4日目:眠りゆく少女
その朝、ミアはなかなか目を覚まさなかった。
「……ミア?」
エレナが優しく肩を揺する。
返事はない。
「ミア、朝よ」
もう一度呼びかけると、少女のまぶたがわずかに動いた。
「……おかあ、さん……?」
「よかった……」
エレナは安堵したように息を吐いた。
「おはよう。よく眠れた?」
「……うん」
ミアは小さく頷いた。
けれど、身体を起こそうとはしなかった。
「……まだ、ねむい……」
「そう。じゃあ、もう少し休みましょうね」
エレナは笑った。
その手が、毛布の端を何度も整えていた。
クロウは窓際から二人を見つめていた。
昨日よりも、ミアの呼吸は浅い。
目を開けている時間も短くなっている。
死神として、何度も見てきた変化だった。
終わりが近づいている。
そういうことなのだろう。
だが、なぜか今日は、その事実をいつものようには受け止められなかった。
◇
昼前、医師が診察に訪れた。
白髪交じりの男は、ミアの脈を取り、胸の音を聞いたあと、静かに寝具を整えた。
「どうですか、先生?」
エレナが尋ねる。
「……昨日より、眠りが深くなっています」
「それは……」
「病の進行によるものでしょう」
医師は言葉を選ぶように続けた。
「これからは、起きていられる時間がさらに短くなるかもしれません」
エレナは何かを言いかけた。
けれど、声にならなかった。
「……そう、ですか」
ようやくそれだけを口にした。
医師は小さく頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まると、エレナはその場に立ち尽くした。
しばらくして、ミアのベッドへ戻る。
「……お母さん?」
少女が薄く目を開けた。
「なあに?」
「……先生、なんて……?」
「少し疲れているから、ゆっくり休みなさいって」
「……そっか」
ミアは小さく笑った。
「……じゃあ、今日は……お昼寝の日だね」
「……ええ」
エレナも笑った。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
◇
夕方、レイモンドが帰ってきた。
いつものように大きな声で挨拶しようとして、部屋の前で足を止めた。
扉の向こうから、ミアの寝息が聞こえていた。
レイモンドはそっと扉を開ける。
「……寝てるのか」
エレナが頷いた。
「今日は、ほとんど起きていないの」
「……そうか」
レイモンドはベッドのそばに腰を下ろした。
ミアの額に手を当てる。
「……熱は?」
「ないわ。ただ、眠りが深くなっているって」
「先生が?」
「ええ」
レイモンドは黙り込んだ。
しばらくして、ミアの髪をそっと撫でる。
「……お父さん?」
ミアが小さく呟いた。
「おう。帰ったぞ」
「……おかえり……」
「ああ。ただいま」
レイモンドは笑った。
「今日はどうだった?」
「……いっぱい、寝ちゃった……」
「そうか。寝るのも大事な仕事だ」
「……お父さんも……?」
「俺か? 俺は寝すぎると母さんに怒られる」
ミアがかすかに笑った。
レイモンドも笑う。
「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「……明日も、帰ってくる?」
レイモンドの手が止まった。
昨日も、同じことを聞かれた。
「……当たり前だろ」
彼はいつものように答えた。
「父さんは、ちゃんと帰ってくる」
「……うん」
ミアは安心したように目を閉じた。
その寝顔を見つめながら、レイモンドは長い間、動かなかった。
◇
夜。
エレナが夕食の片づけを終えると、レイモンドは家の外に出た。
冷たい風が吹いていた。
街灯の明かりが、石畳に細長い影を落としている。
レイモンドは家の壁に背を預けた。
ポケットから小さな金属片を取り出す。
古びた鉱山の作業札だった。
表面は擦り切れ、文字はほとんど読めない。
彼は親指で、その傷をなぞった。
七年前。
同じように冷たい風が吹いていた日のことを、思い出す。
暗い坑道。
軋む木の支柱。
崩れ落ちる岩。
そして、背中を強く押された感触。
『走れ!』
誰かの声が、耳の奥によみがえった。
レイモンドは目を閉じた。
あの日、自分は走った。
振り返ることもできず、ただ必死に。
地上へ出たときには、もう遅かった。
助かったのは、自分ひとりだった。
「……七年、か」
レイモンドは小さく呟いた。
作業札を握りしめる。
「……お前に助けてもらった命なのにな」
返事はない。
ただ、風が吹き抜けるだけだった。
「……俺は、何もできてない」
その言葉を口にした瞬間、家の扉が開いた。
「……あなた?」
エレナだった。
「こんなところで何してるの? 冷えるわよ」
「ああ……ちょっと、風に当たってた」
レイモンドは慌てて作業札をポケットへ戻した。
エレナは彼の顔を見つめた。
「……また、思い出してたの?」
「……ああ」
レイモンドは苦笑した。
「どうしてもな」
エレナは何も言わなかった。
ただ、彼の隣に立った。
「……あなたは、十分頑張ってるわ」
「……そうか?」
「ええ」
エレナはそっと彼の手を握った。
「ミアも、あなたが帰ってくるのを楽しみにしてる」
レイモンドは俯いた。
「……ああ」
しばらく、二人は黙っていた。
やがてレイモンドが呟く。
「……あの子を、守りたいんだ」
「……うん」
「何があっても」
エレナは握った手に力を込めた。
「……私もよ」
二人はしばらく、冷たい夜風の中に立っていた。
◇
その頃、ミアの部屋では。
クロウがベッドの傍らに立っていた。
ミアは眠っていた。
時折、小さく寝返りを打つ。
そのたびに、クロウは無意識に目を向けていた。
これまでの仕事では、そんなことはなかった。
眠っている人間を、ただ見守るだけ。
それが死神の役目だった。
だが、今は違う。
少女が少しでも苦しそうな顔をすると、胸の奥が落ち着かなくなる。
「……ねえ、クロウさん」
突然、声が聞こえた。
ミアが薄く目を開けていた。
「……起きていたのか」
「……うん。ちょっとだけ」
少女は弱々しく笑った。
「……今日、あんまり……お話しできなかったね」
「……そうだな」
「……ごめんね」
「謝ることじゃない」
「……でも……」
「寝たいときは寝ろ」
クロウは静かに言った。
「俺は、ここにいる」
ミアは少し驚いたように目を開いた。
「……ずっと?」
「……ああ」
「……そっか」
少女は安心したように笑った。
「……じゃあ……明日も……」
言葉の途中で、まぶたが落ちていく。
クロウは少女の手を握った。
小さな指が、かすかに動いた。
「……おやすみ」
ミアの声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
「……ああ。おやすみ」
クロウは答えた。
少女は眠りについた。
その手を握ったまま、クロウは窓の外を見た。
夜空には、いくつもの星が瞬いていた。
明日になれば、また一日が過ぎる。
それだけのことだった。
これまでは。
だが今は、その一日が過ぎることを、少しだけ恐れていた。
ミアに残された時間は、あと三日。
クロウは、握った手を離さなかった。




