【第6章】森の中でポツンと暮らすおじいちゃん半妖受けが若い青年に絆されていく、約束の恋愛小説。
朝晩が甚平一枚では肌寒くなってきた。
夏の布団からもっと厚みのある冬用の布団へと出し変えたのはつい一昨日のことだ。
まだ辺りが薄暗い早朝、ふと目を覚ました紡久はもぞもぞと布団から出て日課の散歩へ行くため出かける準備をする。
いつも部屋着と出掛け着が同じ甚平で着替えもしないが、腰の紐が解けており結び直そうとした、その時。
背中の赤黒い痣がへその傍まで来ていることに気付き、ぎょっとする。
ゆうべ風呂に入った際には気が付かなかったのに、一晩で急速に進んだようだ。
土地が紡久を欲しがっている。痣を広げ、人で失くしていく。
散歩へ行くのを止め、紡久は布団に戻って慌てて掛布団に包まる。こんな事をしても逃げられるものじゃない。分かっていても、そうせずにはいられなかった。
もう一度眠ってしまおうと目を瞑っていると、地面が揺れる。また地震だ。
「うわ、地震です、紡久さん!」
隣に敷いた布団で眠っていた信大が飛び起きる。慣れたもので紡久は掛布団に包まったまま、顔だけを出して揺れが収まるまで信大の様子を見ていた。
じきに揺れが終わる。布団の上で座った信大が「ふうー」とため息を漏らしていた。
「また揺れたな」
この地震の原因はこの土地にあると、これも以前、信大へ話した。紡久が土地を引き継げば頻繁に起こる地震も徐々に無くなる事だろう。
土地を引き継ぐ。それは現在この土地を守る神が消え、紡久がこの土地になるということだ。
もちろん紡久はこのままというわけにはいかない。信大と過ごすこの穏やかで楽しい生活が既に恋しい。
信大が恋しい。
長年、生きてきたのに人としての紡久は信大よりも先に消える。信大を残すことへの抵抗もあるが、彼には元の家に家族が居る。大丈夫、紡久が居なくても信大は生きていく。そう思うのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。
この暮らしが惜しい。この命が惜しい。今更、そんな日が来ようとは。とうの昔に置いてきた人としての幸せを望む日が自分に来ようとは。運命が、この痣が、難い。
時が来れば、紡久は永遠に闇の中を彷徨うこととなる。そこに光が射すことはない。せめて弓張月の光でも射せばいいのに。その薄明るい光さえあれば、紡久は現世を想い信大の姿を想像できるのに。
気が付くと、部屋が明るい。被っていた布団を退ければ、覚えのある香ばしく甘い良い香りが辺りに充満していた。
早朝の地震の後、紡久はそのまま眠っていたようだ。もぞもぞと布団から起き上がりそれを畳みながら匂いのする方を見ると、信大が竈の前で何かしていた。
「おはよう、寝坊してしまった」
相変わらず紡久の甚平を着た背中に大きな声で話しかけると、信大がぱっと振り返る。彼の目の前には熱した鉄鍋、手には木べらを持っていた。
「あ、おはようございます紡久さん。栗は好きですか?」
予想通り、信大は庭で採れた栗を茹でているようだ。
押入れに布団を仕舞い終え、紡久も土間へ行く。信大の周りには小物妖怪たちが三体、栗の動向を見守っていた。
「よく竈の火を点けられたな。初めてじゃないか」
「はい、紡久さんに教わった通りにやってみたらそんなに難しくないですね」
へへっと最後に歯を見せて笑い、信大が前を向く。この香りからして、栗はそろそろ食べごろだろう。
「どれ、皮に切れ目は入れたのか?」
「切れ目?」
栗の皮は炒ったり茹でただけでは固く、予め切れ目を入れないと剥くのに苦労する。そんな事は知らなかったようで、信大は慌てて鉄鍋を火から下ろそうと手ぬぐいを手にした。
「待て、もう手遅れだからもう少し煮て、冷めるまで待とう」
「ああ……」
信大が肩を落としわかり易く落胆する。周りの妖怪同様、今すぐに食べるつもりだったのだろう。熱した栗は熱すぎてどのみち直ぐには食べられないが、しょぼくれる妖怪たちと信大の重なった反応がかわいくて紡久は声を出して笑った。
「よし、じゃあ朝飯を作ろう。信大が火を準備してくれたから助かる。ああ、信大はそのまま栗の番を頼む」
指示を出しながら紡久は空いた鉄鍋を持ち、裏手から土間を出て倉庫代わりの棟へ米と野菜を取りに行く。
いつも代わり映えのしない米と味噌汁だけの朝食に、何かもう一品追加しよう。信大の好みに合わせて精米機で米を白くしながら、周りを見回す。
たくあんの樽に梅干しの壺、秋茄子のぬか漬け、梨と柿、さつまいも。この時期は山の幸が多く食材の備蓄が増えて腹も心も潤うというものだ。
一緒に着いて来ていた座敷童を伴って、信大の待つ土間へ戻る。白い米と足の早そうな葉物野菜を味噌汁用に、更に太く実ったさつま芋を二本だけ手にしていた。
「今朝は米と味噌汁と、あとさつま芋を蒸かそう。甘くてうまいぞ」
紡久の明るい声に妖怪たちが万歳をして喜ぶ。いつ間に増えたのか、小物妖怪は部屋に五体になっていた。これではさつま芋が足りないか、と紡久は苦笑した。
「済まない、もう一度さつま芋を取ってくる」
くすくすと笑う紡久に気付いただろうが、信大は「はい」と頷いただけだ。ここに彼には見えない妖怪が居る事に初めは違和感を覚えていたが、今ではもう慣れたのかもしれない。
「いも、いも!」
「紡久、はやく、さつま芋!」
「分かってるさ」
妖怪たちはいつだって食いしん坊だ。急かされても紡久が急ぐ事はない。妖怪たちは急かすが本心では急かしている自覚もあまりない。長い付き合いだ、紡久はそんなどこか無責任に見えるかわいらしい妖怪たちを理解していた。
さつま芋をもう二本、手にして土間へ戻る。それから米を洗おうと鉄鍋を手にして、それら持っていたものが手指からすり抜け土の床へ落ちた。
かしゃん、ざらざら、ごとん、とそれぞれが床に当たるけたたましい音がする。
「わあー、落ちた!」
「紡久が落としたー!」
「おっきい音~!」
「大丈夫ですか、紡久さん?」
目の前に居るはずの妖怪たちと信大の声が、扉を一枚隔てているような距離に聞こえる。自分の両脚になにか覚えのない感覚が這い、力を入れられない。それにも関わらず両方の脚が動いた。
「えっ、紡久さん、どこに行くんですか?」
どこに行くのか自分でも分からない。脚が勝手に動くのだ。
紡久の身体は意思と反して土間を出て外へ行き、いつも朝の散歩で通る道を歩く。この道の先は御神木だ。そうか、御神木に呼ばれているんだ。どこか他人事のような感覚でそんな考えが脳裏に浮かんだ。
「紡久さんっ! 待って、行くな!」
追いかけて来た信大に後ろ手を捕まれる。助けて、信大。声を大きく出したいのに喉が鳴らない。紡久の身体は勝手に信大の手を振りほどいた。
両腕を振り回し尚も歩を進める。それでも行かせまいと、信大が紡久の背中へ力いっぱい抱き着いた。それでやっと進もうとする脚が止まる。
「行かせない、よくわかんないけど、今はそっちに行っちゃダメだ!」
身体を羽交い絞めにされ尚も脚は勝手に踏ん張ったが、自分より大きな身体を支えられずふたりで地面に倒れた。
その衝撃で右の肩を地面の木の根にぶつけ、痛みが走る。しかしその痛み以降、身体の自由が元に戻った。
「紡久さん、大丈夫ですか、紡久さん?」
「はあ、はあ、はあ……っ」
やっと息が出来た心地で紡久は胸で激しく呼吸をする。信大が心配している、早く無事を伝えなくては。しかし胸が苦しい、地面に寝転がったまま呼吸を整えるので今は精いっぱいだ。
少し落ち着き仰向けになったまま目を開けると、紡久の上に信大が覆いかぶさり起き上がれないよう押さえつけられている。まだ信大が守ってくれているのだと知った。
「追いかけてくれてありがとう、もう心配ない」
自由の利くようになった両腕で信大に抱きつく。こんな風に彼に甘えたのは二度目の接吻をしたあの時以来だ。
信大の温かい体温と、互いに早い重なる鼓動が紡久の不安を和らげてくれる。
「何があったんですか」
両手を砂に突っ張り紡久を見下ろし、信大が泣きそうな顔で問う。まさかそんなに心配を掛けていたとは思わず、紡久は慌てた。
「泣くな」
「……だって紡久さんが……っ。俺、紡久さんを失いたくない」
ぽたっと、紡久の頬に信大の温かい涙が落ちる。両方の目から溢れた雫はまるで、泣くことのできない紡久の頬を代わりに濡らしてくれているようだった。
「ごめんな、ごめん……」
こんなにも純粋な信大を泣かせてしまった。
だが紡久の未来はもう決まっていて逃げ出せない。頭を撫でて謝ること以外に紡久には出来ることが見つからなかった。
ふたりで手を繋いで家に戻る。土間では妖怪たちが、紡久の落とした米と野菜、さつま芋を生のまま盗み食いしていた。
そんな友達の妖怪たちの姿を見ればいつもなら微笑ましくてくすくすと笑いがこみ上げるのに、今はそんな気が起こらない。
「紡久!」
「紡久と人間が帰ってきた!」
「これ、うまい」
口々に話しかけてくる妖怪たちの相手をする気も起きない。信大に促されるまま土間の縁に腰かけ、汚れた足を濡れた手ぬぐいで拭いてもらう。
ぼーっとしている内に信大は自分で足を拭いたらしく、立つように肩を支えて貰ったので立ち上がり、一緒に部屋の奥へ歩いた。
朝飯どころではなくなってしまった。
自分の意思と関係なく身体が動くことなどこれまで一度も無い。一度でもこんな事があればこの先、何をしていても御神木に呼ばれれば身体が勝手に行くのだと不安になる。
御神木へ行けばどうなるのか。しかし紡久にはそれに抗う方法がわからない。
広い畳の部屋のいつも布団を敷くあたりに信大と並んで座る。膝上までの甚平の裾から赤黒い痣が見えた。
「……っ」
痣が急速に広まっている。ついこの間、へそまで来たそれがもう尻を通り脚の半分まで来ている。これでは足の裏まで来るのにそう時間はかからないだろう。あと十年は無理でも数年くらいはまだ人の暮らしが出来ると思っていた。それなのに、早過ぎる。
「どうして……」
力の入らない吐息が漏れる。信大が隣から腕を伸ばし紡久の肩を抱き寄せた。
力の強い大きな手がぐっと肩を支えてくれる。なんと心強く逞しい腕だろうか。信大の為にもしゃんとしなくては、と自分を奮い立たせるが今はいけない。今だけ、明日になったら頑張るから、今だけ信大に甘えさせてくれ。
「焦ってる? 土地がですか?」
午後になり心が落ち着いてきた頃、紡久は信大に朝の事を話す。痣が急速に広まっている事と紡久の自由を奪い自身の元へと呼び寄せた理由は、おそらくそういう事なのだろうと紡久は結論づけた。
開け放った戸から庭に湧き出る聖水へ視線をやれば、予想通りそれは既に湧き出てはいない。小さな窪みに溜めた分だけで、それが蒸発すればもうそれっきり。聖水の源泉は枯れる寸前なのだろう。
「信大が好きだ」
これまであまり伝えていなかった気持ちをしっかり言葉にする。信大の事を想うと同時に紡久の明日への覚悟が崩れそうにもなる。だが明日にはこの身に自由がなくなるかも知れないのだ、動くうちに、紡久が人であるうちに出来ることをしたい。
しっかり目を見て言葉にした紡久の告白を聞いていたはずの信大は反応を示さない。たまに瞬きをして、紡久を見返している。優しい信大のことだ、何か感づいたのかもしれない。
「信大が愛おしいんだ」
もう一度、言葉にする。生まれて初めて紡いだ愛の言葉に、心がこそばゆい。それは信大に何かを求めたいんじゃない、ただ気持ちを伝えたいというだけだ。
「何を考えているんですか?」
いつものような明るい声を仕舞い、信大が唸る。眉を寄せた表情にやっぱり何かに気付いているようだと悟る。
それでも良い、明日が来るかも分からないこの身だ、どんな顔でも良いから信大と共に居たい。
「どうして弱音を吐かないんですか。紡久さんは人なのに人じゃないものになるんですよ、怖いとか嫌だとかないんですか!」
感情をぶつけるような信大の大声には驚いた。そんな感情をここ百年、持ったことは無い。
怖いも嫌だも、もうとっくに乗り越えた。若い頃は自分の運命を呪いたくもなったが、それももう昔の事だ。全てを受け入れ、自分を無理やり納得させた。紡久はもう年寄りだ。
だって紡久が弱音を吐いたら土地が死ぬじゃないか。この土地には愛着がある。友達の妖怪たちも棲んでいる。紡久の生まれた家がある。何よりここは生まれて初めて愛した信大と出会った場所だ。
「ほら、紡久さんだって泣きそうな顔してるじゃないですか」
「え……」
言われるまで気付いていなかった。
信大の言葉が引き金となり紡久の頬を熱いものが伝う。それは朝、紡久の頬に落ちた信大のそれと同じくらい熱い想いだった。
「ふ……っ、う……」
弱気な紡久など自分じゃない。だけど涙が止まらず溢れ出てくる。もう何十年も泣く事などなかった。
恥ずかしい顔を見せたくないと俯けば、信大が紡久の頭を両手で強く抱き締めた。頭に信大の鼓動を感じる。信大が生きている音がする。
自分の身体が勝手に動くことへの恐怖。いよいよ紡久がこの土地になるのだという実感。ひとりぼっちであの御神木のようにただひたすらにそこに佇むだけの存在。何かを慈しみ好きになることの無い、意識だけの存在。暗闇の水面を独りきりで波に揺られて漂い続けるような、永遠の孤独。
「嫌だ、嫌だ、……土地になど誰が成りたいものか!」
声に出してみれば簡単な事だった。本当は普通の人として寿命を全うして死にたかった。百四十年もの間、命を長らえて良い事など何もない。
家族にさえ妖怪だと虐げられ、終の住処と決めた此処に隠れ住んでいれば不便はあれど辛いことは無い。
だが紡久は辛い事もしあわせな事も普通の人としてたくさん経験し、寿命を全うして死にたかったのだ。




