く。
それは確かに、こちらへ向かっていた。
遠く、トンジントウの警鐘が、まだ鳴り響いている。
その音に重なるように、低く不吉な響きが海の向こうから届いた。
――すべてが、動き出した。
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