1日目:七日間、よろしくね
「お前の命は、あと七日だ」
窓の外では、夕暮れを告げる鐘が鳴っていた。
石畳の街を行き交う人々が、家路を急ぎ始める時刻。
焼きたてのパンを売る声。荷馬車の車輪が石を踏む音。どこかの家から漂う夕食の匂い。
世界は今日も、何事もなかったかのように続いている。
その世界の片隅で、一人の少女の命が終わろうとしていた。
「……うん。知ってるよ」
少女は、驚かなかった。
泣き叫ぶことも、助けを求めることもなかった。
ただ、少し困ったように笑った。
クロウは眉をひそめた。
「……聞こえなかったのか?」
「聞こえたよ。あと七日なんでしょ?」
「ああ」
「そっか」
少女は膝の上に置いた毛布を指先で整えた。
それだけだった。
クロウはベッドの傍らに立ったまま、しばらく少女を見下ろしていた。
栗色の髪が肩の少し下まで伸びている。大きな琥珀色の瞳。年齢は十二歳と聞いていたが、細い手足と青白い顔のせいか、それよりも幼く見えた。
部屋には薬草の匂いが満ちていた。
枕元の小机には水差しと薬の入った小瓶が並び、壁際には色あせた絵本が何冊か積まれている。
窓辺には小さな花瓶があった。
そこに生けられた白い花だけが、この部屋で唯一、病とは無関係なものに見えた。
「ねえ」
少女が口を開いた。
「あなた、誰?」
「死神だ」
「……死神?」
「ああ」
「本物の?」
「偽物がいるのか?」
「知らないけど」
少女は小さく笑った。
クロウは返事をしなかった。
彼は黒いシャツに、同じ色のベストを身につけていた。灰褐色の髪に、深い緑色の瞳。
大鎌もなければ、不気味な外套もない。
街道ですれ違えば、ただの旅人だと思われるだろう。
「死神って、もっと怖い格好してると思ってた」
「よく言われる」
「大きな鎌とか持ってないの?」
「必要ない」
「じゃあ、どうやって人を殺すの?」
「殺さない」
少女が首をかしげた。
クロウは淡々と続ける。
「俺たちは、死ぬ人間を迎えに来るだけだ」
「……迎えに?」
「ああ。死が近づいた人間の前に現れ、最期まで付き添う。そして、その時が来たら魂を連れていく」
「どこに?」
「死者の行く場所だ」
「天国?」
「そう呼ぶ人間もいる」
「あなたは行ったことあるの?」
「ない」
「死神なのに?」
「俺の仕事は、そこまで案内することだからな」
少女は不思議そうにクロウを見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……そっか。じゃあ、ひとりじゃないんだ」
その言葉に、クロウは少しだけ目を細めた。
死を告げられた人間が最初に口にする言葉は、様々だった。
助けてくれ。
まだ死にたくない。
嘘だと言ってくれ。
あるいは、怒り、泣き、神に祈る。
クロウはこれまで、数え切れないほどの最期を見届けてきた。
だが、死神が迎えに来たことを喜ぶ人間は、そう多くない。
「……怖くないのか」
思わず尋ねていた。
少女は少し考えるように視線を落とした。
「どうだろう」
「どうだろう?」
「まだ、よく分かんない」
そう言って、また笑った。
その笑顔が妙に大人びて見えて、クロウはそれ以上尋ねなかった。
廊下から足音が聞こえてきたのは、その時だった。
「ミア、起きてる?」
扉の向こうから、女の声がした。
「うん、お母さん」
「入ってもいい?」
「いいよ」
扉が開く。
長い栗色の髪を後ろで束ねた女性が、盆を手に入ってきた。
ミアとよく似た琥珀色の瞳をしている。
女性はベッドのそばまで歩いてくると、クロウの立っている場所を何のためらいもなく通り過ぎた。
クロウは動かなかった。
彼女には見えていないのだ。
死神の姿を認識できるのは、その死神が迎えに来た人間だけ。
声も、触れた感触も、他の者には届かない。
「今日は少し食べられそう?」
母親は盆を小机に置いた。
温かなスープと、柔らかく焼いたパン。
ミアはそれを見て、嬉しそうに頷いた。
「うん。いい匂い」
「よかった。今日はお野菜を小さく切ってみたの」
「お母さん、最近ずっと私の好きなものばっかり作ってるね」
「……そう?」
「うん」
母親は微笑んだ。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
ミアがスプーンを持ち上げようとして、途中で手を止めたからだ。
「……ミア?」
「大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「無理しなくていいのよ」
「でも、せっかく作ってくれたし」
「いいの。あとで温め直せるから」
母親はそっとスプーンを受け取った。
ミアは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね」
「謝らなくていいのよ」
母親はそう言って、娘の髪を撫でた。
「何も心配しなくていいからね」
その声は優しかった。
けれど、最後の方がわずかに震えていた。
ミアは気づかなかったふりをした。
「うん。ありがとう、お母さん」
クロウは黙って二人を見ていた。
人間というものは、不思議な生き物だ。
別れが近づくほど、普段なら何でもない言葉を慎重に選ぶようになる。
大丈夫。
心配しないで。
きっとよくなる。
その言葉を口にする者ほど、心の奥では別の結末を恐れている。
クロウは、それを何度も見てきた。
「おーい、ミア!」
今度は廊下から男の声が響いた。
「今日こそ父さんが面白い話を持ってきたぞ!」
母親が振り返る。
「レイモンド、もう少し静かにして。ミアが疲れちゃうわ」
「おっと、そうだった」
声が急に小さくなった。
そして、扉の隙間から男が顔を覗かせる。
「……今日こそ父さんが面白い話を持ってきたぞ」
先ほどと同じ台詞を、今度は囁くように言った。
ミアが吹き出した。
「お父さん、それじゃ聞こえないよ」
「難しい注文だな。大きな声は駄目で、小さな声も駄目か」
「普通に喋ればいいのに」
「なるほど。父さんの一番苦手なやつだ」
男は大げさに肩をすくめた。
短い赤茶色の髪に、日に焼けた肌。大きな体を少しかがめながら、ベッドのそばに腰を下ろす。
レイモンドと呼ばれた男は、ミアの顔を覗き込んだ。
「今日はどうだ?」
「元気だよ」
「そうか。じゃあ明日は一緒に庭でも歩くか」
「うん」
「約束だぞ」
「うん、約束」
男は笑った。
母親も笑った。
ミアも笑った。
けれど、クロウには分かっていた。
三人とも、同じことを考えているわけではない。
父親は、明日こそ娘が少しでも元気になっていることを願っている。
母親は、明日も娘が目を覚ましてくれることを願っている。
そして少女は。
両親が笑っている間だけ、自分も笑っていようとしている。
「……お母さん」
しばらくして、ミアが言った。
「ちょっと眠くなっちゃった」
「そう。じゃあ、休みましょうか」
「お父さんも、お仕事あるんでしょ?」
「ん? まあ、少しな」
「行ってきていいよ。私、ちゃんと寝てるから」
レイモンドは何か言いかけた。
だが、結局は笑って頷いた。
「分かった。何かあったらすぐ呼べよ」
「うん」
「父さん、すぐ飛んでくるからな」
「転ばないでね」
「おいおい、父さんを何だと思ってるんだ」
ミアが笑う。
レイモンドも笑う。
母親も、少しだけ笑った。
二人が部屋を出ると、扉が静かに閉まった。
途端に、部屋はひどく静かになった。
クロウは壁際に立ったまま、少女を見ていた。
「……いい家族だな」
何気なく口にすると、ミアは嬉しそうに頷いた。
「うん。自慢の家族なんだ」
「そうか」
「お父さん、いつもあんな感じなの。お母さんに怒られてばっかり」
「そうだろうな」
「でも、すごく優しいんだよ」
「ああ」
「お母さんもね、私が寝てると思って、夜中に何度も様子を見に来るの」
ミアは毛布の端を握った。
「……私、ちゃんと知ってるんだ」
クロウは黙っていた。
「二人が、どれだけ心配してくれてるか」
「……ああ」
「だからね」
ミアは少しだけ言葉を詰まらせた。
「早く元気にならなきゃって、思うんだ」
クロウは答えなかった。
その言葉が、叶うことのない願いだと知っていたからだ。
少女の病は、この国では眠り病と呼ばれていた。
初めは、ただ眠る時間が少し長くなるだけ。
やがて昼も夜も関係なく眠り続け、最後には二度と目覚めなくなる。
原因は分かっていない。
治療法も、ほとんど確立されていなかった。
医師たちが手を尽くしても、救えない者がいる。
そして死神は、その命が尽きる七日前に現れる。
もっとも、死神が告げる七日後の死は、絶対の運命ではない。
予測された死が、医師の治療や思いがけない出来事によって覆ることもある。
だが、それは稀なことだった。
少なくとも、クロウが担当してきた人間の多くは、告げられた日に息を引き取っている。
「……ねえ、死神さん」
「なんだ」
「私があと七日で死ぬって、どうして分かるの?」
「そういう仕事だからだ」
「ふうん」
「納得したのか?」
「だって、死神さんなんでしょ?」
「……まあな」
少女は少し笑った。
クロウは、この少女が本当に死を理解しているのか疑わしくなった。
十二歳。
まだ人生のほとんどを知らない年齢だ。
自分の命が終わるということを、正しく想像できていないのかもしれない。
「お前は、いつから知っていた?」
クロウが尋ねると、ミアは天井を見上げた。
「……三日前かな」
「誰かに聞いたのか」
「ううん。聞こえちゃったの」
ミアは小さな声で続けた。
「お医者さんがお母さんたちと話してたんだ。私、眠ってると思われてたみたいで」
その時のことを思い出したのか、少女の指が毛布をきゅっと握った。
「長くても、あと十日くらいだろうって」
「……そうか」
「お母さん、泣いてた」
ミアは淡々と言った。
「お父さんは、ほかに方法はないのかって、何度も聞いてた」
そこで少しだけ声が小さくなった。
「……でも、お医者さん、何も言わなかった」
クロウは少女を見つめた。
「それで、お前はどうした」
「寝たふりした」
「……なぜ?」
「だって」
ミアは困ったように笑った。
「私まで泣いたら、お母さん、もっと悲しくなっちゃうでしょ?」
クロウは何も言えなかった。
人間は、死を前にすると様々な嘘をつく。
自分は大丈夫だと。
何も怖くないと。
もう思い残すことはないと。
だが、この少女の嘘は少し違っていた。
自分を守るためではない。
自分を愛してくれる人間を、悲しませないための嘘だった。
「……無理をする必要はないだろう」
クロウが言うと、ミアは首を横に振った。
「無理なんてしてないよ」
「そうか」
「うん」
少女は笑った。
先ほど、両親に向けていたのと同じ笑顔だった。
クロウはそれ以上、何も言わなかった。
彼の仕事は、死にゆく人間を見届けること。
苦しみを取り除くことでも、心を救うことでもない。
そもそも、死神にそんな力はない。
彼らは生者の運命に手を加えることを許されていない。
病を治すことも、命を延ばすこともできない。
できるのは、最期までそばにいることだけだ。
クロウは、その役目に疑問を抱いたことがなかった。
長い間、そうしてきたのだから。
「ねえ、死神さん」
ミアが再び呼びかけた。
「……なんだ」
「これから七日間、ずっとここにいるの?」
「ああ。基本的にはな」
「ご飯は?」
「必要ない」
「寝るのは?」
「寝なくても問題ない」
「お風呂は?」
「……お前、そんなことが気になるのか」
「だって、七日間も一緒なんでしょ?」
ミアは少し得意げに笑った。
「ちゃんと知っておかないと」
クロウは小さく息をついた。
「……好きにしろ」
「ふふっ」
少女は声を立てて笑った。
それは、両親が部屋にいた時よりも、少しだけ気楽な笑い方だった。
クロウは妙な気分になった。
余命を告げられた人間が、死神との共同生活について心配している。
こんな依頼人は初めてだった。
「……変わった奴だな、お前は」
「よく言われる」
「誰に?」
「お父さんに」
「……そうか」
ミアはまた笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ねえ、死神さん」
「なんだ」
「ひとつだけ、お願いしてもいい?」
クロウは少女を見た。
「俺にできることならな」
「じゃあ……」
ミアは一度、口を閉じた。
何かを迷っているようだった。
窓の外では、最後の鐘が鳴り終わっていた。
街に夜が訪れる。
遠くの家々に、ひとつ、またひとつと明かりが灯り始めた。
「……死ぬまで、私に普通に接してほしい」
「……普通に?」
「うん」
ミアは膝の上で指を組んだ。
「お母さんもお父さんも、最近ずっと優しいんだ。前から優しかったけど、今はもっと」
クロウは黙って聞いていた。
「私が何を言っても、悲しそうな顔をするの」
少女は視線を落とした。
「ご飯がおいしいって言っても、眠いって言っても、明日の話をしても……二人とも、すぐに泣きそうな顔になるんだ」
その声には、両親を責める響きはなかった。
むしろ、申し訳なさそうだった。
「だから、何を話したらいいのか分からなくなっちゃった」
クロウは少女を見つめた。
十二歳の子供が、自分の死を知っている。
そのうえで、両親を悲しませないために笑っている。
そして今、死神に向かって、普通に接してほしいと願っている。
「……俺は、慰めるのが得意じゃないぞ」
「うん」
「面白い話もできない」
「うん」
「それに、俺は死神だ」
「知ってるよ」
ミアは顔を上げた。
「だから、お願いしてるんだよ」
「……どういう意味だ」
「だって、死神さんは」
少女は少しだけ笑った。
「私が死んでも、泣かないでしょ?」
クロウは答えるまでに、わずかな間を置いた。
「……ああ。俺は死神だからな」
「よかった」
ミアは、心から安心したように笑った。
その笑顔を見て、クロウはなぜか、言葉を続けられなくなった。
少女は毛布を胸元まで引き上げる。
「じゃあ、あと七日間、よろしくね」
「……ああ」
クロウは短く答えた。
ミアは満足そうに頷き、ゆっくりと目を閉じた。
ほどなくして、小さな寝息が聞こえ始める。
クロウはベッドの傍らに立ったまま、その寝顔を見下ろしていた。
眠り病。
眠る時間は、これから少しずつ長くなっていく。
そして七日後には、もう目を覚まさなくなる。
それが、今回与えられた仕事だった。
クロウは静かに目を閉じた。
これまでと同じだ。
死を待つ人間のそばにいて、その最期を見届ける。
ただ、それだけのこと。
少女が眠っている間も、街の夜は変わらず過ぎていく。
どこかの家では家族が食卓を囲み、どこかの家では子供が明日の遊びを楽しみに眠っているのだろう。
明日が来ることを、誰も疑わずに。
クロウは再び目を開けた。
目の前の少女にも、明日は来る。
明後日も、その次の日も。
だが、その先はない。
それでも少女は、笑って言ったのだ。
あと七日間、よろしくね、と。
クロウは壁に背を預け、静かに夜が明けるのを待った。
少女はまだ知らない。
七日後、その死神が誰よりも自分との別れを惜しむことになるとは。
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