【第5章】森の中でポツンと暮らすおじいちゃん半妖受けが若い青年に絆されていく、約束の恋愛小説。
そろそろ冬支度を始めよう。
越冬に使う薪などは夏のうちから準備し割っておいたが未だ足りない。だけどここ二十年ほど前から温かくあまり雪が降らないので越冬はぐんと楽になった。
最寄りの集落の話好きの婆さんが「温暖化」だと言っていたのを随分前に聞いたが、そういう事なのだろう。
百四十年も生きていると世の中が大きく移ろうものだ。
「紡久さん、今日も食べないんですか?」
竈で一人分の食事の用意をしていると、信大が土間に降りてくる。
初めこそ頑張って信大と一緒に食事をしていたのだが、半妖と知れ、更に身の内を明かした今では何も隠すことがない。聖水をたまに舐める程度、摂っていれば死なないのだから楽なものだ。
信大は、ゆっくりと思い出しながら身の内を語る紡久の話を最後まで聞いてくれた。
数年後には紡久は意識を手放し土地に成る事も話した。淡々と話す紡久の声をしっかり聞いてくれていたが、信大の反応は薄いものだった。
たまに頷き相槌を入れるものの、どこまで理解してくれたのかは定かではない。だけどあまり長いこと共に居られない事は伝えたはずだ。
信大は紡久の今後について何も言わない。質問もなく、一方的に紡久が話しただけだ。
これまで見てきた信大の性格なら、いくつもの質問をしてきてもおかしくはない。それなのに信大はただ頷いただけなのだ。
もしかすると信大なりに思う事があったのかも知れない。妙な運命を背負った紡久に愛想を尽かす事だってあるだろう。
しかし信大はここを出て行かない。紡久に愛想を尽かしたなら出て行けばいいのにそれをしない。
それどころかたまに紡久に触れたい、と「まっさあじ」や接吻をしてくれる。
嫌われたわけではないのだと信じたかった。
この日の夜になり、紡久はとっておきの梅酒を開ける。
初夏に庭で採れた青梅と最寄りの集落の小さな店で買った酒と砂糖を合わせたものだ。
酒の中でも紡久が特に好きなのは果物の酒で、しかし一度にたくさん飲んではもったいないのでたまに湯飲み一~二杯だけと決めている。
ひとつだけ置いた膳の上に酒の時しか使わないお気に入りの湯飲みをふたつ置き、梅酒を注ぐ。それを見ていた信大が珍しい物を見るような声を出した。
「酒ですか? 梅酒かな、いい匂いですね」
頷き、片方の湯飲みを信大へ手渡す。自分はもう片方の湯飲みを唇へ運んだ。
「お、いい出来だ。甘すぎなくていい」
自分の好みに合わせて作るよく漬かった果実酒は絶品だ。紡久はちびちびと勿体ぶって酒を仰ぐ。それを向かい側で見ていた信大がくつくつと喉を鳴らして笑った。
「うまいですね、これ。今年の梅ですか?」
「今年の梅も漬けたが、これは去年の梅酒だ。最低でも一年は寝かせたい」
言って、また一口を煽る。目の前で信大もまた一口、飲んだ。
ああ、独りではない酒の旨いこと。今夜は特別にもう一杯、多く飲もう。隣には信大、庭からは虫の声と優しいそよ風、そして目の前には旨い酒。とても気分のいい夜だ。
「あの、紡久さん。俺の話も聞いてくれますか」
久しぶりの酒に酔いふわふわとした気分でいると、不意に信大がいつもよりも硬い声を出す。顔を見ればその横顔も声音と同じく強張っているように見えた。
「何だ?」
少しの不安が胸に込み上げながらも、紡久は何でもない事のように返す。例え信大に何を言われても紡久はそれを受け入れるしかない。
ここを出ていくならば土地を離れられない紡久はただ彼を見送るだけだ。
「紡久さんは何も聞かないでくれてますけど、俺は紡久さんにも俺の事を知っていて欲しいんです。だからちゃんと話します。聞いてください」
信大の話は予想と違っていた。てっきり別れを切り出すのだとばかり思っていたが、信大は今の紡久をちゃんと見てくれている。先日の紡久の話を経て、今度は信大の事を教えてくれると言う。
知りたい、ずっと聞くのを我慢していた。しかし紡久に事情があるのと同じく、信大にもきっと事情がある。
こんな人の寄り付かない森の中で傷つき倒れていた信大がここに来るまでに何があったのか、紡久は声も出さずにただ信大の顔を見つめ、話を聞いた。
信大は大学生らしい。普段は東京の実家で暮らしていて、両親と弟がいる。学業の他に運動をしていて身体を鍛えている。
東京の暮らしはこんな山奥の家とはずっと違っていて、竈や囲炉裏も厠も押入れもない。しかし昔ながらのこの場所での生活も楽しい。などなど、信大の普段の生活について教えてくれた。
更に話は信大が此処へ来ることになった理由へと進んでいく。
事の始まりは信大と血の繋がった祖父の言葉だった。
『俺の母方の兄の血は不老不死の万能薬らしい。どんな病も怪我も治すんだ。信大の曾祖母の兄がまだ群馬の家に住んでるらしいが、本当に生きてるならもう百四十歳にもなる。俺も母親からチラッと聞いただけだけどな』
続けて信大が明かす。
「俺の祖父の母親、曾祖母の生家の名は、八十八です。紡久さんと同じ苗字なんです」
信大の口から出た彼の祖父の言葉に紡久は少しの恐怖を覚える。そして信大の曾祖母、八十八恵は紡久の実の妹だ。信大と紡久は血が繋がっていた事になる。
「……それで、お前は私の血を求めてここに来たのか」
紡久の血が万能薬だなどというでたらめを実の妹が息子に喋ったのだろうか。いや、喋ったのだろう。でなければ信大がわざわざ東京からこんな山の中へ来るはずがない。酒でふんわりしていた脳内が冷えていく。
「初めは、あわよくばと思っていました。けど違うんです、紡久さんの血が欲しいなんて今は思ってません」
「では何故、此処へ来た!」
一瞬にして頭に血が上る。膳に置いた湯飲みが片方、畳を叩いた振動で転げ酒が滴る。信大がびくっと身体を揺らした。
こんな大声を出したのはいつ振りだろうか。胸の奥が痛い、頭が回らない。ああ、恋とは厄介だ。この男の望みを叶え、永遠に別れを告げようとさえ思えてくる。
「私の血が万能薬だと? ……クックック」
可笑しくて喉から笑いが漏れる。実妹の恵は、亡くなる少し前までこの生家へたまに脚を運び紡久に会いに来てくれていた。ここへ来る客人は何十年も恵しか居なかった。他の家族も親族も既に先に逝き、恵が最後に残った唯一の肉親だった。だから紡久は、恵だけは信じていた。それなのに……。
「すみません、紡久さん。話すか迷ったんですけど、黙っていられなくて。話の続きを聞いてください」
頭上でした信大の声に我に返る。気づけば信大はすぐ隣で膝をつき、紡久の背中を撫でてくれていた。
もっと嫌な男なら憎み切れるのに。効果が無いとわかっていて血を差し出せる相手ならまだ良かった。紡久は胸で大きく息を吸い、その分だけゆっくりと息を吐いた。
「もういい、何も聞かない、出て行け」
わざと低い声で言い、信大の手を払う。だが払った手はすかさず元の位置へ戻り、また紡久の背中を撫でた。
「出て行きません、話を聞いてください」
真っ直ぐとした心地のいい声が紡久へ向けられている。
信大は芯が強く強情で優しい奴だ。自分でこうと決めたら一歩も引かない。そんな信大を好いてしまったのだ。惚れた弱みとはよく言ったものだ、と心の中で諦めのため息を漏らす。
此処は紡久の終の住処だ。信大が出て行かないつもりならば紡久にはどうにもならない。
「分かった、話は聞こう。それから出て行け」
「怒らないでください、お願いですから」
近い距離で感じる困ったような信大の声音に、たった今とは別の意味で可笑しくなってきた。紡久の一挙一動に信大が困っている。少しの優越感に近い気持ちが紡久の心を落ち着かせた。
「俺には弟がいます。その信二の為にダメ元でもと縋る思いでこの地に来ました。信二は学校でいじめにあって不登校になって、それからずっと家から一歩も出ないんです。心の病にかかってしまったんです」
紡久はただ黙って彼の話を聞く。その間も信大は手を動かして紡久の背中を撫でてくれていた。
「家を出る時、信二と約束をしました。『お兄ちゃんが万能薬を持って帰るからな』と。だけど俺だってそんな薬があるはずは無いと思ってます。ただ少しでも信二の気持ちが上向くならと思って、ただの励ましのつもりでした」
「だが、万能薬はあったというわけだ」
口を挟むと、紡久の両方の肩をそれぞれの手で強く抑えて信大がこちらへ向き直る。瞳を覗き込まれ、紡久も彼を見返した。
「聖水を分けてはやらない。あれはただの人には危険なものだ」
一呼吸だけ早く紡久が口を開く。
たったひと瓶でも人の手に渡れば、効力を知った他の人々が此処へ押し寄せるかも知れない。そうなれば土地を掘り起こしもう枯渇しかかっている聖水の取り合いが始まるだろう。
それに聖水の効力は人には強すぎる。決して人の手に渡してはならない。だから紡久がここで長年、守り続けてきたのだ。
「聖水が欲しくないわけではありません。でも事情を知れば持ち出そうとも思いません。紡久さんの敵にはなりたくない」
敵、という言葉に紡久は信大の瞳の奥を見る。本当にこの男は、と紡久は口角を上げて目を閉じた。
信大は嘘のつけない男だ。だから彼がこうだと言ったら無条件で信じられる。もし嘘をついていれば、覗き込んだ視線を真っ向から見返すことの出来ない不器用な奴なのだ。
一体、何に怒っていたのだろうか。信大は初めから紡久の味方だったと後になって気が付く。紡久が聞かないからとただ黙っている事の出来ない信大がかわいらしい。
もうその気がないのに実は万能薬を求めていたと告白する、その意味を考えた時、自分よりもずっとずっと年下の男の子が愛おしくなってしまった。
「さて、飲み直すか」
「あれ、もう怒ってないんですか?」
紡久の明るい表情を見てもまだ怒っていると感じていたらしい信大が可笑しい。このまま怒った振りを続けたら信大はどんな反応をするだろうか。困った姿も喜ぶ姿も怒った姿も、どんな姿でも見せて欲しい。
ひとまず信大は「出て行かない」と言っている。ならばもう暫くの間は、信大との楽しい生活を続けられそうだ。




