第72話 五日の強行軍
王都の門を抜ける。
天候には恵まれていた。
春の陽気が、やわらかな風となって頬を撫でる。
石畳を離れ、街道へ。
背後で門が閉じる音が、どこか遠くに感じられた。
――ここから、五日の強行軍が始まる。
「今回は特急で行くぞ。休みなんてなしだ」
ダリウスが、あっさりと言った。
「……わかってはいるが」
「うへぇ……」
小さく漏れる嘆きに、苦笑が混じる。
王命により、各地の宿場で馬を乗り換え、昼夜を問わず走り続ける計画だった。
通常なら二十日はかかる距離を、わずか五日で踏破する――無茶な強行軍。
「Bring it back home〜♪
Over sand, over stone, over oceans I roam〜♪」
揺れる馬車の中で、ダリウスの気の抜けた歌が響く。
「……帰りたくもねぇ場所に、帰るんだ」
ぽつりと、歌の余韻に重なるように呟いた。
「だから歌ってんだよ。今は、止めるわけにいかねぇからな」
「お前な……」
ファルトが苦笑をこぼす。
「あるだろ? だから歌ってんだよ」
ダリウスは肩をすくめた。
「……帰りたくもねぇ場所に、帰るんだ」
「だから、歌ってんだよ」
ダリウスは、わずかに視線を外した。
「黙ってたら、余計なこと考えちまうからな。……今のあそこ、ろくな状況じゃねぇだろうし」
その声は軽い。
だが、どこかだけ、重かった。
わずかに沈黙が落ちる。
やがて、誰かが肩を叩いた。
「だからって、歌うなって話だろ」
笑いがこぼれ、空気がほどける。
――止まらない。
馬車は宿場町へ滑り込む。
兵が待機し、新しい馬へ即座に引き継ぎ。
停滞は、ほんの一瞬。
すぐに、再び走り出す。
「……ケツ、死ぬなこれ」
固い座面が、容赦なく体を打ち続ける。
「おい、リオ」
ダリウスが手招きする。
「やってみろ。覚えとけ」
手綱を握る。
最初は、ぎこちない。
――ガタンッ!
馬が大きくいななき、前脚を跳ね上げる。
「きゃっ!」
「ひっ……!」
車体が揺れる。
「慌てるな。引くな――伝えろ」
ダリウスの声。
呼吸を整える。
力を、抜く。
馬の首の動きに、合わせる。
――収まった。
揺れが、静かに消えていく。
「……いいじゃねぇか」
短く笑う声。
ほんのわずか。
だが、確かな手応えが残る。
――止まらない。
昼も夜もなく走る。
景色は流れる。
滝、荒野、天を突く岩。
どれも、記憶に残る前に消えていく。
――時間だけが、積み重なる。
そして。
魔物が現れる。
「来るぞ」
魔狼。
猪型。
「任せろ!」
ファルトが受け止める。
ミラの魔法。
セフィーナの風。
――連携。
リオも踏み込む。
一閃。
崩れる。
「……終わりか」
「楽勝だな」
軽い声。
だが。
(……違う)
剣を握る。
(これじゃ、足りない)
(あの時の一太刀には――届かない)
焦りが、胸に残る。
――止まらない。
振り返る。
ティナが、魔物を解体していた。
刃が、迷いなく入る。
血は流れ、無駄なく処理される。
必要な部位だけが、正確に切り分けられていく。
その動きは――美しい。
「……すごいな」
「仕事ですから」
淡々とした声。
――夜。
焚き火。
火が揺れる。
リオは、動かない。
(足りない)
「焦っているのか」
背後。
クロキリ。
「……はい」
「今のままでは届かん」
静かな断定。
「稽古をつけてやる。来い」
踏み込む。
――遅い。
打ち込まれる。
「どこを見ている」
追う。
だが、追いつかない。
「視線で追うだけじゃ足りない」
刃が、頬をかすめる。
「感覚を統べて使え」
息が乱れる。
喉が焼けるように熱い。
足が重い。
地面に沈むように動かない。
握力が、削れていく。
剣が、わずかに滑る。
頬をかすめた刃の冷たさが、遅れて皮膚に残った。
それでも。
振る。
打ち込む。
弾かれる。
倒れない。
「それでは――届かん」
喉元に刃。
動けない。
――遠い。
「俺にも!」
ファルト。
赤鬼。
激突。
盾が軋む。
骨まで響く衝撃。
「まだだ!」
押し返す。
だが、攻撃に繋がらない。
――重い。
夜ごとに繰り返す。
変わらない。
だが。
積み重なる。
――止まらない。
そして、五日目。
夕方。
風が変わる。
潮の匂い。
波の音。
初めての感覚。
視界の先。
夕焼けに染まる港町。
赤と橙が、海面に溶けるように広がっている。
帆がゆっくりと揺れ、きしむ音が風に乗る。
潮の匂いが、胸の奥まで満ちてくる。
人が動き、空気が張り詰める。
城壁。
門。
門前。
兵の視線が、馬車の紋章に触れる。
次の瞬間。
空気が変わった。
「――開けろ」
短い一言。
通行人が、波のように左右へ割れる。
声もなく、ただ道だけが開く。
馬車はそのまま、止まることなく門を抜けた。
刻まれた名。
――フリーメル。
外海へ開かれた軍港。
要衝。
(……ここが)
拳に力が入る。
「遅いくらいだ」
クロキリ。
リオは、前を見据える。
――到着した。
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