第73話 港の夕暮れ
潮の匂いが、まだ鼻に残っている。
長い道のりの終わりに辿り着いた、この港の匂いだ。
門をくぐった瞬間――
空気が、変わった。
潮風が頬を撫でる。
塩気を帯びた湿った風。
干した魚の匂いが混じる。
軒先や縄に吊るされた魚が風に揺れ、乾いた塩の香りを辺りに広げていた。
遠くで、かもめの鳴き声。
甲高く、風に流されるように響いていた。
夕暮れの光が、海面を橙に染めている。
揺れる水面が、ゆらゆらと街の影を映していた。
「……海の匂い、強いな」
ファルトが鼻を鳴らす。
「ここがフリーメルか。思ってたより静かだ」
ダリウスが周囲を見回す。
「静か、というより……落ち着きすぎてる」
ミラが短く言う。
「人の流れはあるのに、声が少ないですね……」
セフィーナが小さく眉を寄せた。
「港町って、もっと賑やかなイメージでした……」
ティナが戸惑い気味に続ける。
(……確かに)
リオは頷きかけて、言葉を飲み込んだ。
(これが……海の匂い)
鼻の奥に残る塩の気配。
胸の奥が、わずかに高鳴る。
(でも――どこか、落ち着かない)
(父さんも……ここから戦地に向かったのかな)
ふと、視界の端に小さな気配。
人混みに紛れて、精霊の姿がちらつく。
(……見えてる?)
王都では当たり前だったが、ここでは違う。
リオの近くにいる者には、精霊の輪郭がかすかに映ってしまう。
『ちょっと目立つな』
アストルが肩をすくめる。
『少し離れるわ』
アネリアが気配を薄める。
「アストル、アネリア……少し隠れてて」
二つの気配は、人の流れの外へ溶けた。
――そのときだった。
露店の一角。
商人が手早く布を下ろしている。
「……今日はやけに早いな」
「……聞いてねぇのか」
「――あの旗が、沖に見えたって話だ」
一瞬、沈黙。
「……馬鹿、声がでけぇ」
「確定じゃなくても十分だろうが」
視線が一瞬だけこちらへ向き、すぐに逸らされた。
(……なんだ?)
(初めての場所だから……じゃない)
(みんな、何かを“見てないふり”をしてる)
子どもの姿がほとんど見えない。
港の方を見たまま動かない大人たち。
静かだ。
だがそれは、ただの夕暮れではない。
「出航は明朝だ」
クロキリが言う。
「宿は手配済みだ。あそこだ」
木造の宿。
古びた梁に、潮風に晒された跡が残っている。
看板はかすかに軋みながら揺れ、夕焼けに照らされていた。
入口の脇には、使い込まれた樽と網。
漁師たちが立ち寄る場所であることが、ひと目で分かる。
一行は建物へ入った。
扉の向こう、温かな灯りと料理の匂いが流れ込む。
焼いた魚と香草の香り、木の床を踏む靴音。
外の張り詰めた空気が、わずかに緩んだ。
扉をくぐる。
――その奥で、弦の音。
誰も気に留めていないのに、妙に耳に残る。
「……歌?」
吟遊詩人の二人。
落ち着いた青年と、無邪気に歌う少年。
青年は茶色の髪を後ろで束ね、旅装のマントを少し埃っぽく羽織っている。
指先は弦楽器を慣れた様子で爪弾いているが、どこか疲れが見えた。
少年は明るい笑顔で声を重ねる。
笑っているはずなのに、その目はわずかに笑っていない。
「――King of Dawn」
(……似ている)
(夜を越えて、光へ向かう歌……)
(なのに――どこか、懐かしい)
リオは息を呑む。
歌が終わる。
青年の視線が、一瞬だけリオに向いた。
――笑っているのに、笑っていない。
少年もまた、帽子を差し出しながらにこにこと笑う。
だがその笑顔は、わずかに固定されすぎているように見えた。
すぐに、何事もなかったかのように目を逸らす。
「おひねり、お願いしまーす」
リオは硬貨を落とす。
二人は静かに一礼し、人の輪に溶け込んだ。
(……あの二人、ただの旅人じゃない)
(……でも、嫌な感じはしない)
「こっちこっちー!」
黄狐が手を振る。
「席、取っといたわよ」
「お、来たか」
赤鬼が笑う。
「おい、そこの盾持ち……ああ、ファルトだったな。呑める口か?」
「おーし、いくらでもだ」
ファルトが笑う。
青鬼が無言で杯を傾ける。
その視線が一瞬だけリオを捉えた。
空気が、わずかに重くなる。
「王都では、ありがとうございました」
「任務だ」
短い返答。
料理が並ぶ。
杯と皿が手早く回る。
『牡蠣だぞ! うまいんだぞ!』
笑いが広がる。
「……潮の匂い、嫌いじゃないわ」
「……少し、ざわつきますね」
「お料理、美味しそうです……!」
――やがて、宴は終わる。
部屋へ戻る。
(……静かだ)
――ドン……
遠く、海の奥。
鈍い衝撃。
だが、すぐに消えた。
灯りを落とす。
静寂。
――まだ誰も知らない。
その夜。
屋根の上。
「……ふーん」
港を一瞥し、
「さてと……どんなもんでしょうかね」
くすり、と笑い――
次の瞬間、その姿は闇に溶けた。
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