男湯
宿の裏手にある温泉。
そこは、山と海の景色を望む露天風呂だった。
昼下がりの陽光が水面に反射し、白い湯けむりがゆっくりと空へ昇っていく。
肌を撫でる風は心地よく、旅の疲れを少しずつ溶かしていくようだった。
「…いいお湯ね」
湯に浸かったグラッドが、気持ちよさそうに息を吐く。
その隣には、ルドベックが静かに身体を預けていた。
ルドベックを挟むような形で、グラッドの反対側に腰を下ろす。
三人並んで湯に浸かると、久しぶりの温かな湯が、長旅で張り詰めていた身体の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。
「ふぅ…」
思わず息が漏れる。
山道を越えてきた疲れが、少しずつ抜けていくのを感じた。
そんな静かな時間を壊すように、隣からスピレアの声が響いた。
「ローレル! まずは身体をきれいにするの!」
どうやらスピレアとローレルも温泉へ来ているらしい。
「ふふっ」
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
隣を見ると、ルドベックも同じように笑っていた。
「はぁ…」
グラッドは呆れたようにため息をついている。
ルドベックの顔からは、思い詰めた表情は消え、穏やかで優しい笑みが浮かんでいた。
今なら話を聞けるかもしれない。
そう思い、ルドベックへ声をかけようとした、その時だった。
「ルドベック」
一足先に、グラッドが静かに口を開く。
「無理にとは言わないわ。でも、話したくなったら話しなさい」
穏やかな声が、湯けむりの中へ静かに溶けていく。
「アタシたちは仲間よ。一人で抱え込まないでね」
責めるでも、問い詰めるでもない。
ただ寄り添うようなその言葉に、ルドベックは目を伏せた。
ルドベックは湯の中で膝を抱え、身体を小さく丸めた。
湯けむりの向こうで、その横顔だけが静かに揺れている。
「…わからなくなったんだ」
長い沈黙のあと。
ルドベックは俯いたまま、小さな声で口を開いた。
「俺は…スピレアに、この危険な旅を辞めさせるために同行した」
いつもの迷いのない口調はどこにもない。
言葉を選ぶように、一つひとつ噛み締めながら続ける。
「なのに、旅を辞めたくない自分が居るんだ」
湯面に落ちた視線は、しばらく動かなかった。
何のことだろう。
思わずグラッドへ視線を向ける。
しかし、グラッドも小さく首を傾げるだけだった。
どうやら、グラッドにも話の全貌が見えていないようだ。
「どういうことだ?」
まどろっこしい言い方は嫌いだ。
率直に尋ねると、ルドベックは困ったように息をつく。
「その…」
再び沈黙が流れる。
やがて、意を決したように口を開いた。
「…旅が、楽しいんだ」
恥ずかしそうに漏らしたその一言は、湯けむりの中へ静かに溶けていった。
「つまり?スピレアに旅を辞めさせたい。でも、この旅は楽しいから辞めたくない。そういうことか?」
頭の中で話を整理しながら確認する。
「…」
ルドベックは視線を逸らしたまま、小さく頷いた。
その姿を見て、思わず口が動く。
「しょーもな」
あまりにも予想外の悩みに、呆れたような言葉が溜め息と共に漏れてしまった。
「何だと、貴様!」
ルドベックが反射的に声を荒らげる。
その勢いに、思わず笑みがこぼれた。
いつものルドベックが戻ってきてしまったようだ。
「ふふっ」
その様子を見て、グラッドも小さく笑う。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
「まだ旅は始まったばかりだろ?」
肩の力を抜きながら続ける。
「今すぐ答えなんて出さなくても良いんじゃないか?」
ルドベックは黙ってこちらを見つめている。
「それにさ、危険なことがあっても、お前がスピレアを守るんだろ?」
「ああ、もちろんだ」
迷いなく返事が返ってくる。
「だったら、今は余計なことなんて考えずにさ、この旅を楽しんだらいいんじゃないか?」
そう言うと、ルドベックは少しだけ目を丸くした。
張り詰めていた表情が、ほんのわずかに和らいだ気がする。
「楽観的すぎて反吐が出る」
ルドベックは呆れたような視線をこちらへ向ける。
「だが…今だけは、貴様の考えを借りるとしよう」
そう言うと、張り詰めていた表情がふっと和らいだ。
感謝の一つくらい、素直に言えないものかね。




