第81話 反撃の狼煙
レシトンは、歯を食いしばった。
「全艦、反転! 全速だ! 造船所まで退くぞ!」
怒号とともに、傷だらけの艦隊が一斉に舵を切る。焼けた帆布。砕けた舷側。海面には、つい先ほどまで共に戦っていた味方の残骸が浮かんでいた。
敗走――だが、ここで止まれば終わる。
ヨウヘー港の造船所――あそこを落とされれば、スエラン連邦は海の手足をもがれる。船を失うだけでは済まない。補給も、修理も、反撃の芽も断たれる。
「逃がすものかァァッ!」
海鳴りのような咆哮が響いた。
魔王軍海軍大将ガルドが、旗艦の甲板で巨大な腕を振り上げる。全身の鱗がぬらりと鈍く光り、その巨躯から濃密な魔力が噴き上がった。
「母なる海よ、万象を巡らす源流となりて――
水は土を崩し、万物を還す理となれ――
渦となりて呑み込め、《メイルストローム》」
直後、海が裏返った。
船首が持ち上がり、視界が傾く。水が壁となって迫り、次の瞬間、全てが回転した。
「踏ん張れェェッ!」
舷側が軋み、肋骨のような骨組みが悲鳴を上げる。舵は効かない。甲板を海水が横殴りに叩きつけ、兵が一人、また一人と飲まれて消える。
渦の中心で、帆柱が折れた。
裂ける音。船腹が捻じ切られ、龍骨が露出する。
二隻が、同時に砕けた。
泡と木片だけが、逆巻く海に撒き散らされる。
レシトンの瞳が揺れた。
「……くそっ」
六隻。
残ったのは、たったそれだけだった。
だが彼は前を見た。ここで止まれば、全員が死ぬ。
「進め! 艦隊を盾にしてでも止めるぞ! 造船所が最後の防衛線だ!」
――沈む船。届かなかった命令。守れなかった背中。
脳裏に、焼き付いた光景が一瞬だけよぎる。
だが、振り払う。
今は、生かすために指揮を執るだけだ。
その声に、兵たちの目が再び灯る。敗れてなお、将が前を向いている。その事実だけが、折れかけた心を辛うじて繋いでいた。
*
上空では、四郎坊が戦場を見下ろしていた。
天狗衆の翼が風を裂く。だが空もまた、もはや優勢ではない。ワイバーンの数は多く、損耗はじわじわと広がっていた。海では艦隊が崩され、制空も押されつつある。
「……これ以上、海上で粘っても削られるだけか」
四郎坊は舌打ちし、軍配を振った。
「天狗衆、後退! 本土上空防衛に移るぞ!」
空を駆ける者たちが、一斉に軌道を変える。
「海を捨てるのですか!?」
「捨てるのではない、守る場所を変えるのだ!」
四郎坊の声が鋭く飛ぶ。
「敵は上陸を狙ってくる! ならば空から港と造船所を守る! 本土防衛に移行するぞ!」
それは敗北宣言ではない。次の戦場を定めるための撤退だった。
*
ヨウヘー港、造船所周辺。
陸軍大将・鬼若丸は、整列する兵たちを前に、太く息を吐いた。遠くから砲声が響く。海の匂いに混じり、焦げた木材と血の気配が流れ込んでくる。
敗走してくる艦隊。退いてくる天狗衆。嫌でも分かる。
ここが次の戦場になる。
鬼若丸は兜の下で目を細め、腹の底から声を張った。
「皆のもの――命を使う時が来たぞ!」
兵たちの背が震える。
「ここを破られれば、国は焼かれる! 造船所は海の命綱だ! 一歩たりとも通すな!」
槍兵が槍を打ち鳴らし、魔法兵が詠唱位置につく。対空砲座が向きを変え、城壁代わりの防柵の内側で兵たちが息を整えた。
「武士として、兵として、今日を生きよ! そして――守り切れ!」
「おおおおおっ!!」
鬨の声が、港に響いた。
*
だが、敵はすぐには来なかった。
海の向こうに黒い艦影は見える。にもかかわらず、追撃はぴたりと止んでいる。
「……なぜ来ない」
誰かが呟く。
「追うなら今のはずだろ……」
兵たちの間に、不穏なざわめきが走った。静かすぎる。まるで、何か別の刃を研いでいるかのような沈黙だった。
そのとき。
見張りの兵が叫ぶ。
「上だッ!」
全員の視線が空へ向く。
海軍本隊ではない。先行してきたのは、ワイバーンの群れだった。
*
風を切って飛ぶ影の先頭で、リレーナは冷えた目を細めた。
「あれが造船所ね」
眼下に広がる木材の集積地、乾ドック、組みかけの船体。国の未来を形にする場所。その全てが、彼女にはただの破壊目標にしか見えない。
「目標確認」
隣を飛ぶ氷の精霊グラシアールが、静かに微笑んだ。
「凍らせるの?」
「ええ。ありったけ、ぶちまけるわよ」
リレーナが片手を上げる。
「ワイバーン部隊、突撃開始。防壁ごと砕きなさい」
咆哮とともに、ワイバーンの群れが一気に降下した。
「対空班、撃てぇぇぇっ!」
港側から魔法砲撃が上がる。火球。風刃。光の障壁。だが数が違った。止めきれない。何頭もが炎を浴びながら突っ込み、港の上空に爪と牙を撒き散らす。
「シールド維持! 造船所を守れ!」
「無理です、抜けられる!」
兵たちの悲鳴の中、リレーナは詠唱に入った。
「北辰の星よ、氷刃をまとい──」
空気が軋む。
霜が瞬きのように増え、肌を刺す冷気が骨まで入り込む。
――その時。
空が唸った。
雲を裂き、巨大な飛行船が現れる。楼蘭の紋章。
「……何だ、あれは……!」
五つの影が甲板から跳び出す。
「零番隊、展開」
――人が、空を飛んだ。
蒼白い噴光。一直線に降下。
「詠唱阻害、優先」
「高魔力個体を捕捉。射線、良好」
「撃つ」
閃光。
「リレーナ様っ!」
トルジスが割り込む。肩を撃ち抜かれ、血が弾けた。
詠唱が、歪む。
「……止めないわ」
氷の魔力が暴れる。
「凍てつく果てに、命を閉ざせ──《ダイヤモンドダスト》!」
――白。
音が消え、息が凍る。
結晶の嵐が叩きつけられ、外周の防壁が一枚、また一枚と砕け散る。乾ドックの梁が悲鳴を上げ、建造中の船体が傾き、一本が崩れ落ちた。
兵が凍りつく。
「た、助け――」
言葉は最後まで続かない。
次の瞬間、粉のように砕け散った。
だが中心は外れている。
中枢の船台は、辛うじて立っていた。
致命は免れた。
だが――軽くはない。
「隊列を保て! まだ終わっておらぬ!」
鬼若丸が怒号を飛ばす。だがその足元で、凍りついた兵の叫びが途中で途切れ、砕ける音だけが残った。
歯を食いしばる音が、あちこちで漏れる。
――戦場の主導権が、奪われる。
*
「制圧を開始せよ」零一が静かに告げる
「了解」
号令一下、戦場が変わった。
零三が両腕の連射武装を展開する。乾いた連続音とともに魔力弾が走り、先頭のワイバーン二頭の頭部を撃ち抜いた。
零四は筒状の砲身を下方へ向けた。
「榴弾、散布」
炸裂。空中で弾けた魔力榴弾が破片の嵐となり、密集していたワイバーン隊列をまとめて吹き散らす。
零五は細長い発射架を開いた。
「誘導弾、解放」
放たれた光弾が弧を描き、逃げようとするワイバーンを追尾して次々に貫く。まるで小型の流星群だった。
「馬鹿な……何よ、それ」
リレーナの声に、初めて苛立ちが混じる。
リレーナは唇を噛み、怒気を露わにした。
「楼蘭……こんなものを隠していたの……!」
だが認めざるを得ない。このまま同じ高度に留まれば不利だ。
「隊列を散開! 高度を変えなさい!」
零一は短く周囲を見渡し、淡々と告げた。
「空中戦闘はここまでだ。魔導エネルギーが切れる前に降りる。陸軍と合流するぞ」
「了解」
五人は同時に高度を落とす。
蒼白い噴光を絞り、姿勢を制御しながら降下――まるで獲物へ滑空する猛禽のように、一直線に港へと突き刺さる。
轟音とともに着地。
石畳が砕け、衝撃が周囲の兵を弾き飛ばす。
思わず数歩、後ずさる。
――人間の着地ではない。
だが五人は微動だにしない。
面頬の奥、表情は完全に消えている。呼吸の揺らぎすら見えない。
それでも――視線だけが生きている。
無機質な動き。関節は最短で折れ、次の動作へ迷いなく繋がる。
その奥にあるのは、明確な“戦意”。
人の形をしていながら、どこか機械のように最適化された挙動。
その違和感が、周囲の兵の足をさらに半歩、後ろへ下げさせた。
ゆっくりと顔を上げ、次の戦場――陸へと視線を向けた。
*
戦場は、明らかに変わり始めていた。
零番隊の投入により、空の主導権は徐々にスエラン側へと傾きつつある。
ワイバーンは次々と撃ち落とされ、魔王軍の空軍は明確に動揺していた。
その一方で、海上からは再び砲声が鳴り始めていた。
*
「敵艦、射程に入りました!」
魔王軍海軍の砲撃が、港へと降り注ぐ。着弾。爆炎。造船所の外れで木材が燃え上がり、防衛陣地が吹き飛ぶ。
「陸砲、撃ち返せ!」
鬼若丸の命で砲が吠える。だが敵艦はなお多い。楼蘭の援軍が現れても、戦場全体で見れば押されている構図は変わらなかった。
「まだ足りん……!」
鬼若丸が呻く。
空は少し持ち直した。だが海から削られる。このままでは、いずれ限界が来る。
*
王城。
セリュシアは、戦況を伝える水鏡を静かに見つめていた。楼蘭の飛行船。零番隊の奮戦。凍りついた港。燃える防壁。どれもが、国の命運の上に乗っている。
傍らで宰相が低く問う。
「……楼蘭は約を果たしました」
「ええ」
セリュシアの目は揺れない。
「ですが、まだ足りません。このままでは、いずれ押し潰されます」
宰相は息を飲んだ。
次に来る言葉が分かってしまったからだ。
「陛下……まさか」
セリュシアは、ゆっくりと口を開いた。
「あの者を出しなさい」
宰相の顔が強張る。
「よいのですか?」
「問題ありません」
女王の声音は静かだった。だが、その奥には深い覚悟がある。
「楼蘭が約束を果たした以上、こちらも隠してばかりはいられません」
ほんのわずか、目を伏せる。
「いずれ世に出る力です。ならば――今、国を守るために使うべきです」
宰相は深く頭を垂れた。
「は。ただちに」
水鏡の向こうで、港が燃えている。
空では未知の異邦の刃が舞い、海ではなお敵の大軍が迫る。
それでも、スエランはまだ倒れていない。
セリュシアは立ち上がり、遠く戦場の方角を見た。
「……ここからです」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
だが次の一手は、確かに放たれようとしていた。
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