3日目:やりたいこと
朝になっても、ミアは目を覚まさなかった。
窓の外では、いつものように街が動き始めていた。
荷馬車が石畳を走り、商人たちが店の戸を開ける。遠くから、子供たちの笑い声が聞こえてくる。
クロウはベッドの傍らに立っていた。
昨夜、握った手は、いつの間にか離れていた。
眠っている間にミアが寝返りを打ったのだろう。
クロウはその手を見下ろした。
昨日の夜、胸の奥をかすめた奇妙な感覚。
あれは何だったのか。
思い出そうとしても、何も浮かばない。
ただ、小さな手の温もりだけが、妙にはっきりと残っていた。
「……ん」
ミアが小さく身じろぎした。
ゆっくりと目を開ける。
「……あれ?」
少女は窓の外を見た。
「もう朝?」
「とっくにな」
「……寝坊しちゃった」
「病人が寝坊を気にするな」
「でも、お母さんにおはようって言えてない」
「起きたら言えばいい」
「……そっか」
ミアは少し笑った。
それから、クロウの顔を見上げる。
「おはよう、クロウさん」
「……おはよう」
「ちゃんと覚えてたね」
「何をだ」
「おはようって返すこと」
「……昨日教えられたからな」
「ふふっ。えらい、えらい」
「子供扱いするな」
「クロウさんの方が年上なのにね」
ミアが笑う。
クロウも、わずかに口元を緩めた。
本人は、そのことに気づいていなかった。
◇
昼前。
エレナが小さな紙と鉛筆を持ってきた。
「ミア、今日は何かしたいことある?」
「したいこと?」
「ええ。ずっと寝ているのも退屈でしょう?」
ミアは少し考えた。
「……じゃあ、お絵描きしたい」
「お絵描き?」
「うん。久しぶりに」
「いいわね。色鉛筆も持ってくるわ」
エレナは嬉しそうに頷いた。
しばらくして、机の上に紙と色鉛筆が並べられた。
ミアは身体を起こし、膝の上に板を置いて絵を描き始めた。
クロウはその様子を横から眺めていた。
「何を描いている」
「内緒」
「……なぜだ」
「完成するまでのお楽しみ!」
ミアは得意げに笑った。
紙の上には、少しずつ人の形が増えていった。
最初に描かれたのは、長い髪の女性。
その隣には、大きな身体の男性。
そして二人の真ん中に、小さな女の子。
「……家族か」
「まだ見ちゃだめ!」
「見える位置で描いているだろう」
「そうだけど!」
ミアは慌てて紙を隠した。
クロウは肩をすくめた。
しばらくすると、ミアの手が止まった。
「……ねえ、クロウさん」
「なんだ」
「死神さんって、絵を描いたことある?」
「ない」
「一回も?」
「覚えている限りはな」
「そっか」
ミアは色鉛筆を指先で転がした。
「じゃあ、今度描いてみたら?」
「俺は物に触れられない」
「あ……そっか」
ミアは少し残念そうにした。
けれど、すぐに顔を上げる。
「じゃあ、私がクロウさんの分も描くね」
「……何をだ」
「クロウさんが描きたかったもの!」
「そんなものはない」
「えー、つまんないの」
「お前が勝手に聞いたんだろう」
ミアはくすくす笑いながら、再び色鉛筆を走らせた。
◇
昼過ぎ。
レイモンドが仕事から戻ってきた。
「おっ、絵を描いてるのか?」
「うん!」
「どれどれ、父さんにも見せてくれ」
「まだ途中!」
「なんだ、秘密なのか」
「完成したら見せてあげる」
「よし。楽しみにしてるぞ」
レイモンドはミアの頭を優しく撫でた。
その大きな手を見て、クロウはふと眉を寄せた。
――大きな手。
何かが胸の奥をかすめた。
土に汚れた指。
荒れた手のひら。
誰かと手を打ち合わせたような、乾いた音。
だが、次の瞬間には消えていた。
「……?」
クロウは自分の手を見下ろした。
何だったのだろう。
今の感覚は。
「ねえ、クロウさん」
ミアの声に、クロウは顔を上げた。
「……なんだ」
「どうしたの?」
「いや。何でもない」
「変なの」
ミアは首をかしげた。
レイモンドはもちろん、そんなやり取りには気づかない。
「そうだ、ミア。明日は何か欲しいものあるか?」
「欲しいもの?」
「ああ。父さんが買ってきてやる」
ミアは少し考えた。
「……別にないかな」
「遠慮するなよ」
「ううん。本当に」
ミアは笑った。
「お父さんが帰ってきてくれたら、それでいいよ」
レイモンドは一瞬、言葉を失った。
それから、少女の頭をもう一度撫でる。
「……当たり前だろ」
いつもの大きな声ではなかった。
「父さんは、ちゃんと帰ってくるさ」
「うん」
ミアは嬉しそうに頷いた。
クロウは二人を見つめていた。
なぜか、その言葉が耳に残った。
――ちゃんと帰ってくる。
誰かに、同じことを言ったことがあるような気がした。
けれど、思い出せなかった。
◇
夕方。
ミアはようやく絵を描き終えた。
「できた!」
エレナとレイモンドがベッドのそばに集まる。
「見せて、ミア」
「うん!」
ミアは紙を持ち上げた。
そこには、三人の家族が描かれていた。
長い栗色の髪をした母親。
大きな身体で笑っている父親。
そして、二人の間で両手を広げる少女。
背景には、小さな家と青い空。
「まあ……!」
エレナが口元を押さえた。
「上手に描けたわね」
「本当?」
「ええ。とっても」
レイモンドも大きく頷いた。
「父さん、こんなに格好いいのか!」
「お父さんはいつも格好いいよ」
「そうか、そうか!」
レイモンドは照れくさそうに笑った。
エレナが小さく笑う。
「あなた、顔が真っ赤よ」
「うるさいな」
三人の笑い声が部屋に響いた。
クロウは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
幸せそうな家族だった。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥に、言葉にできないものが残った。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「この絵、飾ってくれる?」
「もちろんよ。どこがいい?」
「……私の部屋」
「ここ?」
「うん。ベッドから見えるところ」
エレナは優しく頷いた。
「分かったわ」
レイモンドが絵を受け取り、壁に飾った。
ミアは満足そうに笑った。
「これなら、いつでも見られるね」
その言葉に、エレナの手が一瞬止まった。
だが、すぐに微笑む。
「……そうね」
◇
夜。
エレナとレイモンドが部屋を出たあと、ミアは再び紙を取り出した。
「……まだ描くのか?」
「うん。もう一枚だけ」
「今日はずいぶん描くんだな」
「描きたいものがあるの」
ミアは色鉛筆を手に取った。
けれど、すぐには描き始めなかった。
しばらく白い紙を見つめている。
「……どうした」
「ううん。なんでもない」
ミアは小さく笑った。
そして、ゆっくりと鉛筆を動かし始めた。
クロウは何となく、その手元を見ようとした。
だが、ミアは紙を胸元に引き寄せた。
「……見ちゃだめ」
「またか」
「うん。これはね、私の大事な絵なの」
「さっきの絵も大事だろう」
「……うん。どっちも大事」
ミアは少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、こっちは内緒」
「……そうか」
クロウはそれ以上、尋ねなかった。
ミアは黙って絵を描き続けた。
やがて鉛筆を置くと、完成した紙をそっと裏返した。
そのまま何度か眺めてから、枕の下へしまう。
クロウには、何が描かれていたのか分からなかった。
◇
「ねえ、クロウさん」
眠る前、ミアが言った。
「ひとつお願いしてもいい?」
「……またか」
「うん。また」
「言ってみろ」
ミアは少しだけ迷った。
「……今日も、手を握っててくれる?」
クロウは少女を見た。
「昨日は怖い夢を見たんだろう」
「うん」
「今日は見ないかもしれない」
「……そうだね」
ミアは頷いた。
それから、小さく笑った。
「でも、握っててほしいの」
クロウはしばらく黙っていた。
やがて、ベッドのそばに腰を下ろす。
「……眠るまでだぞ」
「うん!」
ミアが手を伸ばした。
クロウはその手を握った。
昨日よりも、少しだけ自然に。
「……ねえ、クロウさん」
「なんだ」
「今日ね、すごく楽しかった」
「……そうか」
「絵も描けたし、お父さんとお母さんも笑ってくれたし」
「ああ」
「それに……」
ミアは少しだけ目を細めた。
「クロウさんとも、いっぱいお話しできた」
クロウは黙っていた。
「……ありがとう」
「礼を言われることはしていない」
「してるよ」
少女は小さく笑った。
「一緒にいてくれるだけで、嬉しいんだよ」
クロウは返事をしなかった。
ただ、握った手にわずかに力を込めた。
しばらくすると、ミアの呼吸が穏やかになった。
眠ったらしい。
クロウは少女の寝顔を見つめた。
今日、彼女は何度も笑った。
家族と話し、絵を描き、何でもない時間を過ごした。
それだけの一日だった。
けれど、ミアは何度も「楽しかった」と言った。
クロウには、まだその理由がよく分からなかった。
ただ、ひとつだけ。
明日もこの少女が笑っていればいい。
そんなことを、初めて考えていた。
窓の外で、夜風が木々を揺らした。
ミアに残された時間は、あと四日。
クロウは、眠る少女の手を離さなかった。




