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勇者とは呼ばれずとも 封じられし精霊と少年の物語  作者: カイメイラ
第4章 胎動する世界

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第76話 海の悪魔

 白い船体が、ゆっくりと港を離れていく。


 帆は朝の風を孕み、大きく膨らんだ。船首は波を切り分け、静かに、しかし確かな力で前へ進む。


 背後で、陸が遠ざかる。


 戻れない、という感覚が、胸の奥でわずかに重く沈んだ。


 リオは手すりに手を置き、海を見た。


 どこまでも続く青。


 陸とは違う世界。


 潮の匂いが強く、風は冷たい。春とはいえ、海上の空気は容赦なく肌を打つ。


「……広いな」


 思わず漏れた言葉は、風にさらわれて消えた。


 その横で、アストルがふわりと浮かぶ。


『ねえねえ、見て見て! 水がきらきらしてる!』


 はしゃぐ小さな精霊に、近くの船員がぎょっとした顔を向けた。


「……おい、あれ……」


「精霊様……か……?」


「夢でも見てんのか……」


 ひそひそとした声が広がる。リオは苦笑し、軽く頭を下げた。


「気にしないでください」


 船員たちは気まずそうに視線を逸らすが、好奇心は隠しきれていない。


 海の上では、精霊はさらに“珍しい”。


 やがて、船内へと案内される。


 簡素な船室。


 男女で分けられ、荷が整然と置かれていた。


「……揺れるな……」


 ファルトが顔をしかめる。


「最初はそんなもんよ」


 ミラは淡々と返した。すでに慣れている様子で、壁にもたれている。


 だが数刻後――


「……ダメだ……」


「……俺も……」


 リオとファルトが同時に沈んだ。


 胃が喉元までせり上がる。


 視界が揺れ、床がどこにあるのか分からなくなる。


 踏ん張ろうとした瞬間、さらに揺れが追い打ちをかけた。


「……くそ……船ってこんなか……」


 一方で、ダリウスは平然としていた。


「これくらいは慣れてる。海も馬車も似たようなもんだ」


 器用に体重を逃がし、揺れに合わせて姿勢を保っている。


 ティナもまた、顔色ひとつ変えない。


「揺れは読めます。馬車の中でも解体してましたから」


「いや、解体って……」


 リオが青い顔のまま突っ込むが、ティナは小さく首をかしげるだけだった。


「……私も船が苦手で」


 セフィーナが苦笑しながら歩み寄る。


「少しだけ、楽になります」


 淡い光が手のひらに灯る。


『明の位、南方に巡る癒しの光よ――砕けし身を繕い、安らぎを与えよ――《ヒーリング》』


 やわらかな光が二人を包み込む。


「……お、少しマシだ」


「助かる……」


 完全ではない。だが、胃の奥を締めつけていた不快感が、わずかに和らいでいた。


「浮いてればどうってことないわ」


 ミラがぼそりと呟く。


「それ、参考にならないからな……」


 ファルトが呻いた。


 影たちはというと、甲板で平然とくつろいでいる。


 クロキリは無言のまま、ただ海を見ていた。


 数日が過ぎる。


 その日の夕刻。


 甲板の一角で、簡素な食事が配られた。


 木の器に盛られたのは、透き通ったスープ。


 穏やかな波の時に獲れた魚と、保存していた干し肉を煮込んだものだ。


 わずかに添えられた果物が、彩りとして並ぶ。


「……思ったより、うまいな」


 リオが一口すすり、少し驚いたように言う。


「塩気が効いてるな」


 ファルトも頷いた。


「長旅だからね。保存食が基本になるけど、こういうのが出る日は当たりよ」


 ミラが淡々と説明する。


 セフィーナは両手で器を包み込み、ほっと息をついた。


「温かいものは、落ち着きますね」


 その言葉に、周囲の船員たちも小さく笑った。


 豪華ではない。


 だが、この海の上では、それが何よりのご馳走だった。


 風は穏やかで、波も静か。


 束の間の安らぎが、そこにあった。


 船の上の生活にも、少しずつ慣れてきた。


 甲板では、簡単な訓練が始まる。


 その前に、屈強な男が一歩前に出る。


 周囲を一瞥し、そのまま口を開いた。


「いいか。明日からは戦場の作業もやってもらうぞ」


 一拍。


「帆の扱い、ロープ、甲板整備――どれも命に直結する。覚えろ」


「僕も、ですか?」


 アルヴァンが軽く手を挙げる。


「船賃みたいなもんだ」


 グレイグは即答した。


「はい〜。頼んだよ、テオ」


「いやいや、二人分は無理ですよ……!」


 テオが慌てて抗議する。


 そのやり取りに、周囲からくすりと笑いが漏れた。


「……は?」


 思わず漏れたのはファルトだった。


「この状態でか……」


 横でリオも顔色を悪くする。


「大丈夫だ。慣れる」


 グレイグは淡々と言い切った。


「慣れなきゃ死ぬだけだ」


 あまりにも当然のような一言に、場がわずかに凍る。


 ミラが肩をすくめた。


「現実的ね」


 セフィーナは小さく息を吸い、姿勢を正す。


「……やります」


 クロキリは何も言わない。ただ一度だけ頷いた。


 そして――訓練が始まる。


「いいか、立ち方だ」


 船員が足の位置を示す。


「内ももに力を入れろ。流れに合わせるんだ」


 言われるままに、リオは体重を調整する。


 揺れに逆らわず、合わせる。


 それだけで、体の負担が軽くなった。


「お、いいぞ。そのまま覚えろ」


 続いて、ロープの扱い。


 巻き方、固定の仕方。


 単純だが、重要な作業だ。


 やがて、デッキブラシを手に取り、床を磨く。


 海水と塩の匂いが混ざる。


 船員と肩を並べるその時間は、不思議と落ち着いた。


 翌日。


 雲一つない空。


 甲板は容赦なく照りつける陽光に焼かれていた。


「……あちい……」


 リオが額の汗を拭う。


 風はあるが、熱を運んでくるだけだ。


「手を止めるな! 流れに合わせろ!」


 船員の声が飛ぶ。


 ロープが鳴る。帆が張る。


 その中で、船員たちは軽やかに動いていた。


 張られたロープの上を、まるで遊ぶように渡る。


 体をひねり、支点を移し、次の作業へ――。


 まるでアクロバットのような身のこなし。


「……すげぇな」


 ファルトが感心したように呟く。


「落ちたら終わりだからね。嫌でも覚えるわ」


 ミラが淡々と返した。


 リオも見よう見まねでロープを掴み、足を運ぶ。


 揺れに合わせ、力を抜く。


 最初はぎこちない。


 だが、少しずつ――。


「……いけるかも」


 体が、覚え始めていた。


 船と一緒に動く感覚。


 抗わず、流れに乗る。


 それが、この場所で生きる術だった。


 ――少なくとも、その時までは。


 ある日のこと。


 風は吹いている。


 だが、波が妙に静かだった。


 帆は揺れているのに、海面だけが、どこか凪いでいる。


「……変だな」


 ダリウスが呟く。


「魚もいねぇ」


 確かに。


 海鳥の影すら見えない。


 音も、どこかおかしい。


 いつもなら聞こえるはずの波音が、やけに弱い。


 代わりに、船体の軋みだけが、やけに大きく響いていた。


『……なんか、おかしいよ』


 アストルが声を落とす。


 その様子に、リオは顔を上げた。


 胸の奥が、わずかにざわつく。


「この静けさは……良くねぇな」


 古参の船員が低く言う。


 誰もが、言葉にしきれない違和感を抱えていた。


 クロキリは何も言わない。


 だが、わずかに視線を巡らせている。


 空。


 海。


 船。


 すべてを、見ている。


 リオも、つられるように空を見上げた。


 ――何もない。


 青い空が広がっているだけ。


 だが。


 何かが、引っかかる。


 形のない違和感だけが、残った。


 ――静かだ。


 あまりにも、静かすぎる。


 その次の瞬間だった。


 海面が、膨らんだ。


 盛り上がる。


 波ではない。


 船の下。


 深い海の底から、巨大な“影”が浮かび上がってくる。


 光を飲み込むほどの黒。


 その輪郭すら、掴めない。


 ただ、確かにそこに“いる”。


 そして――


 影の中から、腕が飛び出した。


「来るぞ!」


 誰かが叫ぶ。


 直後。


 巨大な触手が、海を割って現れた。


 船体へと叩きつけられる。


 轟音。


 木が裂ける音。


 船体が悲鳴のように軋む。


 冷たい雨が顔を打つ。


 塩の匂いに、どこか鉄の気配が混じる。


 触手が船体に絡みつき、ぐらりと大きく揺れる。


「ちっ……大砲が使えんな!」


「総員、戦闘配置!」


 怒号が飛ぶ。


 帆が鳴り、ロープが震える。


 同時に、空が暗くなった。


 雲が一気に広がり、光を遮る。


 風が強まる。


 次の瞬間、雨が叩きつけるように降り始めた。


 雷鳴が、空を裂く。


 兵たちが一斉に動き出した。


 クラーケン。


 海の底から現れた巨影が、船を絡め取ろうと触手を伸ばす。


 リオは剣を抜いた。


 足場が安定しない。


 だが――訓練で掴んだ感覚を思い出す。


 揺れに抗うな。合わせろ。


 呼吸を整え、重心を落とす。


 ファルトが踏み込み、盾で触手の一撃を受け止める。


 歯を食いしばる。軋む音。


 ミラの詠唱が加速する。火が、魔力を帯びて膨らむ。


 ――後方で、セフィーナの光が灯り始めた。


 ――戦いが、始まる。


 その時。


「さてと……」


 声が、落ちてきた。


 誰のものでもない。


 風に乗るでもなく、海に紛れるでもなく。


 ただ、そこにあった。


「ガルド様から借りてきたクラーケンさぁ……さて、どうなるかな」


 くす、と短い笑い。


 リオは反射的に空を見上げた。


 何も、いない。


 だが。


 ぴょん。


 視界の端で、何かが跳ねた。


 ほんの一瞬。


「……?」


 もう一度。


 ぴょん、ぴょん。


 今度は、確かに見えた。


 空の上。


 何もないはずの場所で。


 影が、軽く跳ねている。


 クロキリが、ゆっくりと視線を上げた。


「……いるな。影、警戒を怠るな」


「了解」


 その言葉で、空気が変わる。


 逆さまの顔が、こちらを覗き込んでいた。


 口元が裂けるように歪む。


 だが、その目は――戦場ではなく、リオたち“そのもの”を観察しているようだった。


 笑っている。


 ――だが、降りてはこない。


 空を足場にするように、ぴょん、ぴょんと跳ねながら。


 ただ、見下ろしている。


 高みの見物。


 戦場は、三つに分かれた。


 海――クラーケン。


 甲板――人間。


 空――狂気。


 船は、まだ進んでいる。


 リオは剣を握りしめ、心の中で繰り返した。


 ……流れに、合わせろ。


 この戦いは――始まったばかりだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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