第70話 出立の刻
高官が息を切らし、謁見の間へ踏み込んだ。
ざわめきが、波のように広がる。
「何事だ」
低く問う声に、場が静まる。
「国王陛下……アルマリクにて瘴気発生の一報が入りました」
簡潔な報告。
だが、その一言で空気は凍りついた。
「……数が異常です。国内で発生した例の数倍」
続く言葉が、重い石のように落ちる。
「王都戦で観測されたものより、発生箇所が多い」
沈黙。
「単発ではありません……同時多発です」
誰もが理解した。
――これは、偶発ではない。
「……自然発生ではない、か」
押し殺した声が、静かに響く。
「人為的である可能性が高いと見られます」
重圧が、玉座の間をゆっくりと満たしていく。
アルマリク自由都市。
交易の要衝。
そこが汚染されれば、瘴気は国境を越え、風のように世界を蝕むだろう。
「即時、派兵する」
王は迷わなかった。
その声は、静かでありながら、鋼のように硬い。
「レオン、例の作戦を発動。通達、招集せよ」
命が落ちる。
「瘴気は、広がる前に断つ」
そして。
「浄化可能な者は」
一瞬の間。
その沈黙は、やけに長く感じられた。
「リオ・ルナリスのみ」
――名が、静かに呼ばれた。
その名は、玉座の間に沈み込むように響いた。
誰も、すぐには動かなかった。
それが意味するものを、誰もが理解していたからだ。
◇
その頃――
訓練場。
乾いた木剣の打ち合う音が、規則正しく響いていた。
汗が飛び、息が上がり、陽光が剣先をきらめかせる。
その最中――
「リオ・ルナリス殿。至急、謁見の間へ。ファルト、ミラ、セフィーナ殿も同伴せよ」
伝令の声が、鋭く割って入る。
場の空気が、わずかに色を変えた。
「……伝令か?」
誰かが小さく呟く。
「なんだなんだ?」
ファルトが眉をひそめる。
「このタイミングで呼び出し……嫌な予感しかしないわね」
ミラが静かに、しかし鋭く言う。
「……何かあったのでしょうか」
セフィーナも不安げに視線を巡らせた。
リオもまた、言葉には出さなかったが、胸の奥がざわついていた。
まるで、遠い雷鳴が近づいてくるような、胸騒ぎ。
――先ほどの名が呼ばれた瞬間を、知らぬままに。
その傍ら――
アストルとアネリアも、顔を見合わせる。
「……なんか変じゃない?」
「ええ……空気が、重い……」
精霊たちですら感じ取る、異変の予兆。
木剣を収める。
呼吸を整える暇もなく、彼らは足を向けた。
仲間の視線を背に受けながら。
石造りの回廊を進む。
足音だけが、やけに響いた。
誰も、余計な言葉を口にしなかった。
扉の前で一瞬だけ立ち止まり――
押し開けた。
玉座の間。
足を踏み入れた瞬間、空気の重さが肌にのしかかった。
見渡す限り、高官たちが並んでいる。
宰相、将、各部局の長。
普段は一堂に会さぬ顔ぶれが、ずらりと揃っていた。
(……え?)
思わず、足が止まりかける。
ファルトも小さく息を呑み、ミラは眉をひそめ、セフィーナは戸惑いを隠せない。
ただ事ではない。
それだけが、はっきりと分かった。
リオたちが進み出ると、宰相が一歩前に出た。
「リオ殿達よ。よくぞ参られた。」
「アルマリク自由都市における瘴気は、同時多発的に発生。王都戦の事例を上回る規模だ」
「交易の要衝ゆえ、拡散すれば各国へ波及する。猶予はない」
誰も、すぐには口を開かなかった。
「本任務は、単純だ」
「目的は二つ。第一に、瘴気の浄化。第二に、発生源の特定と封鎖」
「通常戦力では根本解決は不可能。ゆえに、浄化能力を有する者を中核に据える」
視線が、リオへと集中する。
「作戦行動は現地判断に一任する。特務隊として、最短で最善を選べ」
「補給は王国が保証する。道中の物資はすべて手配済みだ」
短い沈黙。
「進路について説明する」
宰相が静かに続ける。
「王都から西へ。港町フリーメルを経由し、海路でアルマリクへ入る」
「帆船での航行はおよそ二十日。天候により前後するが、最短での到達を見込む」
地図が広げられる。
王都。
西方の港。
そして海路を経て――アルマリク。
「航路上の安全は確保済み。だが、到着後の状況は未知数だ」
「現地判断に委ねる」
静寂。
その意味が、ゆっくりと場に沈んでいく。
そこで、王が口を開いた。
「今こそ伝えよう」
王は静かに、しかしはっきりと言った。
「光の導き手とは、光の大精霊の右腕――すなわち、使徒である」
ざわめきが走る。
「その力は、一国の軍勢すら凌駕すると伝えられている」
「本来であれば、王など足元にも及ばぬ存在だ」
場がさらに騒然とする。
リオは息をのんだ。
「そなたにこの王冠を渡すべき――そう言われても不思議ではない」
短い沈黙。
「だが」
王の声が、空気を切り替える。
「導く者と、国政を担う者――その役割は異なる」
「ゆえに」
「導き手としての務めを、全うしてほしい」
「そのための援助は、王国のみならず――世界が惜しまぬであろう」
「世界の安寧は――其方の双肩にかかっている」
静かな声。
だが、その重みは、まるで古い神託のように揺るがなかった。
(……また、あの時のような戦いが待っているのか)
胸の奥が、わずかに冷たくなる。
(正直、怖い)
それでも。
(……自分にしかできないなら)
(やるしかない)
「……頼んだぞ」
逃げ場はない。
「……はい」
短く、応じる。
それで、すべてを引き受けた。
人としてではなく。
役割として。
◇
やがて、緊張を解くように――
立食形式のささやかな宴が、控えの間にて始まった。
張り詰めていた空気が、わずかにほどける。
「頼むぜ、隊長」
ファルトが肩を軽く叩く。
茶化すような口調だが、目は真剣だ。
その視線の先、給仕の列に――クラリスの姿があった。
言葉は交わさない。
ただ、わずかに頷き合う。
それだけで十分だった。
「頼りにしてますよ、リオ」
セフィーナが微笑む。
その声には、確かな信頼があった。
「……軽く言うわね、二人とも」
ミラが小さくため息をつく。
だが、その口元はわずかに緩んでいる。
その傍ら――
アストルがひょいと飛び上がり、わざとらしく胸を張る。
「任せなよ! ボクがついてるんだからさ!」
「ふふ……頼もしいわね」
アネリアもくすりと笑い、風のように舞った。
緊張を誤魔化すような、少しだけ賑やかな空気。
それでも。
誰もが分かっていた。
これは――出立前の、わずかな時間だと。
その一角。
「……危険な任務だな」
低い声。
ミラが振り返る。
そこには――セトスの姿があった。
「……ええ」
短く応じる。
「気をつけろ」
それだけだった。
だが、その一言に込められた重さは、軽くはない。
「……次に会うときは、少し話そうか」
わずかな沈黙。
「……お兄様」
その呼び方に、セトスは一瞬だけ目を細めた。
杯を軽く揺らしながら、ダリウスがぽつりと口を開いた。
「アルマリクは、俺の故郷なんだ」
「だから今回抜擢されたってわけよ」
「……まあ、報酬もいいしな」
軽く笑う。
だが、その奥は重い。
「……帰れるといいな」
誰も、すぐには答えない。
「……あの、明日からよろしくお願いします」
ティナが頭を下げる。
その手は、わずかに震えていた。
「大丈夫だ」
誰かが言う。
だが、その意味を保証できる者はいない。
「……はい」
小さな声。
ふと。
サビアは目を細めた。
笑い声。
杯の音。
どこか、懐かしい。
ただ静かに、その光景を見つめていた。
(……あの時と、似ている)
ラスを見送った日。
涙は見せない。
(……今度は、帰ってくると信じている)
◇
やがて、喧騒は静かに収まっていく。
笑い声も、杯の音も、次第に遠ざかり――
夜が、静かに明けていく。
気づけば、朝が訪れていた。
出立の刻。
門前には、騎士と兵士が整然と並んでいた。
その前に立つのは――レオン。
「行ってこい」
短く、力強い声。
「頼んだぞ」
短い沈黙。
「……無事に帰ってこい」
それは命令ではなく、願いだった。
「おい、気をつけろよ」
カイルの声が飛ぶ。
軽く言うが、その目は真剣だった。
誰もが、それぞれの言葉で送り出す。
「……いよいよだな」
誰かが呟く。
前へ。
進む。
迷いはない。
その背を、サビアが見つめていた。
リオは一歩だけ歩みを緩め、振り向く。
「……行ってきます」
短い言葉。
サビアは、ただ静かに頷いた。
門が開く。
光が差し込む。
一歩。
また一歩。
振り返らない。
その先――
王都の外れに、一台の馬車が停まっていた。
「おーい、こっちだ!」
手綱を握るのは、ダリウス。
いつもの調子で手を振っている。
「準備はできてるぜ」
仲間たちが順に乗り込む。
ファルト。
ミラ。
セフィーナ。
ティナ。
最後に――リオ。
一瞬だけ、振り返る。
王都。
サビアの姿。
「……行ってきます」
馬車へと乗り込む。
ダリウスが手綱を引く。
車輪が、静かに回り出す。
王都を背に――
彼らは、アルマリクへと向かう。
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