第2話:長浜の記憶と、幾夜の手習い
信州高井野の凍てつく夜。囲炉裏の炭が爆ぜる音を聞きながら、老いた正則の筆は白紙の上を滑っていた。
正則の書く文字は、太く力強い毛筆でありながら、どこか流麗で気品が漂う。かつて正則の書状を見た諸大名や公家たちが「武骨な猪武者の書とは到底思えぬ」と息をのんだ見事な達筆である。
「……フン」
正則は自慢の文字を眺め、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
この見事な文字の「骨組み」を正則の手に叩き込んだ男の顔が、嫌でも脳裏に浮かんでくるからだ。
石田治部少輔三成——まだ二人とも14、5の小僧で、長浜城主となった羽柴秀吉様に小姓として仕えていた頃のことである。
◇
当時の三成は「佐吉」、正則は「市松」と呼ばれていた。
近江・観音寺の寺小僧だった佐吉が秀吉様に召し抱えられた経緯は、小姓たちの間でも有名な噂話となっていた。
鷹狩りの帰りに喉を乾かせた秀吉様に、まずはぬるい茶を大きめの茶碗で出し、次に少し熱い茶、最後に小さな茶碗で熱々の茶を出して見事にお眼鏡にかなったという、いわゆる「三献茶」の逸話である。
(ただの寺の小僧が、如才なく茶の温度を変えて取り入っただけだ。小賢しいやつめ)
当時、腕っぷしだけが自慢の市松は、そんな佐吉を「帳面弾きの腰抜け」とせせら笑っていた。
だが、佐吉という男の異質さは、そんな表面的な気配りにとどまるものではなかった。
ある時、長浜の蔵から出入りくする米や薪の勘定で、ベテランの吏僚たちが何日も頭を抱えていたことがあった。
そこへ通りかかった佐吉は、帳面をパラパラと一通り繰っただけで、そろばんも使わずに一瞬で正確な算段を弾き出し、吏僚たちを腰を抜かさせた。
またある時、他の小姓たちが秀吉様から「欲しいものは何だ」と問われ、こぞって有名な鍛冶の刀や派手な槍をねだった中、佐吉だけは平然と言い放った。
「私に刀は不要にございます。その代わりに、米蔵の管理と、街道の通行関所の検帳権を賜りたく存じます」
市松は呆れ返ったものだ。武士の端組みとして召し抱えられたというのに、刀を欲しがらず米や帳面ばかりを求めるなど、どこまでいっても寺の腰抜け小僧ではないか、と。
——だが、その夜のことである。
昼間、他の小姓たちから「市松の書く字は図体がでかい割にミミズがのたくったようで読めぬ」と嘲笑われ、悔しさで夜の部屋で一人、手習い(字の練習)をしていた市松のもとへ、佐吉がそっと足音を忍ばせてやってきた。
『何しに来た、佐吉! 俺の字を笑いに来たのか!』
噛みつく市松に対し、佐吉はいつもの澄ました顔で首を振った。
『笑いになど来ぬ。……市松、お前は将来、我が家中を支える大名になる男だ。武功を立てて天下に名を馳せても、書いた書状が拙ければ、公家や他国の大名に足元を見られる。お前が恥をかかぬよう、字の手習いをつけてやろうと思ってな』
『ふん、余計なお世話だ! お前の書く字なんぞ、まるでお経か帳面みたいで面白くも何ともねえんだよ!』
実際、佐吉の書く字は寺育ちゆえに整ってはいたが、一画一画が幾何学のように正確で、感情や面白みの欠けた「実務の字」であった。誤読を許さぬ几帳面さがそのまま形になったような文字だ。
佐吉は淡々と筆を握り直すと、市松の手を上から包み込むようにして手本を示した。
『これで良いのだ。書状とは情を誇示するものではなく、意を違わずに伝えるための道具に過ぎぬ。……だが市松、お前は体も大きく、器もでかい。お前にはお前にしか書けぬ字がある。俺の字を真似るな。お前のその体躯に負けぬ、骨太で力強い文字を書け。止めるべきところを鋭く止めれば、お前の勢いはそのまま品格に変わる』
佐吉は嫌な顔ひとつせず、市松の手が痛くなるまで幾夜も幾夜も、根気強く筆の手ほどきを続けた。
当時の市松は「小賢しいやつめ、自分ができるからと上から目線で教えてやりたかっただけだろう」と突っぱねつつ、悔しさから佐吉の教え通りに必死で筆を滑らせたものだった。
◇
「……あ奴め」
高井野の雪夜、正則は自慢の達筆で書き上げられた自分の文字を見つめながら、ぽつりと呟いた。
老境に至った今だからこそ、当時の佐吉の「おそろしさ」が骨身に沁みて理解できる。
三献茶の際、佐吉が見ていたのは単なる秀吉様の喉の乾きではない。主君が次に何を考え、どう動こうとしているかという大局そのものだ。
米や帳面を求めたのは、武士の誇りを捨てたからではない。個人の槍働きなど天下の動乱の前には微々たるものであり、いずれ訪れる巨大な戦を動かすのは「兵糧と物流」であるという戦いを、14歳にして悟っていたからだ。
そして——手習い。
佐吉は14歳の時点で、織田家の一武将に過ぎなかった秀吉様が「天下人」となり、自分や市松がその下で「天下を分かつ大名」へと登り詰める未来を、何ひとつ疑わずに見据えていたのだ。
だからこそ、未来の大名である市松が公家の前で恥をかかぬよう、豊臣の威厳を損なわぬよう、夜を徹して手習いをつけた。
(14の時から……全てが見えていたというのか、佐吉……)
己の流麗なる文字の奥に潜む、三成の恐るべき先見の明。
正則は寒気にも似た身震いを覚えながら、次の紙を広げた。
小姓時代を過ぎ、織田家を揺るがすあの大事件と、二人で血道を駆け抜けたあの日——天正十年、本能寺の変と中国大返しの夜へと、思いを馳せながら。
(第3話へ続く)




