7日目:いってらっしゃい
七日目の朝。
ミアは、まだ眠っていた。
窓の外では、小鳥が鳴いている。
いつもと変わらない朝だった。
ただ、ベッドのそばに座るクロウだけが、その朝の意味を知っていた。
今日が、最後の日だ。
「……ミア」
少女の手を握る。
返事はない。
「……朝だぞ」
昨日も同じことを言った。
その前の日も。
けれど今日は、どうしても返事が欲しかった。
「……おい。起きろよ」
ミアは眠り続けていた。
クロウは少女の顔を見つめた。
七日前。
この部屋で初めて出会ったとき、少女は自分の余命を告げられても笑っていた。
『七日間、よろしくね』
そう言って、手を差し出してきた。
あのときは、変わった子供だと思った。
死神に向かって笑いかける人間など、滅多にいなかったからだ。
それが今では。
その笑顔を、もう一度見たいと思っている。
◇
昼前。
エレナは窓際に立っていた。
昨夜から、ほとんど眠っていない。
レイモンドは、まだ帰ってこなかった。
何度も外を確かめては、娘の寝顔を見る。
「……お願い……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「……二人とも、帰ってきて……」
そのとき。
玄関の扉を叩く音がした。
エレナは顔を上げた。
「……レイモンド?」
慌てて廊下を走る。
扉を開けると、そこには泥だらけの男が立っていた。
「……ただいま」
レイモンドだった。
顔には擦り傷があり、右脚を引きずっている。
服は破れ、片手で壁に身体を支えていた。
「……あなた……!」
エレナは駆け寄った。
「……その脚……!」
「……ちょっと転んだだけだ」
「……嘘ばっかり……!」
エレナの声が震えた。
レイモンドは苦笑した。
「……怒るのは、あとにしてくれ」
懐から、小さな布包みを取り出す。
「……見つけたぞ」
布を開くと、白い花をつけた薬草があった。
「……これ……」
「……ああ」
レイモンドは頷いた。
「……ミアは?」
エレナは涙を拭った。
「……まだ、眠ってる」
「……そうか」
レイモンドは大きく息を吐いた。
「……じゃあ、急ごう」
◇
医師が呼ばれた。
薬草を確認すると、すぐに処置の準備が始まった。
古い文献に記された方法に従い、薬草を煎じて薬を作る。
ただし、効果があるかどうかは分からない。
エレナはミアの手を握っていた。
レイモンドは椅子に腰を下ろし、痛む脚を押さえている。
クロウはベッドの反対側に立っていた。
医師が少量ずつ薬を飲ませる。
ミアは目を閉じたままだった。
しばらくして、医師が呼吸と脈を確かめた。
「……あとは、身体がどう反応するかです」
エレナが尋ねた。
「……いつ、目を覚ますんでしょうか」
「……分かりません」
医師は静かに答えた。
「今は、待つしかありません」
レイモンドは俯いた。
エレナは娘の手を握り直した。
クロウも、そっとその手に触れた。
少女の手は、まだ温かかった。
◇
時間だけが過ぎていった。
窓から差し込む光が、少しずつ傾いていく。
エレナは何度も娘の名前を呼んだ。
レイモンドは、もう冗談を言わなかった。
ただ、じっとミアを見つめていた。
クロウも同じだった。
いつもなら、死を迎える人間のそばで、その時を静かに待つ。
それが死神の役目だった。
けれど今は、何も起きないことが恐ろしかった。
クロウは少女の手を握った。
「……ミア」
返事はない。
「……お前、昨日言っただろ」
少女の顔を見つめる。
「……父親が帰ってきたら、おかえりって言うんだろ」
クロウは小さく息を吐いた。
「……帰ってきたぞ」
ミアのまぶたは動かない。
「……あんな怪我までしてな」
レイモンドは、ベッドの向こう側で娘の顔を見つめていた。
「……だから」
クロウは少女の手を握り直した。
「……頼むから、起きてくれ」
そのとき。
指先が、かすかに動いた。
「……?」
クロウは顔を上げた。
もう一度、少女の指が動く。
「……ミア?」
エレナが息を呑んだ。
「……今、動いた……?」
医師がすぐに近づいた。
ミアのまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……ん……」
「……ミア!」
エレナが叫んだ。
少女はぼんやりと天井を見つめた。
「……お母さん……?」
「……そうよ……!」
エレナの頬を涙が伝った。
「……お母さんよ……!」
ミアはゆっくりと顔を動かした。
「……お父さん……?」
レイモンドが椅子から立ち上がろうとした。
だが、脚の痛みに顔を歪める。
「……おう……!」
それでも笑った。
「……ただいま、ミア」
ミアの目に涙が浮かんだ。
「……おかえり……お父さん……」
レイモンドは顔をくしゃくしゃにした。
「……ああ……!」
そのまま娘の手を握る。
「……ちゃんと、帰ってきたぞ……!」
エレナは二人を抱きしめた。
三人とも、泣いていた。
医師はミアの様子を確かめ、静かに頷いた。
「……薬が効き始めているようです」
エレナが顔を上げた。
「……助かるんですか……?」
「……まだ経過を見る必要がありますが、少なくとも、先ほどまでとは明らかに違います」
医師は微笑んだ。
「……回復の兆しがあります」
エレナは声を上げて泣いた。
レイモンドも、もう涙を隠さなかった。
クロウは三人を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……よかったな、ミア」
◇
夕方。
医師は、ミアの状態が落ち着いたことを確認して帰っていった。
エレナはレイモンドの脚の手当てをするため、隣の部屋にいた。
ミアはベッドに横になっていた。
まだ身体は弱っていたが、目を開けていられるようになっていた。
クロウは窓際に立っていた。
「……クロウさん」
「……なんだ」
「……お父さん、帰ってきたね」
「……ああ」
「……約束、守ってくれた」
「……そうだな」
ミアは小さく笑った。
「……クロウさんも」
「……俺?」
「……一緒に待ってくれたでしょ」
クロウは少女を見た。
「……ああ」
「……ありがとう」
「……礼は、もう聞いた」
「……何回言ってもいいでしょ?」
「……好きにしろ」
ミアはくすくすと笑った。
その笑い声を聞いて、クロウも少しだけ笑った。
しばらく、二人は何も言わなかった。
窓の外では、夕日が街を照らしていた。
「……ねえ、クロウさん」
「……なんだ」
「……私、もう大丈夫なのかな」
クロウは少女を見つめた。
死神には、命の終わりが分かる。
七日前、ミアの命は今日で終わるはずだった。
だが、今は違った。
目の前の少女から、死の気配が遠ざかっていた。
「……ああ」
クロウは頷いた。
「……もう、俺の出番はなさそうだ」
ミアは少し考えた。
「……それって」
「……お前は、生きられるってことだ」
少女の顔が明るくなった。
「……本当に?」
「……ああ」
ミアは両手で口元を覆った。
目に涙が浮かぶ。
「……そっか……」
小さく息を吐く。
「……私、生きられるんだ……」
クロウは黙って頷いた。
ミアはしばらく泣いていた。
けれど、それは昨日までの涙とは違っていた。
◇
「……じゃあ、クロウさんは?」
ミアが尋ねた。
クロウは少しだけ目を伏せた。
「……俺は、もう行かないとな」
「……そっか」
少女の声が小さくなった。
「……もう、会えないの?」
「……たぶんな」
「……そうなんだ……」
ミアは毛布を握った。
クロウはベッドのそばへ歩み寄った。
「……お前、まだやりたいことがあるんだろ」
「……うん」
「……母親と市場に行くんだったな」
「……うん」
「……父親と散歩も」
「……うん」
「……絵も、もっと描くんだろ」
ミアは涙を拭った。
「……覚えててくれたんだ」
「……散々聞かされたからな」
ミアは笑った。
「……クロウさん、最後まで意地悪」
「……お互い様だろ」
クロウは小さく笑った。
ミアも笑った。
しばらくして、少女が口を開いた。
「……私ね」
「……ああ」
「……クロウさんが来た日、本当はすごく怖かったの」
クロウは黙って聞いていた。
「……あと七日って言われて……でも、怖いって言ったら、本当になっちゃいそうで」
ミアは膝の上で手を重ねた。
「……だから、笑ったの」
「……そうだったのか」
「……うん」
少女は顔を上げた。
「……でも、クロウさんが普通に話してくれたから、少しずつ怖くなくなった」
「……俺は、特に何もしてないぞ」
「……してくれたよ」
ミアは首を振った。
「……私が眠れないとき、手を握ってくれた」
「……ああ」
「……泣いたときも、そばにいてくれた」
「……ああ」
「……怖いって言っても、笑わなかった」
クロウは何も言わなかった。
「……だからね」
ミアは微笑んだ。
「……クロウさんが来てくれて、よかった」
クロウは少女を見つめた。
死神が来てよかった。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
「……変なこと言うな」
クロウはそう答えた。
だが、その声は少しだけ掠れていた。
◇
「……そうだ」
ミアが何かを思い出したように言った。
「……クロウさんにも、見せたいものがあるの」
「……なんだ」
「……あのね、三日目に絵を描いたでしょ?」
「……ああ。お前の家族の絵だろ」
「……うん。でも、もう一枚描いてたの」
ミアは枕の下に手を伸ばした。
そこから、一枚の紙を取り出す。
「……これは、誰にも見せてなかったんだけど」
少し恥ずかしそうに笑った。
「……最後だから、クロウさんにも見せるね」
クロウは紙を覗き込んだ。
そこには、三人の人物が描かれていた。
若い女性。
小さな女の子。
そして、黒髪の男。
「……これは?」
「……私の、大切な家族」
ミアは絵を見つめた。
「……小さい頃の、私たちなの」
クロウは男の顔を見た。
不思議なことに、目が離せなかった。
「……この男は?」
ミアは少しだけ寂しそうに笑った。
「……私の、本当のお父さん」
クロウは黙った。
「……七年前に、亡くなったの」
少女は絵の中の男を指でなぞった。
「……名前は、アラン」
その瞬間。
クロウの中で、何かが弾けた。
◇
暗闇。
轟音。
崩れ落ちる岩。
『走れ!』
自分の声だった。
『お前はどうする!』
レイモンドの声。
『いいから行け!』
背中を強く押す。
親友が地面に転がる。
その向こうで、岩が崩れ落ちてきた。
『……頼んだぞ』
それが、自分の最後の言葉だった。
◇
次に浮かんだのは、暖かな朝の光だった。
小さな家。
焼きたてのパンの匂い。
台所に立つ妻のエレナ。
そして、足元を走り回る小さな女の子。
『お父さん!』
幼いミアが、勢いよく飛びついてくる。
『おっと、危ないだろ』
『えへへ』
抱き上げると、ミアは嬉しそうに笑った。
『お父さん、今日は早く帰ってくる?』
『ああ。早く帰れたら、一緒に絵を描こうな』
『ほんと?』
『約束だ』
小さな指が差し出される。
指切りをした。
その日の夕方。
自分は帰らなかった。
◇
「……クロウさん?」
ミアの声がした。
クロウはゆっくりと顔を上げた。
目の前にいる少女。
栗色の髪。
琥珀色の瞳。
あの日、玄関で手を振っていた小さな娘。
「……ミア……」
声が震えた。
七年という時間が、目の前にあった。
「……大きく、なったな……」
ミアは不思議そうに首を傾げた。
「……クロウさん?」
クロウは震える手を伸ばした。
そして、少女の頭をそっと撫でた。
「……ただいま」
ミアは目を見開いた。
「……え……?」
「……遅くなって、ごめんな」
その言葉を聞いた瞬間。
ミアの胸に、遠い記憶が蘇った。
◇
まだ、自分が小さかった頃。
夕暮れの部屋で、父の帰りを待っていた。
玄関の扉が開くと、いつも真っ先に駆け出した。
『お父さん!』
父は決まって、膝をついて両手を広げた。
『ただいま、ミア』
抱きつくと、仕事帰りの父からは土と石の匂いがした。
『今日もお仕事、頑張った?』
『ああ。ミアに会うために頑張ってきた』
『じゃあ、いっぱい褒めてあげる!』
『そりゃありがたいな』
父は笑って、自分を高く抱き上げてくれた。
怖いくらい高かったのに、不思議と落ちる気はしなかった。
◇
別の日。
夜中に怖い夢を見て、泣きながら父の寝床へ行ったことがあった。
『……お父さん、怖い夢見た……』
父は眠そうな顔で起き上がり、自分を隣に寝かせてくれた。
『……そっか。怖かったな』
『……また見たらどうしよう……』
父は小さな手を握った。
『……怖いものは全部、夢の中に置いてこい』
『……できるかな……』
『……大丈夫。父さんがここにいる』
そう言って、眠るまでずっと手を握ってくれた。
◇
ミアは、はっと顔を上げた。
七日前から、そばにいてくれた死神。
怖い夢を見た夜、手を握ってくれた人。
泣いてもいいと言ってくれた人。
そして、昨日まで自分を見守ってくれた人。
その人が、今。
昔と同じように、自分の頭を撫でていた。
「……あ……」
ミアの唇が震えた。
「……あの言葉……」
クロウは黙っていた。
「……怖いものは、全部……夢の中に置いてこいって……」
クロウの目にも涙が浮かんだ。
「……お父さんが、言ってた……」
ミアは、目の前の男を見つめた。
髪の色も、瞳の色も、覚えている父とは違う。
声だって、同じではない。
それでも。
あの手の温かさだけは、忘れていなかった。
「……お父……さん……?」
クロウはゆっくりと頷いた。
「……ああ」
涙が頬を伝った。
「……ただいま、ミア」
ミアは泣きながら、クロウに抱きついた。
「……おかえりなさい……!」
クロウは娘を抱きしめた。
「……遅くなって、ごめんな……」
「……ううん……!」
ミアは首を振った。
「……ずっと、会いたかった……!」
「……俺もだ……」
「……お父さんに、いっぱい話したいことがあったの……!」
「……ああ……」
「……絵も、見せたかった……!」
「……見たよ」
クロウは笑った。
「……上手になったな」
ミアは声を上げて泣いた。
七年前に交わした約束。
一緒に絵を描こうと言った父親は、あの日帰ってこなかった。
けれど今。
娘が描いた絵を、ちゃんと見てくれた。
クロウは娘の背中を優しく撫でた。
「……大きくなったな、ミア」
「……うん……!」
「……よく頑張ったな」
「……うん……!」
「……会えて、よかった」
ミアは父の胸に顔を埋めた。
「……おかえりなさい、お父さん……!」
◇
どれくらい、そうしていただろう。
ミアは父の胸に顔を埋めたまま、なかなか離れようとしなかった。
クロウも、何も言わなかった。
ただ、小さな背中を撫で続けた。
七年前は、両腕にすっぽり収まっていた娘だった。
今は、こんなにも大きくなっている。
その事実が、嬉しくて。
同じくらい、寂しかった。
「……お父さん」
「……ん?」
「……本当に、お父さんなんだよね」
「……ああ」
「……夢じゃないよね」
クロウは少し笑った。
「……夢だったら、こんなに泣かせないさ」
「……もう……」
ミアは涙を拭いながら笑った。
「……お父さん、昔もそうやって意地悪なこと言ってた」
「……そうだったか?」
「……うん。私が転んで泣いたときも、『地面と喧嘩して負けたのか』って」
「……ははっ」
クロウは思わず笑った。
「……言いそうだな、俺」
「……言ったの!」
二人は顔を見合わせて笑った。
ミアは、ふと真剣な顔になった。
「……ねえ、お父さん」
「……なんだ?」
「……私ね、ずっと聞きたいことがあったの」
クロウは娘を見つめた。
「……ああ」
「……あの日、どうして帰ってこなかったの?」
クロウは息を呑んだ。
ミアは俯いた。
「……小さかったから、よく分からなかったの。お母さんが泣いてて、レイモンドお父さんも泣いてて……」
声が震えた。
「……でも、ずっと待ってた」
クロウは黙って聞いていた。
「……夕方になると、いつも玄関を見てた。お父さんが帰ってくる気がして……」
ミアは小さく笑おうとした。
「……何日も、何日も……」
クロウは娘の手を握った。
「……ごめんな」
それしか言えなかった。
「……帰るって、約束したのにな」
ミアは首を振った。
「……今は、分かってるよ。お父さんが悪いわけじゃないって」
「……ああ」
「……でも、あのときは、寂しかった」
クロウは頷いた。
「……そうだよな」
ミアは父の顔を見た。
「……お父さんは、怖くなかった?」
クロウは少し考えた。
七年前の暗闇。
崩れ落ちる岩。
最後に思い浮かんだ家族の顔。
「……怖かったよ」
正直に答えた。
「……もう、お前に会えないかもしれないと思った」
ミアの目に涙が浮かんだ。
「……お母さんにも、会いたかった」
クロウは微笑んだ。
「……でも、レイモンドだけは助けたかったんだ」
「……レイモンドお父さんを?」
「……ああ。あいつは、俺の大事な友達だったからな」
ミアは静かに頷いた。
「……そうだったんだ」
クロウは窓の外を見た。
「……あいつ、ちゃんと約束を守ってくれたんだな」
「……約束?」
「……いや」
クロウは首を振った。
「……俺がいなくなったあとも、お前たちのそばにいてくれた」
ミアは微笑んだ。
「……うん」
「……いい父親だろ」
「……うん。すごく」
ミアは少し考えてから、続けた。
「……でもね、お父さん」
「……なんだ?」
「……私、レイモンドお父さんが大好きになったとき、ちょっとだけ怖かったの」
クロウは娘を見た。
「……どうして?」
「……アランお父さんのこと、忘れちゃう気がして」
ミアは絵を胸に抱いた。
「……お母さんが笑うようになって、レイモンドお父さんと三人で出かけるようになって……」
少し俯く。
「……楽しいって思うたびに、お父さんに悪いことしてるみたいだった」
クロウは胸が締めつけられた。
自分がいなくなったあとも、この子はそんなことを考えていたのか。
「……ミア」
「……うん」
「……悪いことなんか、一つもない」
クロウは娘の頭を撫でた。
「……お前が笑ってくれるなら、それが一番嬉しい」
「……本当に?」
「……ああ」
クロウは笑った。
「……父親が二人いたって、いいだろ」
ミアは目を丸くした。
そして、涙をこぼしながら笑った。
「……うん……!」
「……俺のことを忘れたって、構わない」
「……それは嫌!」
ミアが即座に言った。
クロウは少し驚き、それから笑った。
「……そうか」
「……絶対、忘れないもん」
「……分かった、分かった」
クロウは優しく頷いた。
「……じゃあ、たまには思い出してくれ」
ミアは何度も頷いた。
◇
やがて、隣の部屋から笑い声が聞こえた。
レイモンドの声だった。
エレナが何かを言い返している。
ミアは扉の方を見た。
「……お母さん、怒ってる」
「……あいつ、また何かやったのか?」
「……きっと怪我のことだよ」
クロウは苦笑した。
「……あいつらしいな」
ミアも笑った。
「……ねえ、お父さん」
「……ん?」
「……私ね、元気になったら、また絵を描きたいの」
「……ああ」
「……今度は、もっと大きな紙に描くの」
「……何を?」
ミアは嬉しそうに笑った。
「……家族みんな」
クロウは少女を見つめた。
「……みんな?」
「……うん。お母さんと、レイモンドお父さんと、私と……」
ミアは少し照れくさそうに続けた。
「……アランお父さんも」
クロウは何も言えなかった。
ミアは笑った。
「……四人で、並んでる絵」
クロウは目を細めた。
「……そりゃ、賑やかそうだな」
「……うん!」
ミアは絵を胸に抱いた。
「……だって、みんな私の大切な家族だもん」
その言葉を聞いたとき。
クロウは、ようやく気づいた。
自分がいなくなったことで、娘の幸せが失われたのではない。
娘は、寂しさを抱えながらも、誰かを愛し、誰かに愛されてきた。
レイモンドがいた。
エレナがいた。
そして今、ミアはこれからの人生を楽しみにしている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……ミア」
「……なあに?」
「……いい子に育ったな」
ミアは照れたように笑った。
「……お母さんと、レイモンドお父さんのおかげだよ」
「……そうだな」
クロウは頷いた。
「……二人に、感謝しないとな」
そのとき。
胸の奥に、長い間引っかかっていた何かが、静かにほどけた。
帰れなかった後悔。
守れなかったと思い続けた家族。
見届けられなかった娘の成長。
すべてが、目の前にあった。
クロウは、自分の指先がわずかに透けていることに気づいた。
不思議と、怖くはなかった。
むしろ、長い旅を終えたような気がした。
「……そっか」
小さく呟く。
ミアが顔を上げた。
「……お父さん?」
クロウは娘を見つめた。
そして、穏やかに笑った。
「……俺、やっと帰ってこられたんだな」
ミアは不思議そうに首を傾げた。
クロウは、もう一度その頭を撫でた。
◇
ミアは、父の指先が薄くなっていることに気づいた。
「……お父さん……?」
クロウは自分の手を見た。
指先から、淡い光がこぼれている。
「……ああ」
クロウは静かに頷いた。
「……そろそろ、行かないとな」
ミアの顔が強張った。
「……どこに……?」
「……俺にも、分からない」
クロウは微笑んだ。
「……でも、もう大丈夫だ」
ミアは首を振った。
「……やだ……」
クロウの服を掴む。
「……せっかく、会えたのに……」
クロウは娘の頭を撫でた。
「……ごめんな」
「……また、いなくなっちゃうの……?」
ミアの声が震えた。
クロウはすぐには答えなかった。
自分も、まだ離れたくなかった。
七年間の空白を埋めるには、あまりにも短い時間だった。
それでも。
「……ミア」
「……うん……」
「……俺は、もう後悔してない」
少女が顔を上げる。
「……お前が、こんなに大きくなって」
クロウは微笑んだ。
「……笑って、泣いて、誰かを大切にできる子に育ってくれた」
ミアの頬を涙が伝った。
「……それを見られただけで、十分だ」
「……でも……」
「……それに」
クロウは少女の手を握った。
「……お前には、まだ明日がある」
ミアは小さく頷いた。
「……うん……」
「……明後日も、その先も」
「……うん……」
「……俺が見られなかった景色を、いっぱい見てこい」
ミアは涙を拭った。
「……お父さんにも、見せたかった……」
「……ああ」
クロウは少し笑った。
「……俺も、見たかったよ」
そして、娘の頭を撫でた。
「……でも、お前が楽しんでくれたら、それでいい」
ミアはしばらく俯いていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……私、これからもお父さんの絵、描いていい?」
「……もちろん」
「……お父さんのこと、いっぱい話してもいい?」
「……ああ」
「……レイモンドお父さんにも?」
クロウは笑った。
「……あいつには、少しくらい格好よく話してくれよ」
ミアは涙をこぼしながら笑った。
「……うん……!」
クロウの身体は、少しずつ光に溶けていった。
それでも、二人は最後まで手を離さなかった。
◇
クロウは、娘の顔を見つめた。
七年前。
小さな家の玄関で、娘が笑って手を振っていた。
『お父さん、いってらっしゃい!』
あの日、自分は帰れなかった。
ずっと、そのことが心残りだった。
けれど今は違う。
娘は生きている。
大切な人たちに囲まれて、これからも笑っていける。
クロウは穏やかに微笑んだ。
「……ミア」
「……うん……」
「……ありがとう」
ミアは首を振った。
「……私の方こそ……」
クロウは最後に、娘の顔を見つめた。
「……いってきます」
ミアの目から、また涙がこぼれた。
けれど、今度は引き止めなかった。
七年前。
帰ってこなかった父を、ずっと待っていた。
もう一度会えたなら、絶対に離さないと思っていた。
でも、今は違う。
父は、ちゃんと帰ってきてくれた。
七年もかけて、自分のところへ。
だから今度は、安心して送り出してあげたい。
ミアは涙を拭い、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「……いってらっしゃい、お父さん」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
少しでも心に残る作品になっていましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
他にも切なく心に残るような短編作品を書いていますので、よろしければそちらも読んでいただけると嬉しいです。




