6日目:もう一度、あの場所へ
六日目の朝。
ミアは目を覚まさなかった。
「……ミア」
クロウはベッドのそばに座り、少女の顔を見つめていた。
昨日の夜、ミアは泣きながら言った。
もっと生きたい。
死にたくない。
そして、眠るまで一緒にいてほしいと頼んだ。
クロウは約束どおり、その手を握り続けていた。
「……朝だぞ」
返事はない。
「……昨日はあんなに喋ってたくせに」
少女の呼吸は穏やかだった。
ただ、どれほど呼びかけても、まぶたは動かなかった。
やがて、扉が開いた。
「ミア、おはよう」
エレナだった。
彼女はベッドのそばに腰を下ろし、娘の頬を撫でた。
「……ミア?」
返事はない。
「……ねえ、起きて」
エレナの声が震えた。
「……お願いだから……」
クロウは握っていた手を見つめた。
温かい。
確かに、まだ生きている。
それでも、その小さな手は握り返してこなかった。
◇
昼前。
医師が診察を終えた。
エレナとレイモンドは、ベッドのそばに立っていた。
「……先生」
レイモンドが口を開く。
「娘は、どうなんですか」
医師はしばらく黙っていた。
「……眠り病が、かなり進行しています」
エレナが娘の手を握りしめた。
「……もう、目を覚まさないんでしょうか」
「……分かりません」
医師は静かに答えた。
「このまま深い眠りが続けば、身体が衰弱していきます」
「……そんな……」
エレナは俯いた。
レイモンドは拳を握った。
「……先生」
「……はい」
「……前に話した薬草のこと、覚えてますか」
医師は顔を上げた。
「……北の鉱山に生えるという、あの薬草ですか」
「……ええ」
エレナがレイモンドを見た。
その薬草については、彼女も知っていた。
レイモンドは、ミアが眠り病と診断されてから、治療法を探し続けていた。
医師に相談し、古い文献を調べ、遠くの街にも話を聞きに行った。
その中で見つけたのが、北の鉱山に生えるという白い花の薬草だった。
だが、効き目は確かではなかった。
何より、その鉱山は七年前の崩落事故以来、立ち入りが禁じられていた。
「……あの薬草があれば、助かる可能性はあるんですよね」
レイモンドが尋ねた。
医師は慎重に答えた。
「……記録はあります。しかし、効果を保証することはできません」
「……それでも、可能性はある」
「……はい」
レイモンドは頷いた。
「……分かりました」
エレナが夫の腕を掴んだ。
「……レイモンド?」
レイモンドは何も答えなかった。
◇
医師が帰ったあと。
レイモンドは納屋から古い鞄を取り出した。
中には、縄とランタン、それから使い込まれた道具が入っていた。
エレナが入口に立っていた。
「……本気なの?」
「ああ」
「……七年前の事故、忘れたわけじゃないでしょう?」
「忘れるわけないだろ」
レイモンドは道具を確かめながら答えた。
「だったら、どうして……!」
エレナの声が強くなった。
「ミアを助けたいのは私だって同じ。でも、あなたをあんな危険な場所に行かせたくない」
レイモンドは手を止めた。
「……分かってる」
「……分かってないわ」
エレナは首を振った。
「……あの子が目を覚ましたとき、あなたがいなかったらどうするの?」
レイモンドは黙った。
「……ミアは、あなたが帰ってくるのを待ってるのよ」
エレナの目に涙が浮かんだ。
「……お願い。行かないで」
レイモンドはゆっくりと立ち上がった。
そして、妻の前に歩み寄った。
「……俺だって、怖いよ」
エレナが顔を上げる。
「……あそこには、二度と近づきたくなかった」
レイモンドは苦笑した。
「……でもさ」
その声は、いつものように明るくはなかった。
「……昨日、ミアが菓子を一口だけ食べたんだ」
「……ええ」
「……あいつ、謝ったんだよ。せっかく買ってきたのにって」
レイモンドは俯いた。
「……俺、何も言えなかった」
エレナは黙って聞いていた。
「……あいつが食べられなくなってるのに、俺は笑うことしかできなかった」
「……レイモンド……」
「……だから、今度は何かしてやりたい」
レイモンドは妻を見つめた。
「……父親らしいことを、一つくらい」
エレナの頬を涙が伝った。
「……もう、十分してくれてるわ」
レイモンドは小さく笑った。
「……そうか?」
「……ええ」
エレナは夫の胸に額を寄せた。
「……あの子は、あなたのことが大好きよ」
「……俺もだ」
レイモンドは妻を抱きしめた。
「……だから、連れて帰りたいんだ。あいつの明日を」
しばらくして、エレナが顔を上げた。
「……約束して」
「……何を?」
「……必ず、帰ってきて」
レイモンドは頷いた。
「……ああ。約束する」
◇
出発する前に、レイモンドはミアの部屋へ入った。
クロウはベッドのそばにいた。
「……ミア」
レイモンドは椅子に腰を下ろした。
「……父さん、ちょっと出かけてくる」
返事はない。
「……お前の好きな菓子、まだ残ってるだろ?」
レイモンドは枕元の紙包みを見た。
「……帰ってきたら、一緒に食おうな」
ミアは眠ったままだった。
レイモンドは娘の髪を撫でた。
「……ちゃんと帰ってくるから」
その声は、少し震えていた。
「……待っててくれよ」
レイモンドは立ち上がった。
扉の前で一度だけ振り返り、それから部屋を出ていった。
クロウはその背中を見送った。
「……あいつ、本当に行くのか」
誰にともなく呟く。
昨日まで、あれほど騒がしかった男だった。
くだらない冗談を言って、娘を笑わせていた。
その男が今、命を懸けて山へ向かおうとしている。
クロウは眠るミアを見た。
「……お前の父親、無茶するな」
返事はない。
「……帰ってきたら、ちゃんと怒ってやれよ」
クロウは少女の手を握り直した。
◇
午後。
レイモンドは北の山へ向かっていた。
七年前まで、毎日のように歩いた道だった。
今では草が伸び、ところどころ崩れかけている。
やがて、古い鉱山の入口が見えた。
朽ちた木の柵。
錆びた立入禁止の看板。
レイモンドは足を止めた。
「……久しぶりだな」
誰に言うでもなく呟いた。
七年前。
この場所で、大きな崩落事故が起きた。
レイモンドは生き残った。
だが、仲間の一人は帰ってこなかった。
あの日のことを、忘れたことはない。
レイモンドは深く息を吸った。
「……よし」
ランタンに火を灯し、坑道へ足を踏み入れた。
◇
レイモンドはランタンを掲げ、坑道の奥へ進んだ。
湿った岩肌。
足元に散らばる小石。
何もかもが、七年前と変わっていないように思えた。
ふと、笑い声が蘇る。
『おい、そんなに急ぐなよ』
『お前が遅いんだろ』
『違うって。お前がせっかちなんだ』
あの頃は、毎日のようにくだらないことで言い合っていた。
仕事が終われば、二人で街へ戻った。
片方が愚痴をこぼせば、もう片方が笑い飛ばす。
そんな日々が、いつまでも続くと思っていた。
「……懐かしいな」
レイモンドは小さく呟いた。
だが、その表情からすぐに笑みが消えた。
あの日を境に、すべてが変わってしまったのだから。
◇
夕方。
ミアが、わずかに目を開けた。
「……クロウ、さん……」
クロウはすぐに顔を上げた。
「……ミア?」
「……うん……」
「……起きたのか」
少女は小さく頷いた。
「……今、何時……?」
「……もう夕方だ」
「……そんなに寝ちゃったんだ……」
ミアは弱々しく笑った。
クロウは握っていた手を少し持ち上げた。
「……今日は、ずいぶん寝坊したな」
「……ふふ……」
ミアが小さく笑う。
「……クロウさん、ずっといたの?」
「……ああ」
「……退屈じゃなかった?」
「……お前が静かだったからな」
「……ひどい……」
そう言って笑ったあと、ミアは少しだけ息を整えた。
「……お母さんは?」
「……隣の部屋にいる」
「……お父さんは?」
クロウは少し迷った。
「……出かけた」
「……お仕事?」
「……いや」
ミアが不思議そうに見つめた。
「……お前のために、薬を探しに行った」
「……薬……?」
「ああ。治るかもしれない薬だ」
ミアはしばらく黙っていた。
「……そんなの、あるんだ……」
「……まだ、分からん」
クロウは正直に答えた。
「……でも、あいつは諦めてない」
ミアは天井を見つめた。
「……お父さん、昔からそうなの」
「……何がだ」
「……私が困ってると、すぐ何とかしようとするの」
ミアは薄く笑った。
「……小さい頃ね、私、よく街の門まで行ってたんだ」
「……門?」
「……うん。そこで、ずっと座ってたの」
「……何してたんだ?」
「……別に、何も」
ミアは少しだけ笑った。
「……ただ、帰りたくなかったの」
クロウは黙って続きを待った。
「……ある日、雨が降ってきても帰らなくて。気がついたら、真っ暗になっちゃって」
「……それで?」
「……レイモンドお父さんが、迎えに来てくれたの」
ミアは小さく笑った。
「……怒られると思ったんだけど、何も言わなかった。ただ、私の隣に座ってくれて」
「……ああ」
「……それでね、私が『まだ帰りたくない』って言ったら、『じゃあ、もう少しだけな』って」
ミアの声が、少しだけ明るくなった。
「……雨がやむまで、ずっと一緒にいてくれたの」
クロウは少女を見た。
「……いい父親だな」
「……うん」
ミアは嬉しそうに頷いた。
「……あのときから、ずっと」
少し間を置いて、ミアは続けた。
「……だから、今度は私が待ってたいの」
「……あいつが帰ってくるのをか」
「……うん。今度は、私が『おかえり』って言う番だから」
クロウは少女の手を握り返した。
「……だったら、待ってろ」
「……うん……」
「……あいつ、約束したんだろ」
「……うん……」
「……お前も、もう一度あいつの顔を見てやれ」
ミアはかすかに笑った。
「……クロウさんも、一緒に待ってくれる?」
「……ああ」
「……明日まで?」
「……明日までだ」
ミアは安心したように息を吐いた。
「……ありがとう……」
そして、再び眠りについた。
クロウはしばらく、その顔を見つめていた。
「……礼なら、あいつに言え」
少女に届くことはなかった。
◇
同じ頃。
レイモンドは坑道の奥へ進んでいた。
ランタンの明かりが、湿った岩肌を照らしている。
何度か道が塞がっていたが、昔の記憶を頼りに迂回した。
やがて、天井の一部が崩れた場所に出た。
そこから、夕日の光が差し込んでいた。
「……ここか……」
岩の隙間に、小さな白い花が咲いていた。
レイモンドは駆け寄った。
「……あった……!」
慎重に根元の土を掘る。
小さな薬草を、傷つけないように取り出した。
「……これで……」
レイモンドは薬草を布に包んだ。
「……待ってろよ、ミア」
そのとき。
ぱらり、と小石が落ちた。
レイモンドは顔を上げた。
「……まずい」
次の瞬間。
轟音が坑道に響いた。
頭上の岩が崩れ落ちる。
レイモンドはとっさに身を投げ出した。
「ぐっ……!」
鋭い痛みが右脚を走った。
倒れ込んだ先で、ランタンが転がる。
土煙が舞い上がり、視界が塞がれた。
しばらくして、音が止んだ。
「……くそっ……」
レイモンドは身体を起こそうとした。
だが、脚が動かない。
崩れた岩が、足首を押さえつけていた。
「……冗談じゃねえぞ……」
歯を食いしばり、岩を押す。
びくともしない。
レイモンドは荒い息を吐いた。
七年前の記憶が、鮮明に蘇った。
激しい揺れ。
崩れ落ちる天井。
そして、すぐそばにいた仲間の声。
『走れ!』
『お前はどうする!』
『いいから行け!』
次の瞬間、背中を強く押された。
レイモンドは地面に転がり、振り返った。
土煙の向こうで、誰かがこちらを見ていた。
『……頼んだぞ』
それが、最後に聞いた言葉だった。
轟音がすべてをかき消した。
レイモンドは目を開けた。
「……くそっ……」
目の前には、七年前と同じ暗闇が広がっていた。
あの日、自分は助けられた。
今度は、自分が誰かを助けなければならない。
レイモンドは胸元の薬草を確かめた。
「……今度は、俺の番だ」
もう一度、岩に手をかけた。
岩が、わずかに動いた。
「……帰るって、約束したんだよ!」
レイモンドは叫んだ。
◇
夜。
エレナは何度も窓の外を見ていた。
外はすっかり暗くなっている。
レイモンドは、まだ帰ってこない。
テーブルの上には、冷めた夕食が二人分。
エレナは窓から目を離し、ミアの部屋へ向かった。
娘は静かに眠っていた。
クロウはベッドのそばに座っていた。
「……ミア」
エレナは娘の髪を撫でた。
「……お父さん、まだ帰ってこないの」
その声は震えていた。
「……でも、きっと帰ってくるからね」
エレナは娘の手を握った。
「……だから、あなたも……」
言葉が途切れる。
「……お願い。もう一度、目を開けて……」
クロウは二人を見つめていた。
ミアは父親を待っている。
エレナは夫と娘を待っている。
そして、レイモンドは娘のために、危険な場所へ向かった。
誰も、諦めていない。
クロウはミアの手にそっと触れた。
「……聞こえてるか、ミア」
返事はない。
「……お前、明日も起きるんだろ」
少女は眠り続けていた。
「……だったら、約束守れよ」
クロウは窓の外を見た。
真っ暗な夜だった。
レイモンドの姿は、まだ見えない。
クロウはもう一度、ミアを見つめた。
「……あいつが帰ってくるんだ」
少女の手を握り直す。
「……だから、お前も起きろよ」
返事はなかった。
それでもクロウは、その手を離さなかった。
ミアに残された時間は、あと一日。




