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7/7

7日目:いってらっしゃい


 七日目の朝。


 ミアは、まだ眠っていた。


 窓の外では、小鳥が鳴いている。


 いつもと変わらない朝だった。


 ただ、ベッドのそばに座るクロウだけが、その朝の意味を知っていた。


 今日が、最後の日だ。


「……ミア」


 少女の手を握る。


 返事はない。


「……朝だぞ」


 昨日も同じことを言った。


 その前の日も。


 けれど今日は、どうしても返事が欲しかった。


「……おい。起きろよ」


 ミアは眠り続けていた。


 クロウは少女の顔を見つめた。


 七日前。


 この部屋で初めて出会ったとき、少女は自分の余命を告げられても笑っていた。


『七日間、よろしくね』


 そう言って、手を差し出してきた。


 あのときは、変わった子供だと思った。


 死神に向かって笑いかける人間など、滅多にいなかったからだ。


 それが今では。


 その笑顔を、もう一度見たいと思っている。


     ◇


 昼前。


 エレナは窓際に立っていた。


 昨夜から、ほとんど眠っていない。


 レイモンドは、まだ帰ってこなかった。


 何度も外を確かめては、娘の寝顔を見る。


「……お願い……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「……二人とも、帰ってきて……」


 そのとき。


 玄関の扉を叩く音がした。


 エレナは顔を上げた。


「……レイモンド?」


 慌てて廊下を走る。


 扉を開けると、そこには泥だらけの男が立っていた。


「……ただいま」


 レイモンドだった。


 顔には擦り傷があり、右脚を引きずっている。


 服は破れ、片手で壁に身体を支えていた。


「……あなた……!」


 エレナは駆け寄った。


「……その脚……!」


「……ちょっと転んだだけだ」


「……嘘ばっかり……!」


 エレナの声が震えた。


 レイモンドは苦笑した。


「……怒るのは、あとにしてくれ」


 懐から、小さな布包みを取り出す。


「……見つけたぞ」


 布を開くと、白い花をつけた薬草があった。


「……これ……」


「……ああ」


 レイモンドは頷いた。


「……ミアは?」


 エレナは涙を拭った。


「……まだ、眠ってる」


「……そうか」


 レイモンドは大きく息を吐いた。


「……じゃあ、急ごう」


     ◇


 医師が呼ばれた。


 薬草を確認すると、すぐに処置の準備が始まった。


 古い文献に記された方法に従い、薬草を煎じて薬を作る。


 ただし、効果があるかどうかは分からない。


 エレナはミアの手を握っていた。


 レイモンドは椅子に腰を下ろし、痛む脚を押さえている。


 クロウはベッドの反対側に立っていた。


 医師が少量ずつ薬を飲ませる。


 ミアは目を閉じたままだった。


 しばらくして、医師が呼吸と脈を確かめた。


「……あとは、身体がどう反応するかです」


 エレナが尋ねた。


「……いつ、目を覚ますんでしょうか」


「……分かりません」


 医師は静かに答えた。


「今は、待つしかありません」


 レイモンドは俯いた。


 エレナは娘の手を握り直した。


 クロウも、そっとその手に触れた。


 少女の手は、まだ温かかった。


     ◇


 時間だけが過ぎていった。


 窓から差し込む光が、少しずつ傾いていく。


 エレナは何度も娘の名前を呼んだ。


 レイモンドは、もう冗談を言わなかった。


 ただ、じっとミアを見つめていた。


 クロウも同じだった。


 いつもなら、死を迎える人間のそばで、その時を静かに待つ。


 それが死神の役目だった。


 けれど今は、何も起きないことが恐ろしかった。


 クロウは少女の手を握った。


「……ミア」


 返事はない。


「……お前、昨日言っただろ」


 少女の顔を見つめる。


「……父親が帰ってきたら、おかえりって言うんだろ」


 クロウは小さく息を吐いた。


「……帰ってきたぞ」


 ミアのまぶたは動かない。


「……あんな怪我までしてな」


 レイモンドは、ベッドの向こう側で娘の顔を見つめていた。


「……だから」


 クロウは少女の手を握り直した。


「……頼むから、起きてくれ」


 そのとき。


 指先が、かすかに動いた。


「……?」


 クロウは顔を上げた。


 もう一度、少女の指が動く。


「……ミア?」


 エレナが息を呑んだ。


「……今、動いた……?」


 医師がすぐに近づいた。


 ミアのまぶたが、ゆっくりと開いた。


「……ん……」


「……ミア!」


 エレナが叫んだ。


 少女はぼんやりと天井を見つめた。


「……お母さん……?」


「……そうよ……!」


 エレナの頬を涙が伝った。


「……お母さんよ……!」


 ミアはゆっくりと顔を動かした。


「……お父さん……?」


 レイモンドが椅子から立ち上がろうとした。


 だが、脚の痛みに顔を歪める。


「……おう……!」


 それでも笑った。


「……ただいま、ミア」


 ミアの目に涙が浮かんだ。


「……おかえり……お父さん……」


 レイモンドは顔をくしゃくしゃにした。


「……ああ……!」


 そのまま娘の手を握る。


「……ちゃんと、帰ってきたぞ……!」


 エレナは二人を抱きしめた。


 三人とも、泣いていた。


 医師はミアの様子を確かめ、静かに頷いた。


「……薬が効き始めているようです」


 エレナが顔を上げた。


「……助かるんですか……?」


「……まだ経過を見る必要がありますが、少なくとも、先ほどまでとは明らかに違います」


 医師は微笑んだ。


「……回復の兆しがあります」


 エレナは声を上げて泣いた。


 レイモンドも、もう涙を隠さなかった。


 クロウは三人を見つめていた。


 そして、小さく息を吐いた。


「……よかったな、ミア」


     ◇


 夕方。


 医師は、ミアの状態が落ち着いたことを確認して帰っていった。


 エレナはレイモンドの脚の手当てをするため、隣の部屋にいた。


 ミアはベッドに横になっていた。


 まだ身体は弱っていたが、目を開けていられるようになっていた。


 クロウは窓際に立っていた。


「……クロウさん」


「……なんだ」


「……お父さん、帰ってきたね」


「……ああ」


「……約束、守ってくれた」


「……そうだな」


 ミアは小さく笑った。


「……クロウさんも」


「……俺?」


「……一緒に待ってくれたでしょ」


 クロウは少女を見た。


「……ああ」


「……ありがとう」


「……礼は、もう聞いた」


「……何回言ってもいいでしょ?」


「……好きにしろ」


 ミアはくすくすと笑った。


 その笑い声を聞いて、クロウも少しだけ笑った。


 しばらく、二人は何も言わなかった。


 窓の外では、夕日が街を照らしていた。


「……ねえ、クロウさん」


「……なんだ」


「……私、もう大丈夫なのかな」


 クロウは少女を見つめた。


 死神には、命の終わりが分かる。


 七日前、ミアの命は今日で終わるはずだった。


 だが、今は違った。


 目の前の少女から、死の気配が遠ざかっていた。


「……ああ」


 クロウは頷いた。


「……もう、俺の出番はなさそうだ」


 ミアは少し考えた。


「……それって」


「……お前は、生きられるってことだ」


 少女の顔が明るくなった。


「……本当に?」


「……ああ」


 ミアは両手で口元を覆った。


 目に涙が浮かぶ。


「……そっか……」


 小さく息を吐く。


「……私、生きられるんだ……」


 クロウは黙って頷いた。


 ミアはしばらく泣いていた。


 けれど、それは昨日までの涙とは違っていた。


     ◇


「……じゃあ、クロウさんは?」


 ミアが尋ねた。


 クロウは少しだけ目を伏せた。


「……俺は、もう行かないとな」


「……そっか」


 少女の声が小さくなった。


「……もう、会えないの?」


「……たぶんな」


「……そうなんだ……」


 ミアは毛布を握った。


 クロウはベッドのそばへ歩み寄った。


「……お前、まだやりたいことがあるんだろ」


「……うん」


「……母親と市場に行くんだったな」


「……うん」


「……父親と散歩も」


「……うん」


「……絵も、もっと描くんだろ」


 ミアは涙を拭った。


「……覚えててくれたんだ」


「……散々聞かされたからな」


 ミアは笑った。


「……クロウさん、最後まで意地悪」


「……お互い様だろ」


 クロウは小さく笑った。


 ミアも笑った。


 しばらくして、少女が口を開いた。


「……私ね」


「……ああ」


「……クロウさんが来た日、本当はすごく怖かったの」


 クロウは黙って聞いていた。


「……あと七日って言われて……でも、怖いって言ったら、本当になっちゃいそうで」


 ミアは膝の上で手を重ねた。


「……だから、笑ったの」


「……そうだったのか」


「……うん」


 少女は顔を上げた。


「……でも、クロウさんが普通に話してくれたから、少しずつ怖くなくなった」


「……俺は、特に何もしてないぞ」


「……してくれたよ」


 ミアは首を振った。


「……私が眠れないとき、手を握ってくれた」


「……ああ」


「……泣いたときも、そばにいてくれた」


「……ああ」


「……怖いって言っても、笑わなかった」


 クロウは何も言わなかった。


「……だからね」


 ミアは微笑んだ。


「……クロウさんが来てくれて、よかった」


 クロウは少女を見つめた。


 死神が来てよかった。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


「……変なこと言うな」


 クロウはそう答えた。


 だが、その声は少しだけ掠れていた。


     ◇


「……そうだ」


 ミアが何かを思い出したように言った。


「……クロウさんにも、見せたいものがあるの」


「……なんだ」


「……あのね、三日目に絵を描いたでしょ?」


「……ああ。お前の家族の絵だろ」


「……うん。でも、もう一枚描いてたの」


 ミアは枕の下に手を伸ばした。


 そこから、一枚の紙を取り出す。


「……これは、誰にも見せてなかったんだけど」


 少し恥ずかしそうに笑った。


「……最後だから、クロウさんにも見せるね」


 クロウは紙を覗き込んだ。


 そこには、三人の人物が描かれていた。


 若い女性。


 小さな女の子。


 そして、黒髪の男。


「……これは?」


「……私の、大切な家族」


 ミアは絵を見つめた。


「……小さい頃の、私たちなの」


 クロウは男の顔を見た。


 不思議なことに、目が離せなかった。


「……この男は?」


 ミアは少しだけ寂しそうに笑った。


「……私の、本当のお父さん」


 クロウは黙った。


「……七年前に、亡くなったの」


 少女は絵の中の男を指でなぞった。


「……名前は、アラン」


 その瞬間。


 クロウの中で、何かが弾けた。


     ◇


 暗闇。


 轟音。


 崩れ落ちる岩。


『走れ!』


 自分の声だった。


『お前はどうする!』


 レイモンドの声。


『いいから行け!』


 背中を強く押す。


 親友が地面に転がる。


 その向こうで、岩が崩れ落ちてきた。


『……頼んだぞ』


 それが、自分の最後の言葉だった。


     ◇


 次に浮かんだのは、暖かな朝の光だった。


 小さな家。


 焼きたてのパンの匂い。


 台所に立つ妻のエレナ。


 そして、足元を走り回る小さな女の子。


『お父さん!』


 幼いミアが、勢いよく飛びついてくる。


『おっと、危ないだろ』


『えへへ』


 抱き上げると、ミアは嬉しそうに笑った。


『お父さん、今日は早く帰ってくる?』


『ああ。早く帰れたら、一緒に絵を描こうな』


『ほんと?』


『約束だ』


 小さな指が差し出される。


 指切りをした。


 その日の夕方。


 自分は帰らなかった。


     ◇


「……クロウさん?」


 ミアの声がした。


 クロウはゆっくりと顔を上げた。


 目の前にいる少女。


 栗色の髪。


 琥珀色の瞳。


 あの日、玄関で手を振っていた小さな娘。


「……ミア……」


 声が震えた。


 七年という時間が、目の前にあった。


「……大きく、なったな……」


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


「……クロウさん?」


 クロウは震える手を伸ばした。


 そして、少女の頭をそっと撫でた。


「……ただいま」


 ミアは目を見開いた。


「……え……?」


「……遅くなって、ごめんな」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ミアの胸に、遠い記憶が蘇った。


     ◇


 まだ、自分が小さかった頃。


 夕暮れの部屋で、父の帰りを待っていた。


 玄関の扉が開くと、いつも真っ先に駆け出した。


『お父さん!』


 父は決まって、膝をついて両手を広げた。


『ただいま、ミア』


 抱きつくと、仕事帰りの父からは土と石の匂いがした。


『今日もお仕事、頑張った?』


『ああ。ミアに会うために頑張ってきた』


『じゃあ、いっぱい褒めてあげる!』


『そりゃありがたいな』


 父は笑って、自分を高く抱き上げてくれた。


 怖いくらい高かったのに、不思議と落ちる気はしなかった。


     ◇


 別の日。


 夜中に怖い夢を見て、泣きながら父の寝床へ行ったことがあった。


『……お父さん、怖い夢見た……』


 父は眠そうな顔で起き上がり、自分を隣に寝かせてくれた。


『……そっか。怖かったな』


『……また見たらどうしよう……』


 父は小さな手を握った。


『……怖いものは全部、夢の中に置いてこい』


『……できるかな……』


『……大丈夫。父さんがここにいる』


 そう言って、眠るまでずっと手を握ってくれた。


     ◇


 ミアは、はっと顔を上げた。


 七日前から、そばにいてくれた死神。


 怖い夢を見た夜、手を握ってくれた人。


 泣いてもいいと言ってくれた人。


 そして、昨日まで自分を見守ってくれた人。


 その人が、今。


 昔と同じように、自分の頭を撫でていた。


「……あ……」


 ミアの唇が震えた。


「……あの言葉……」


 クロウは黙っていた。


「……怖いものは、全部……夢の中に置いてこいって……」


 クロウの目にも涙が浮かんだ。


「……お父さんが、言ってた……」


 ミアは、目の前の男を見つめた。


 髪の色も、瞳の色も、覚えている父とは違う。


 声だって、同じではない。


 それでも。


 あの手の温かさだけは、忘れていなかった。


「……お父……さん……?」


 クロウはゆっくりと頷いた。


「……ああ」


 涙が頬を伝った。


「……ただいま、ミア」


 ミアは泣きながら、クロウに抱きついた。


「……おかえりなさい……!」


 クロウは娘を抱きしめた。


「……遅くなって、ごめんな……」


「……ううん……!」


 ミアは首を振った。


「……ずっと、会いたかった……!」


「……俺もだ……」


「……お父さんに、いっぱい話したいことがあったの……!」


「……ああ……」


「……絵も、見せたかった……!」


「……見たよ」


 クロウは笑った。


「……上手になったな」


 ミアは声を上げて泣いた。


 七年前に交わした約束。


 一緒に絵を描こうと言った父親は、あの日帰ってこなかった。


 けれど今。


 娘が描いた絵を、ちゃんと見てくれた。


 クロウは娘の背中を優しく撫でた。


「……大きくなったな、ミア」


「……うん……!」


「……よく頑張ったな」


「……うん……!」


「……会えて、よかった」


 ミアは父の胸に顔を埋めた。


「……おかえりなさい、お父さん……!」


     ◇


 どれくらい、そうしていただろう。


 ミアは父の胸に顔を埋めたまま、なかなか離れようとしなかった。


 クロウも、何も言わなかった。


 ただ、小さな背中を撫で続けた。


 七年前は、両腕にすっぽり収まっていた娘だった。


 今は、こんなにも大きくなっている。


 その事実が、嬉しくて。


 同じくらい、寂しかった。


「……お父さん」


「……ん?」


「……本当に、お父さんなんだよね」


「……ああ」


「……夢じゃないよね」


 クロウは少し笑った。


「……夢だったら、こんなに泣かせないさ」


「……もう……」


 ミアは涙を拭いながら笑った。


「……お父さん、昔もそうやって意地悪なこと言ってた」


「……そうだったか?」


「……うん。私が転んで泣いたときも、『地面と喧嘩して負けたのか』って」


「……ははっ」


 クロウは思わず笑った。


「……言いそうだな、俺」


「……言ったの!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 ミアは、ふと真剣な顔になった。


「……ねえ、お父さん」


「……なんだ?」


「……私ね、ずっと聞きたいことがあったの」


 クロウは娘を見つめた。


「……ああ」


「……あの日、どうして帰ってこなかったの?」


 クロウは息を呑んだ。


 ミアは俯いた。


「……小さかったから、よく分からなかったの。お母さんが泣いてて、レイモンドお父さんも泣いてて……」


 声が震えた。


「……でも、ずっと待ってた」


 クロウは黙って聞いていた。


「……夕方になると、いつも玄関を見てた。お父さんが帰ってくる気がして……」


 ミアは小さく笑おうとした。


「……何日も、何日も……」


 クロウは娘の手を握った。


「……ごめんな」


 それしか言えなかった。


「……帰るって、約束したのにな」


 ミアは首を振った。


「……今は、分かってるよ。お父さんが悪いわけじゃないって」


「……ああ」


「……でも、あのときは、寂しかった」


 クロウは頷いた。


「……そうだよな」


 ミアは父の顔を見た。


「……お父さんは、怖くなかった?」


 クロウは少し考えた。


 七年前の暗闇。


 崩れ落ちる岩。


 最後に思い浮かんだ家族の顔。


「……怖かったよ」


 正直に答えた。


「……もう、お前に会えないかもしれないと思った」


 ミアの目に涙が浮かんだ。


「……お母さんにも、会いたかった」


 クロウは微笑んだ。


「……でも、レイモンドだけは助けたかったんだ」


「……レイモンドお父さんを?」


「……ああ。あいつは、俺の大事な友達だったからな」


 ミアは静かに頷いた。


「……そうだったんだ」


 クロウは窓の外を見た。


「……あいつ、ちゃんと約束を守ってくれたんだな」


「……約束?」


「……いや」


 クロウは首を振った。


「……俺がいなくなったあとも、お前たちのそばにいてくれた」


 ミアは微笑んだ。


「……うん」


「……いい父親だろ」


「……うん。すごく」


 ミアは少し考えてから、続けた。


「……でもね、お父さん」


「……なんだ?」


「……私、レイモンドお父さんが大好きになったとき、ちょっとだけ怖かったの」


 クロウは娘を見た。


「……どうして?」


「……アランお父さんのこと、忘れちゃう気がして」


 ミアは絵を胸に抱いた。


「……お母さんが笑うようになって、レイモンドお父さんと三人で出かけるようになって……」


 少し俯く。


「……楽しいって思うたびに、お父さんに悪いことしてるみたいだった」


 クロウは胸が締めつけられた。


 自分がいなくなったあとも、この子はそんなことを考えていたのか。


「……ミア」


「……うん」


「……悪いことなんか、一つもない」


 クロウは娘の頭を撫でた。


「……お前が笑ってくれるなら、それが一番嬉しい」


「……本当に?」


「……ああ」


 クロウは笑った。


「……父親が二人いたって、いいだろ」


 ミアは目を丸くした。


 そして、涙をこぼしながら笑った。


「……うん……!」


「……俺のことを忘れたって、構わない」


「……それは嫌!」


 ミアが即座に言った。


 クロウは少し驚き、それから笑った。


「……そうか」


「……絶対、忘れないもん」


「……分かった、分かった」


 クロウは優しく頷いた。


「……じゃあ、たまには思い出してくれ」


 ミアは何度も頷いた。


     ◇


 やがて、隣の部屋から笑い声が聞こえた。


 レイモンドの声だった。


 エレナが何かを言い返している。


 ミアは扉の方を見た。


「……お母さん、怒ってる」


「……あいつ、また何かやったのか?」


「……きっと怪我のことだよ」


 クロウは苦笑した。


「……あいつらしいな」


 ミアも笑った。


「……ねえ、お父さん」


「……ん?」


「……私ね、元気になったら、また絵を描きたいの」


「……ああ」


「……今度は、もっと大きな紙に描くの」


「……何を?」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「……家族みんな」


 クロウは少女を見つめた。


「……みんな?」


「……うん。お母さんと、レイモンドお父さんと、私と……」


 ミアは少し照れくさそうに続けた。


「……アランお父さんも」


 クロウは何も言えなかった。


 ミアは笑った。


「……四人で、並んでる絵」


 クロウは目を細めた。


「……そりゃ、賑やかそうだな」


「……うん!」


 ミアは絵を胸に抱いた。


「……だって、みんな私の大切な家族だもん」


 その言葉を聞いたとき。


 クロウは、ようやく気づいた。


 自分がいなくなったことで、娘の幸せが失われたのではない。


 娘は、寂しさを抱えながらも、誰かを愛し、誰かに愛されてきた。


 レイモンドがいた。


 エレナがいた。


 そして今、ミアはこれからの人生を楽しみにしている。


 それが、たまらなく嬉しかった。


「……ミア」


「……なあに?」


「……いい子に育ったな」


 ミアは照れたように笑った。


「……お母さんと、レイモンドお父さんのおかげだよ」


「……そうだな」


 クロウは頷いた。


「……二人に、感謝しないとな」


 そのとき。


 胸の奥に、長い間引っかかっていた何かが、静かにほどけた。


 帰れなかった後悔。


 守れなかったと思い続けた家族。


 見届けられなかった娘の成長。


 すべてが、目の前にあった。


 クロウは、自分の指先がわずかに透けていることに気づいた。


 不思議と、怖くはなかった。


 むしろ、長い旅を終えたような気がした。


「……そっか」


 小さく呟く。


 ミアが顔を上げた。


「……お父さん?」


 クロウは娘を見つめた。


 そして、穏やかに笑った。


「……俺、やっと帰ってこられたんだな」


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


 クロウは、もう一度その頭を撫でた。


     ◇


 ミアは、父の指先が薄くなっていることに気づいた。


「……お父さん……?」


 クロウは自分の手を見た。


 指先から、淡い光がこぼれている。


「……ああ」


 クロウは静かに頷いた。


「……そろそろ、行かないとな」


 ミアの顔が強張った。


「……どこに……?」


「……俺にも、分からない」


 クロウは微笑んだ。


「……でも、もう大丈夫だ」


 ミアは首を振った。


「……やだ……」


 クロウの服を掴む。


「……せっかく、会えたのに……」


 クロウは娘の頭を撫でた。


「……ごめんな」


「……また、いなくなっちゃうの……?」


 ミアの声が震えた。


 クロウはすぐには答えなかった。


 自分も、まだ離れたくなかった。


 七年間の空白を埋めるには、あまりにも短い時間だった。


 それでも。


「……ミア」


「……うん……」


「……俺は、もう後悔してない」


 少女が顔を上げる。


「……お前が、こんなに大きくなって」


 クロウは微笑んだ。


「……笑って、泣いて、誰かを大切にできる子に育ってくれた」


 ミアの頬を涙が伝った。


「……それを見られただけで、十分だ」


「……でも……」


「……それに」


 クロウは少女の手を握った。


「……お前には、まだ明日がある」


 ミアは小さく頷いた。


「……うん……」


「……明後日も、その先も」


「……うん……」


「……俺が見られなかった景色を、いっぱい見てこい」


 ミアは涙を拭った。


「……お父さんにも、見せたかった……」


「……ああ」


 クロウは少し笑った。


「……俺も、見たかったよ」


 そして、娘の頭を撫でた。


「……でも、お前が楽しんでくれたら、それでいい」


 ミアはしばらく俯いていた。


 やがて、ぽつりと言った。


「……私、これからもお父さんの絵、描いていい?」


「……もちろん」


「……お父さんのこと、いっぱい話してもいい?」


「……ああ」


「……レイモンドお父さんにも?」


 クロウは笑った。


「……あいつには、少しくらい格好よく話してくれよ」


 ミアは涙をこぼしながら笑った。


「……うん……!」


 クロウの身体は、少しずつ光に溶けていった。


 それでも、二人は最後まで手を離さなかった。


     ◇


 クロウは、娘の顔を見つめた。


 七年前。


 小さな家の玄関で、娘が笑って手を振っていた。


『お父さん、いってらっしゃい!』


 あの日、自分は帰れなかった。


 ずっと、そのことが心残りだった。


 けれど今は違う。


 娘は生きている。


 大切な人たちに囲まれて、これからも笑っていける。


 クロウは穏やかに微笑んだ。


「……ミア」


「……うん……」


「……ありがとう」


 ミアは首を振った。


「……私の方こそ……」


 クロウは最後に、娘の顔を見つめた。


「……いってきます」


 ミアの目から、また涙がこぼれた。


 けれど、今度は引き止めなかった。


 七年前。


 帰ってこなかった父を、ずっと待っていた。


 もう一度会えたなら、絶対に離さないと思っていた。


 でも、今は違う。


 父は、ちゃんと帰ってきてくれた。


 七年もかけて、自分のところへ。


 だから今度は、安心して送り出してあげたい。


 ミアは涙を拭い、精いっぱいの笑顔を浮かべた。


「……いってらっしゃい、お父さん」



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


少しでも心に残る作品になっていましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


他にも切なく心に残るような短編作品を書いていますので、よろしければそちらも読んでいただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
作者殿 71歳のワシを泣かせるとは、あんたは天才じゃ。 特に五日目の内容は、ティッシュペーパーを何枚使ったか、、、いつの間にかクズ箱が山になっておった。 ワシも物書の端くれじゃが、あんたには敵わぬよ。…
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