第63話 魔王の鎮魂歌
極北の空は暗く、重たい雲が低く垂れこめていた。
その空を裂くように、一つの裂け目が開く。
ディメンションゲート。
黒い歪みが空間に走り、そこから一人の少年が静かに歩み出た。
ディアス。
その背後には魔族軍の影が続くが、彼は振り返らない。
ただ、まっすぐに城へと歩いていた。
魔王城の門が静かに開く。
その時だった。
一人の魔族が、慌てて走り寄る。
「ディアス様!」
息を切らして跪いた。
「レアリナ様が……」
ディアスの足が止まる。
「危篤でございます」
その言葉だけだった。
ディアスは何も言わない。
ただ、次の瞬間――
走った。
城の廊下を、風のように駆け抜ける。
その背に、エクリプスがしがみついた。
「待って、ディアス……!」
振り落とされまいと、必死に外套を掴んでいる。
だがディアスは止まらない。
そのまま扉が勢いよく開かれた。
扉を開いた瞬間、白衣の男と目が合った。
ザハロス。
暗黒魔道研究所の所長にして、レアリナの治療を担当していた男だ。
その目が、一瞬だけディアスを見つめる。
そして――ゆっくりと首を横に振った。
それだけだった。
ザハロスは何も言わず、静かに脇へ退くと、そのまま部屋を後にした。
静かな部屋だった。
ベッドの上には、レアリナが横たわっている。
ディアスはゆっくりと歩み寄る。
「……母上」
その声に、レアリナのまぶたがわずかに動いた。
ゆっくりと目が開く。
「……ディアス」
かすれた声。
「任務中だったのに……」
口からわずかに血がこぼれる。
「……あなたは優しい子ね」
「みんなのために……無理ばかりして」
ディアスは何も言えない。
ただ、母の手を握る。
「ごめんね」
「ずっと……一緒にいてあげられなくて」
レアリナの視線が、ゆっくりと横へ向いた。
エクリプスを見る。
「エクリプスちゃん」
「この子を……お願いね」
エクリプスの瞳がわずかに揺れる。
そして、小さくうなずいた。
「……レアリナ。こいつにはオレが付いている。任せろ」
その言葉に、小さく微笑んだ。
次の瞬間。
部屋の空気が、ふっと静まった。
圧倒的な気配が現れる。
誰も気づかなかったはずなのに――そこにはすでに魔王が立っていた。
黒衣の裾が静かに揺れる。
魔王はゆっくりとベッドの傍へ歩み寄った。
「……レアリナ」
その声に、彼女は再びわずかに目を開く。
魔王は静かに言った。
「お前がいなければ、我はいまに至らなかったであろう」
レアリナはかすかに微笑む。
「……私は幸せでした」
弱い声。
それでも、はっきりとした想いがこもっていた。
「いつまでも……お慕いしております」
その瞬間。
彼女の手から、ふっと力が抜けた。
部屋に静寂が落ちる。
魔王はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと目を閉じる。
「……そうか」
その一言だけだった。
その時。
背後にもう一つの気配が現れる。
ノリスだった。
黒い外套をまとった男は、静かに頭を垂れる。
「陛下」
魔王は振り返らない。
「準備を」
ノリスは小さくうなずく。
やがて、静かな音が部屋に満ち始めた。
それは哀しみを鎮めるための旋律。
魔王が玉座の前でヴァイオリンを奏で始めた。弦が震え、重い旋律が広間を満たす。ノリスがピアノで続き、まるで鎮魂歌だった。
低く、深く、世界の底から響くような音。
その旋律に触れた瞬間。
ディアスの胸の奥で、何かが軋んだ。
悲しみ。
喪失。
そして――力。
空気が震える。
赤黒い瘴気が、ゆっくりと部屋に滲み出した。
エクリプスが顔を上げる。
「……ディアス」
ディアスの瞳が、静かに開いた。
そこには、以前とは違う光が宿っていた。
やがて旋律が静かに途切れる。
ノリスはゆっくりと立ち上がった。
そして部屋の中央で膝をつき、深く頭を垂れる。
「陛下」
「レアリナ様の件、全軍に通達いたします」
魔王は何も答えない。
ただ静かに目を閉じたままだった。
ノリスは理解したように立ち上がる。
その日のうちに、魔王軍全域へ命令が発せられた。
――王妃レアリナ様の国葬を執り行う。
――全軍、戦闘行動を停止せよ。
魔王軍の各地でざわめきが広がる。
前線にいた魔族たちは互いに顔を見合わせた。
前線の兵士たちは、命令書を読み上げた者を見つめた。
「国葬……だと?」
「レアリナ様のか?」
「あぁ……なんということだ」
「あれほど魔王様に尽くしていた方が……」
「短命で終わるなど……この世界は壊れている」
「……魔王様は、どうされるのだ」
命令は絶対だった。
魔族軍は一斉に進軍を止める。
そして数日後。
魔王城の広間には、無数の魔族が集まっていた。
黒い旗が静かに垂れ下がる。
中央には、花に囲まれたレアリナの棺。
魔族の将軍たち。
その中には、不死の真祖ヴァンパイア――ヴァネッサの姿もあった。
独立部隊を率いる彼女もまた、静かに黒のローブをまとい参列している。
「……レアリナ」
かすかな声が漏れる。
それは、長い時を共にした親友を悼む響きだった。
研究所の者たち。
兵士たち。
誰も言葉を発さない。
静寂だけが広がっていた。
やがて。
魔王が現れる。
広間の空気が変わった。
すべての魔族が一斉に膝をつく。
魔王は棺の前まで歩み寄る。
そして静かに言った。
「……レアリナ」
その声には、わずかな哀しみが混じっていた。
「……せめて、安らかな死を」
魔王の低い声が、静まり返った広間に落ちる。
やがて棺は静かに運ばれていった。
埋葬の儀が始まる。
その場に集った魔族たちは、誰も声を上げて泣くことはなかった。
だが、あちこちから押し殺したすすり泣きが漏れ始める。
静かな広間に、その声だけが波のように広がっていった。
ディアスはその後ろに立っていた。
参列した魔族たちは皆、黒のローブに身を包んでいる。
広間には重い沈黙が満ちていた。
魔王軍の若き幹部たちが並ぶ。そのディアスの傍らには、バルグ、リレーナ、ゼインが静かに寄り添っていた。
彼らは誰一人として言葉を発さない。
ただ、王妃の棺を静かに見つめていた。
赤黒い瘴気が、彼の周囲で静かに揺れている。
魔族たちは気づき始めていた。
この少年が――
次の時代を動かす存在になることを。
――その頃。
アイゼンハルト王国、北方最前線。
氷の風が吹きつける見張り台の上で、二人の兵士が遠眼鏡を覗いていた。
「……おい」
一人が眉をひそめる。
「どうした」
「魔族が……いない」
もう一人の兵士が遠眼鏡を奪うように覗き込む。
いつもなら、黒い軍勢が地平線の向こうまで広がっているはずだった。
だが――
そこには、何もない。
風に舞う雪と、凍った大地だけ。
「……撤退したのか?」
「ありえん……」
兵士の喉がごくりと鳴る。
「魔族が理由もなく引くはずがない」
見張り台の鐘が鳴らされた。
低く、重い音が前線に響き渡る。
「司令部に伝えろ!」
「魔族軍が……消えた!」
最前線の兵士たちはまだ知らない。
この沈黙が――
王妃レアリナの国葬によるものだということを。
そしてそれが、嵐の前の静けさであることを。
誰もがその理由を知らないまま。
だが、その沈黙は一人の死から始まっていた。
――世界は、三十年ぶりに沈黙した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第63話は、魔王軍側の大きな転換点となる回でした。
レアリナの死と国葬、そして止まる戦争。
静かな章ですが、物語の流れが大きく動き始めています。
この沈黙の先に何が待つのか――
次話もどうぞよろしくお願いいたします。




