5日目:もっと生きたい
五日目の朝。
ミアは、なかなか目を覚まさなかった。
窓から差し込む朝日が、ベッドの上を照らしている。
エレナは娘の髪を撫でながら、何度も優しく名前を呼んだ。
「ミア。朝よ」
返事はない。
「……ミア?」
頬に触れる。
温かい。
呼吸もしている。
それでも、目を開けない。
エレナの表情が、少しずつ強張っていった。
「……お願い、起きて……」
クロウは窓際から、その様子を見ていた。
エレナの手が震えている。
少女の名を呼ぶ声も、先ほどより小さくなっていた。
クロウはベッドへ近づいた。
「……ミア」
声をかける。
返事はない。
いつもなら、こちらが何も言わなくても話しかけてくる少女だった。
おはよう、と。
今日は何をしようか、と。
くだらないことを、楽しそうに。
クロウは少女の顔を見つめた。
「……おい」
そのとき。
「……ん……」
小さな声が聞こえた。
ミアのまぶたが、ゆっくりと開く。
「……お母さん……?」
エレナが息を呑んだ。
「ミア……!」
「……どうしたの……?」
「……ううん。何でもないの」
エレナは慌てて笑顔を作った。
「おはよう」
「……おはよう……」
ミアも笑った。
エレナは娘の頬に触れたまま、しばらく動かなかった。
クロウには、その手がまだ震えているのが見えた。
◇
昼過ぎ。
エレナがスープを持ってきた。
「今日は少しだけでも食べられそう?」
「……うん。お母さんのスープ、好きだもん」
「ふふっ。ありがとう」
エレナは椅子に座り、スプーンでスープをすくった。
ミアはゆっくりと口を開けた。
一口。
もう一口。
だが、三口目で首を振った。
「……ごめん。もう、お腹いっぱい……」
「そう……」
エレナは微笑んだ。
「じゃあ、残りはあとでね」
「……うん」
ミアは申し訳なさそうに笑った。
「……せっかく作ってくれたのに」
「いいのよ。食べられるときに食べれば」
エレナは器を持って立ち上がった。
扉の前で、一度だけ振り返る。
「……またあとで来るわね」
「うん」
扉が閉まった。
クロウはしばらくその扉を見つめていた。
「……クロウさん?」
「……なんだ」
「……お母さん、元気なかったね」
「……そうだな」
ミアは毛布を見つめた。
「……私、ちゃんと食べられなくて」
「お前のせいじゃない」
クロウはすぐに答えた。
ミアが顔を上げる。
「……でも」
「食べられないものは仕方ないだろう」
「……うん」
クロウは少し考えた。
「……あの人は、お前が食べなかったことを怒ってるんじゃない」
「……分かってるよ」
ミアは小さく笑った。
「……心配してるんだよね」
「ああ」
「……だから、余計に困っちゃう」
クロウは少女を見た。
「……何がだ」
「……お母さんが悲しそうにすると、私も悲しくなっちゃうから」
ミアは天井を見上げた。
「……でも、私まで泣いたら、お母さんもっと泣いちゃうでしょ?」
クロウは答えられなかった。
ミアは、まだ十二歳だった。
それなのに、自分の死を恐れるより先に、母親が泣くことを心配していた。
◇
エレナは台所にいた。
冷めかけたスープの器を、流しの横に置く。
ほとんど減っていなかった。
娘が小さかった頃は、何度もおかわりをせがんだ料理だった。
熱いから気をつけて、と言っても待ちきれず、舌を火傷して泣いたこともある。
あの頃は、いつまでも食べさせてあげられると思っていた。
エレナは器を見つめた。
「……どうして……」
声が漏れた。
「……どうして、あの子なの……」
両手で顔を覆う。
「……まだ、十二歳なのに……」
こらえていた涙が、指の間からこぼれた。
クロウは台所の入口に立っていた。
エレナには、彼の姿は見えない。
声も届かない。
死神として、遺される家族の涙は何度も見てきた。
死を迎える人間と七日間を過ごし、その家族が悲しむ姿を見届ける。
それは、これまで何度も繰り返してきたことだった。
けれど、今はただ見ているだけではいられなかった。
昼間、ミアは母親を悲しませたくないと言っていた。
そして今、母親は娘を失うことを恐れて泣いている。
互いを大切に思っているのに、その気持ちを伝えられずにいる。
「……まったく、不器用な親子だな」
クロウは小さく呟いた。
その声が、エレナに届くことはなかった。
◇
夕方。
レイモンドが帰ってきた。
「ただいま!」
いつもの大きな声が、家に響く。
「ミア! 父さんが帰ったぞ!」
「……おかえり……」
ミアはベッドの上で、小さく手を上げた。
「おう。今日は何してた?」
「……寝てた」
「ははっ! そりゃいい。父さんも仕事中に寝られたら最高なんだがな」
「……怒られちゃうよ」
「だろうな!」
レイモンドは笑った。
ミアもつられて笑う。
クロウは壁際から二人を見ていた。
レイモンドはいつも騒がしい。
だが、今日の笑い声は、どこか無理をしているように聞こえた。
「……そうだ」
レイモンドは懐から、小さな紙包みを取り出した。
「お前の好きな焼き菓子、買ってきたぞ」
「……ほんと?」
「ああ。前に欲しがってただろ」
包みを開くと、甘い香りが広がった。
ミアは嬉しそうに笑った。
「……ありがとう、お父さん」
「おう!」
レイモンドは菓子を一つ手渡した。
ミアは小さくかじった。
けれど、すぐに手が止まった。
「……ごめん。あとで食べる……」
「……そうか」
レイモンドは笑った。
「じゃあ、残りは取っといてやる」
「……うん」
少女が目を閉じる。
レイモンドはしばらく、その顔を見つめていた。
そして、そっと菓子を包み直した。
「……また、明日な」
小さな声だった。
ミアはもう眠っていた。
◇
レイモンドが部屋を出ると、クロウも廊下へ出た。
台所では、エレナが夕食の支度をしていた。
「……今日も、ほとんど食べられなかったの」
エレナが言った。
レイモンドは頷いた。
「……ああ。菓子も、一口だけだった」
「……そう」
エレナは俯いた。
「……私、あの子の前で笑えてたかしら」
「……笑えてたよ」
「……本当に?」
「……ああ」
レイモンドは妻の肩に手を置いた。
「……あの子も、笑ってただろ」
エレナは唇を噛んだ。
「……それが、つらいの」
レイモンドは黙った。
「……あの子、私たちを心配させないように、無理して笑ってる」
エレナの声が震えた。
「……まだ、子供なのに……」
レイモンドは何も言わなかった。
しばらくして、エレナをそっと抱き寄せた。
「……俺たちの前では、泣いてくれてもいいのにな」
エレナは夫の胸に顔を埋めた。
「……ええ……」
クロウは二人を見つめていた。
ミアが笑えば、両親も笑う。
ミアが泣けば、両親も泣く。
だから、三人とも互いを思って笑おうとしている。
クロウには、それが少し不思議だった。
そして、ひどく切なかった。
◇
夜。
ミアが目を覚ました。
部屋には、クロウだけがいた。
「……クロウさん」
「……起きたか」
「……うん」
ミアは少しだけ身体を起こそうとした。
だが、力が入らず、枕に頭を戻した。
「……ねえ」
「なんだ」
「……お母さん、泣いてた?」
クロウは少女を見た。
「……ああ」
「……そっか」
ミアは目を伏せた。
「……お父さんも?」
「……あいつは、泣いてなかった」
「……よかった」
「……ただ、お前が眠ったあとも、ずっとそばにいた」
ミアは黙った。
「……お前が残した菓子を、何度も見てた」
「……そっか……」
ミアは小さく息を吐いた。
「……私ね」
「……ああ」
「……二人には、泣いてほしくないの」
クロウは黙って聞いていた。
「……私がいなくなったら、きっと悲しむでしょ」
「……そうだろうな」
「……だから、せめて今は、いっぱい笑っててほしい」
ミアは小さく笑った。
「……変かな?」
「……いや」
クロウは首を振った。
「……優しいんだな、お前は」
ミアは少し驚いた顔をした。
「……クロウさんに褒められた」
「……悪いか」
「……ううん。嬉しい」
少女は笑った。
だが、その笑顔はすぐに消えた。
「……でもね」
ミアは毛布を握りしめた。
「……本当は、私も……」
声が震えた。
「……怖いの……」
クロウはベッドのそばへ近づいた。
「……寝るのが、怖い……」
ミアの目に涙が浮かぶ。
「……次に目を開けたとき、誰もいなかったらって……」
ぽろり、と涙がこぼれた。
「……もう、目が覚めなかったらって……」
クロウは何も言わなかった。
「……私、まだ……」
少女は必死に言葉を紡いだ。
「……まだ、やりたいことがいっぱいあるの……」
「……ああ」
「……お母さんと、また市場に行きたい……」
「……ああ」
「……お父さんと、街の外まで散歩したい……」
「……ああ」
「……もっと、絵も描きたい……」
涙が次々とこぼれた。
「……大きくなったら、何になりたいかも……まだ決めてないのに……」
ミアは顔を歪めた。
「……私、まだ十二歳なのに……」
クロウは少女の手を握った。
「……クロウさん……」
「……ああ」
「……私……もっと、生きたい……」
その声は、ひどく小さかった。
「……死にたくないよ……」
ミアは泣いた。
初めて、誰にも遠慮することなく。
クロウは、握った手に少しだけ力を込めた。
「……ミア」
「……うん……」
「……泣いていい」
少女が顔を上げた。
「……俺の前では、我慢するな」
「……でも……」
「お前の父親も母親も、お前が泣いたからって嫌いになったりしない」
「……うん……」
「……ただ、あの二人を悲しませたくないなら」
クロウは少し考えた。
「……ここでは、好きなだけ泣け」
ミアは唇を噛んだ。
「……クロウさん……」
そして、クロウの手を両手で握りしめた。
「……怖いよ……!」
「ああ」
「……まだ、死にたくない……!」
「……ああ」
クロウは少女のそばに座った。
ミアは泣き続けた。
その小さな身体が震えるたびに、クロウは握った手に少しだけ力を込めた。
しばらくして、ミアが顔を上げた。
「……クロウさんって、私が死んだら、悲しい?」
クロウはすぐには答えられなかった。
「……分からん」
「……そっか」
ミアは目を伏せた。
「……だが」
クロウは続けた。
「……お前がいなくなったら、寂しいとは思う」
ミアが顔を上げた。
「……死神さんなのに?」
「……そうだな」
少女は涙の残る顔で、少しだけ笑った。
「……変なの」
「……俺もそう思う」
ミアはもう一度、クロウの手を握った。
「……じゃあ、もう少しだけ、一緒にいて」
「……ああ」
「……眠るまで?」
「……眠ってからもだ」
ミアは目を丸くした。
「……いいの?」
「……ああ」
少女は安心したように微笑んだ。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
クロウはその手を握り続けた。
やがて、ミアの呼吸が穏やかになっていく。
眠りに落ちる直前、クロウは小さく呟いた。
「……怖いものは全部、夢の中に置いてこい」
ミアのまぶたが、わずかに動いた。
「……それ……」
「……なんだ?」
「……ううん……」
少女は薄く笑った。
「……なんだか、安心する……」
それきり、静かな寝息が聞こえ始めた。
クロウは眠るミアを見つめた。




