2日目:普通の一日
死神は眠らない。
正確には、眠る必要がない。
夜が明けるまでの間、クロウは部屋の壁に背を預け、静かに時間が過ぎるのを待っていた。
窓の外が少しずつ白み始める。
石畳を走る荷馬車の音。朝市へ向かう人々の話し声。遠くのパン屋から漂ってくる、焼きたてのパンの香り。
昨日と何も変わらない朝だった。
ただ、この部屋の少女に残された時間だけが、一日分短くなっていた。
「……ん」
ベッドから小さな声が聞こえた。
ミアがゆっくりと目を開ける。
しばらく天井を見つめたあと、何かを思い出したように顔を横へ向けた。
「あ……」
壁際に立つクロウと目が合った。
「……本当にいた」
「昨日からいる」
「夢かと思ってた」
「残念だったな」
「ふふっ。別に残念じゃないよ」
ミアは毛布から手を出して、小さく伸びをした。
「おはよう、死神さん」
「……ああ」
「おはようって言われたら、おはようって返すんだよ」
「……おはよう」
「うん!」
少女は満足そうに笑った。
クロウは小さく息をつく。
これまで死を迎える人間に付き添ってきたが、朝の挨拶を教えられたのは初めてだった。
死神にとって、一日は仕事の一部でしかない。
けれど、この少女にとっては違うらしい。
あと六日。
それが、ミアに残された時間だった。
◇
「ねえ、死神さん」
「なんだ」
「死神さんって、名前ないの?」
朝食を終えたミアが、不意に尋ねた。
母親のエレナは食器を片づけるために部屋を出ている。
今、部屋にいるのは二人だけだった。
「ある」
「えっ、あるの?」
「……なぜ驚く」
「だって、死神さんってみんな死神さんなのかと思ってた」
「それでは不便だろう」
「確かに」
ミアは納得したように頷いた。
「じゃあ、教えて」
「クロウだ」
「クロウ……」
少女はその名前を小さく繰り返した。
「クロウさん」
「……さん?」
「だって、私より年上でしょ?」
「そうだな」
「じゃあ、クロウさんだね」
「好きに呼べ」
「うん。よろしくね、クロウさん」
昨日も同じようなことを言われた気がする。
クロウは返事の代わりに頷いた。
「ねえ、クロウさん」
「なんだ」
「クロウさんって、何歳?」
「……分からん」
「えっ、自分の歳が分からないの?」
「死神に年齢はない」
「そうなんだ。でも、見た目は大人だよね」
「……そうだな」
「じゃあ、クロウさんって呼ぶので正解だね」
「最初からそう呼んでいただろう」
「ふふっ、そうだった」
ミアが声を立てて笑った。
クロウは呆れたように視線をそらした。
彼の姿は、人間でいえば三十歳を少し過ぎた頃に見える。
だが、クロウ自身に年齢という感覚はなかった。
死神には、生まれた日の記憶がない。
いつから自分が存在していたのかも、はっきりとは分からない。
ただ、自分がクロウという名前であることだけは、最初から知っていた。
誰に教えられたわけでもない。
それは、呼吸の仕方を知っているのと同じくらい、当たり前のことだった。
「……ねえ、クロウさん」
「まだ何かあるのか」
「うん。いっぱいあるよ」
「……そうか」
「だって、死神さんとお話しするの、初めてだもん」
「普通は一度しかない」
「じゃあ、いっぱい聞いておかないとね」
ミアは得意げに笑った。
クロウは何も言い返せなかった。
◇
昼過ぎ。
レイモンドが仕事の合間に帰ってきた。
「ミア、起きてるか?」
「起きてるよ!」
「よし。今日は父さんから重大な報告がある」
「なあに?」
レイモンドは大げさに胸を張った。
「今朝、パン屋で最後の焼き菓子を買えたんだ」
「えっ、あのお店の?」
「そうだ。いつも昼には売り切れる、あの焼き菓子だ」
「すごい!」
「だろう?」
レイモンドは得意げに笑った。
「ただし、ひとつ問題がある」
「問題?」
「父さんが帰る途中で食べたくなった」
「えー!」
「だが安心しろ。父さんは誘惑に勝った」
「本当?」
「もちろんだ。三回くらい負けそうになったがな」
ミアは声を上げて笑った。
レイモンドもつられて笑う。
その笑い声は、廊下にまで響くほど大きかった。
「……騒がしい男だな」
クロウが呟いた。
ミアがくすりと笑う。
「ふふっ、お父さんはいつもあんな感じだよ」
「……そうか」
クロウは小さく息をついた。
レイモンドはもちろん、二人の会話には気づかない。
「どうした、ミア?」
「ううん。なんでもない」
「そうか? ならいいんだが」
レイモンドは焼き菓子の包みを開いた。
甘い香りが部屋に広がる。
「ほら、ひと口だけでも食べてみろ」
「うん!」
ミアは小さく割った焼き菓子を口に運んだ。
ゆっくりと噛みしめる。
「……おいしい」
「だろう!」
レイモンドは嬉しそうに笑った。
しかし、ミアが二口目に手を伸ばさなかったことに気づくと、その笑顔がわずかに曇った。
「……もういいのか?」
「うん。あとで食べる」
「そうか」
レイモンドは何でもないように頷いた。
そして包みを丁寧に閉じ、小机の上に置いた。
「じゃあ、残りは取っておこうな」
「うん。ありがとう、お父さん」
ミアは笑った。
レイモンドも笑った。
だが、彼が部屋を出る直前、もう一度だけ焼き菓子を振り返ったことを、クロウは見逃さなかった。
◇
「……ねえ、クロウさん」
「なんだ」
「お父さん、ちょっと寂しそうだったね」
レイモンドが出ていったあと、ミアが呟いた。
「……そうだな」
「前だったら、全部食べられたのに」
ミアは小机の上の包みを見つめた。
「最近ね、お腹が空かなくなっちゃったんだ」
「……ああ」
「お母さんも、いろいろ作ってくれるんだけど」
少女は少しだけ眉を下げた。
「食べられないと、悲しそうな顔をするの」
クロウは黙っていた。
「だから、食べられるときは頑張って食べようって思うんだけど……」
ミアはそこで言葉を止めた。
しばらくして、いつもの笑顔を浮かべる。
「……あ、でもね。今日は二口も食べられたから、昨日よりすごいんだよ!」
「そうか」
「うん!」
クロウは少女を見つめた。
彼女はいつも、こうして話を終わらせる。
悲しいことを口にしても、最後には必ず明るい言葉を付け足す。
まるで、誰かに心配されることを恐れているかのように。
「……無理に笑わなくてもいいぞ」
クロウが言うと、ミアはきょとんとした。
「え?」
「俺にまで気を遣う必要はない」
少女はしばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「……クロウさんって、変わってるね」
「お前に言われたくない」
「ふふっ」
今度の笑い声は、少しだけ自然に聞こえた。
◇
夕方になると、エレナが部屋へやってきた。
手には洗いたての寝間着を抱えている。
「ミア、今日は少し顔色がいいわね」
「そう?」
「ええ。何かいいことでもあった?」
「うん。今日はいっぱいお話ししたんだ」
「お話?」
エレナが首をかしげる。
ミアは一瞬、クロウの方を見た。
「……ひとりごと!」
「ひとりごと?」
「うん。いっぱい喋ると元気になるかなって」
エレナは少し驚いたあと、優しく笑った。
「そう。じゃあ、お母さんともいっぱいお話ししましょうか」
「うん!」
エレナはベッドのそばに腰を下ろした。
それから、ミアの髪を指で梳きながら、今日あった出来事を話し始めた。
市場で野菜が安かったこと。
近所の猫がまた魚屋に忍び込んだこと。
レイモンドが朝、靴を左右逆に履きかけたこと。
「えっ、お父さん、また?」
「ええ。しかも本人は気づいていなかったのよ」
「あははっ!」
ミアが笑う。
エレナも笑った。
クロウは壁際から、その様子を眺めていた。
何でもない会話だった。
命に関わる話など、ひとつもない。
けれど、少女は今日一番楽しそうに笑っていた。
やがてエレナが寝間着を整え、ミアを横にさせる。
「そろそろ休みましょうか」
「……うん」
「明日も、いっぱいお話ししましょうね」
エレナはそう言って微笑んだ。
ミアも頷く。
「うん。明日もね」
母親が部屋を出る。
扉が閉まったあと、ミアは天井を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……明日も、か」
クロウは何も言わなかった。
少女はすぐに笑顔を作った。
「ねえ、クロウさん」
「なんだ」
「今日は楽しかったね」
「……そうか?」
「うん。いっぱい笑った」
「それはよかったな」
「クロウさんは?」
「……何がだ」
「楽しかった?」
クロウは答えに詰まった。
死神にとって、一日は仕事の一部でしかない。
楽しいかどうかなど、考えたこともなかった。
「……分からん」
「そっか」
ミアは少し考えたあと、にっこり笑った。
「じゃあ、明日は楽しくなるといいね」
「……ああ」
クロウは短く答えた。
◇
夜が更けた。
ミアは眠っていた。
昼間はよく笑っていたが、夜になると、顔色の悪さが目立った。
呼吸は穏やかだった。
けれど、昨日よりも眠りが深いように見えた。
クロウはベッドの傍らに立っていた。
死神は眠らない。
眠る必要がない。
だから、夜はいつも長かった。
「……いや……」
小さな声が聞こえた。
クロウは顔を上げる。
ミアが眉を寄せていた。
「……やだ……」
夢を見ているらしい。
少女の額に薄く汗が浮かんでいた。
「……お母さん……」
か細い声だった。
クロウは黙って見つめていた。
死神に、夢の中まで付き添うことはできない。
できるのは、目覚めるのを待つことだけだ。
「……行かないで……」
ミアの手が、毛布の上をさまよった。
何かを探すように。
誰かを求めるように。
クロウはその手を見下ろした。
死神の身体は、普通の人間には触れられない。
けれど、死を見届ける相手だけは別だった。
クロウはしばらく迷ったあと、そっと手を伸ばした。
小さな指が、彼の指を掴んだ。
その瞬間だった。
――温かい。
不意に、胸の奥がざわついた。
目の前の少女の手ではない。
もっと小さな手。
自分の指を、ぎゅっと握りしめる感触。
どこかで。
ずっと昔に。
こんなふうに、誰かの手を握ったことがある。
そんな気がした。
「……?」
クロウは眉をひそめた。
だが、その感覚はすぐに消えた。
残ったのは、ミアの小さな手の温もりだけだった。
「……クロウ、さん……」
寝言だった。
クロウは少女を見た。
ミアの表情は、いつの間にか穏やかになっていた。
握った手を離そうとすると、少女の指がわずかに強くなる。
「……まったく」
クロウは小さく息をついた。
「手のかかる奴だな」
そう呟きながらも、手を離すことはしなかった。
窓の外では、静かに夜が更けていく。
少女に残された時間は、あと五日。
クロウはまだ知らなかった。
今夜、胸の奥によみがえった小さな温もりが、やがて自分の運命を変えることになるとは。




