第77話 雷鳴の海
触手が、落ちてきた。
――空が、覆われた。
それは、影ではない。
質量。
山のような肉塊が、頭上から叩きつけられる。
轟音。
空気が押し潰される。
「うおおおおお!!」
ファルトが踏み込み、大盾で受け止める。
横に並ぶテオもまた、盾を構えた。
「……っ、来る!」
直撃。
甲板が悲鳴を上げる。
ぎし、と船が軋む音が連なる。
船体全体が、軋むように沈み込んだ。
衝撃が、腕を通して骨の奥まで叩き込まれる。
「ぐ……っ!」
荒い息が、喉を焼く。
押し返す――が。
「……なんだ、これ……!」
動かない。
触手は、ただ太いだけではない。
大きな丸太ほどもある太さ。
その表面に並ぶ吸盤一つ一つが、盾を“掴んで”いる。
引くことも、押すこともできない。
「すげぇ力だ……!」
その背後。
海面が、盛り上がる。
いや――
持ち上がっているのは、海ではない。
その下にある“本体”だ。
船よりも巨大な頭部が、ゆっくりと姿を現す。
目。
こちらを見ている。
理解できないほどの大きさ。
海そのものが、生きているかのようだった。
「耐えてください!」
セフィーナの声。
淡い光が弾ける。
《プロテクト》
光の膜が、二人を包み込んだ。
圧力が、わずかに緩む。
「うおおおおおお!!」
ファルトが踏み込み、歯を食いしばる。
テオもまた、足を滑らせながら踏ん張った。
「リオ!!」
「ああ!」
リオは踏み出す。
揺れに逆らわない。
流れに、合わせる。
剣を振る。
斬撃。
だが。
手応えが、浅い。
「……浅い……!」
まるで岩を削っているような感触。
焦げた匂いが、鼻を刺す。
――イカが焼けたような、生々しい臭いだった。
肉ではない。
防壁だ。
「ひるむな!」
怒号。
グレイグ率いる海軍が、一斉に攻撃を叩き込む。
それでも――決定打にならない。
――その時。
クロキリが、空を見上げた。
(……いるな)
空に、確かな“視線”がある。
影が、静かに広がる。
「――闇遁・影縛り」
足元から伸びた影が、空を走る。
捉えた――はずだった。
だが。
ひょい、と。
それは、避けられた。
体をねじったように見えたが、違う。
空間ごと、わずかにずれている。
まるで、距離そのものを飛び越えているかのように。
影は、何も掴めなかった。
「……」
クロキリの目が、わずかに細められる。
空の上。
何もない場所を、軽やかに歩く影。
足場など存在しないはずの空間を、ぴょん、と跳ねるように進む。
踏んでいるのは空ではない。
“位置”を掴んでいる――そんな動きだった。
「はい、どうぞ」
放られたのは、小さな飴玉。
青鬼が弾き、黄狐が軌道を逸らす。
海へ――
ドンッ!!
水面が爆ぜる。
白波が大きく跳ね上がる。
「……厄介な代物を」
(……まだだ)
クロキリは動かない。
任務は護衛。
ここで戦うべきではない。
空の魔人は笑っている。
戦場ではなく、こちらを見ている。
試すように。
値踏みするように。
クロキリは、ただ睨み返す。
空と影。
静かな対峙。
巨大な頭部が、さらに近づく。
次の瞬間。
黒。
墨が、噴き出した。
「――っ!」
視界が、消える。
何も見えない。
叩きつけられる衝撃。
悲鳴が、あちこちから上がる。
「くそ……見えねぇ……!」
バシャん、と音。
「……そうか」
ダリウスが、笑った。
「墨には、水だろ」
海水を掬い上げ、ぶちまける。
視界が、戻る。
「見えた!」
リオが息を吸う。
「癒えよ――《リカバリー》」
光が広がる。
傷が塞がる。
呼吸が戻る。
立て直す。
その時。
『ねえ、リオ』
アストルの声。
『あれ……使えるよ』
嵐の向こうで、雷が走る。
空が唸る。
「……借りるぞ」
リオは目を閉じる。
雷の精霊へ呼びかける。
その瞬間。
リュートの音が響いた。
アルヴァンだ。
澄んだ音が、戦場を満たす。
体の奥から、力が湧き上がる。
「――光精霊魔法」
雷を、掴む。
指先が痺れる。
空気が、張り詰める。
世界が、一瞬だけ静止した。
『乾いぬいの空より雷を呼べ──
穿て、《ライトニングパルス》』
閃光。
轟音。
雷が、クラーケンを貫いた。
巨体が、痙攣する。
動きが止まる。
「今だ!」
アネリアとセフィーナが応じる。
『たつみの風よ、乱れを招け──
巻き上がれ、《ウィンドストーム》』
暴風が、触手を引き剥がす。
拘束が外れる。
直後――熱。
『火は水を穿ち』
『凍土は灰へ還り』
『燃え堕ちよ、星の核――《焔星降臨》』
白熱の核が収束し、爆縮。
肉が焼け裂ける。
じゅう、と湿った音。
焼ける匂いが、風に乗って広がる。
「……やったか?」
だが。
炎の中で、巨体が動いた。
「まだ生きてる!」
海へ潜り、距離を取る。
そして再び――突っ込んでくる。
「取り舵いっぱい!」
グレイグの怒号。
「砲撃用意! 撃てぇ!!」
轟音。
砲撃が炸裂する。
それでも、来る。
海面を割り、顔を出す。
その瞬間。
赤鬼が踏み込む。
炎が刃に集まる。
「――灼熱斬!!」
振り抜き。
触手が、焼き斬られる。
断面が爆ぜ、数本が宙を舞う。
その隙。
リオが駆ける。
「――ライトニングエンチャント」
刃が青白く発光する。
足場を蹴る。
大きく、跳ぶ。
甲板を越え、視界が開ける。
海と嵐、巨影を見下ろす。
――頂点。
手の中で、雷が脈打つ。
全身の力が、刃へと収束する。
剣を大上段へ。
「はああああああ!!」
振り下ろす。
雷が、落ちる。
「――ライトニング・ブレイク!!」
直撃。
骨の芯まで震わせる衝撃が、腕を駆け上がる。
雷光が貫き、衝撃が炸裂する。
巨体の芯が、砕けた。
クラーケンが、のけぞる。
焼け焦げた肉の匂いが、さらに濃くなる。
その瞬間――
クラーケンが、叫んだ。
声ではない。
海そのものが震える。
低く、重い断末魔。
怒りと苦痛が混ざった咆哮が、嵐を引き裂く。
海面が、爆ぜる。
巨体が、のたうつ。
そして――
倒れ込むように、船へとぶつかった。
ドォンッッ!!!
衝撃。
船体が大きく跳ねる。
全員の足が浮いた。
マストが軋み、ロープが悲鳴を上げる。
「くっ……!!」
体勢を崩しながらも踏みとどまる。
やがて。
巨体は、力を失ったように沈んでいく。
海へ。
深く。
静かに。
波だけが、残った。
誰かが、息を吐く。
そして――
歓声が、上がった。
リオは、空を見上げる。
嵐は、消えていた。
裂けるように晴れた空。
その上に――
一人。
魔人が、立っていた。
こちらを、見ている。
ただ、じっと。
何もせず。
笑うでもなく、敵意もなく。
観測するように。
そして。
ふっと、姿が揺らぐ。
次の瞬間には、消えていた。
――いや。
「やるねぇ」
声だけが、残った。
「クラーケンをあっさり倒すなんて。拍手、拍手」
軽い調子。
どこからともなく、笑い混じりに響く。
「そこの影たちがおっかないから、僕は帰るよ」
くすり、と笑う気配。
「――あ、そうだ。お土産あったんだ」
嫌な予感。
その瞬間。
頭上に、見えない重みが落ちる。
ドンッ――!
鈍い音が、船体に走る。
「なっ――!?」
マストが、折れた。
上から叩き折られたかのように、真ん中から砕ける。
ロープが弾け、帆が大きく崩れ落ちた。
船が、再び大きく揺れる。
「……ち」
クロキリが低く舌打ちする。
「いつの間に、抜かれた」
「はははは!」
高い笑い声が、空に響く。
「ばいばーい」
声が、遠ざかる。
もう、いない。
だが。
確かに“干渉された”。
戦いは、まだ終わっていない――
かすかな笑い声が、風に溶けて消えていった。
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