3話 動画サイトの達人は、だいたい嘘をつく(偏見)
一投目から尺アジという衝撃的なスタートを切った後も、俺の快進撃は止まらなかった。
この万能釣り道具のカバンには、何かしら魚を引き寄せる魔力でもあるのか、それともこの湖の魚たちが警戒心がないだけなのか。
さらに数時間ほど粘ると、追加で3匹の釣果を上げることができた。
そのうち2匹は、一匹目と同様に丸々と太った銀色のアジだった。淡水の湖でアジが連発する。もはや常識を疑うのも馬鹿らしくなり、俺はそれを受け入れることにした。
だが、最後に釣り上げた一匹だけは、明らかに毛色が違っていた。
「問題はこいつだな」
フィッシンググリップで掴み上げたその魚は、体長40センチほど。形はイワナやトラウトに近いが、鱗の一枚一枚がオパールのように七色の光を放っている。側線には小さなトゲはなく、代わりに滑らかな粘膜に覆われていた。
元の世界では見たこともない、おそらくはこの世界特有の在来種だろう。
暴れるたびに宝石が跳ねているような美しさがあったが、俺の胃袋は「これも美味そうだ」と非情なジャッジを下していた。
楽しい時間は、文字通り光の速さで過ぎ去っていく。
気がつくと、サファイア色だった湖面は、オレンジと紫が混ざり合った、どこか不気味で幻想的な色に包まれていた。
釣り人にとって、この夕マズメこそが本番であり、最も熱いゴールデンタイムだ。水中では魚たちの捕食スイッチが入りだす。
本来なら、ここでルアーを投げないという選択肢はない。だが。
「そろそろ、潮時か」
俺は未練がましく湖面を見つめながらも、ロッドを置いた。
周囲を見渡せば、人影ひとつない大草原。どこに村があるかも、どの方向に進めばいいかもわからない。今夜はおそらく、ここで野宿することになるだろう。
夜になればここは一気に暗くなりに気温も下がるはずだ。そうなってからでは遅い。
「魚は確保した。次は、火と、寝床だな」
さて、ここからが問題だ。
俺はプロの冒険家でもなければ、特殊部隊出身のサバイバリストでもない。ただの釣り好きの、ごく平凡な二十八歳だ。
一応、文明の利器があればキャンプくらいはこなせるが、今手元にあるのは釣具が入ったカバンだけ。ライターもマッチも、ガスコンロもない。
俺はとりあえず、周囲に落ちている枝や枯れ草をかき集めた。
そして、脳内にある薄い知識の引き出しを片っ端から開けていく。
「確か、動画サイトで見たあの番組では……こう、木の棒を板に押し当てて、勢いよく回してたよな」
サバイバルドキュメンタリー番組で、上半身裸の筋骨隆々な男が「火は、命だ」とか言いながら、数分で煙を上げていたあの光景。あれなら、今の俺にもできる気がした。
俺は平らな木を土台にし、その上に真っ直ぐな枝を立てた。
両手の手のひらで枝を挟み、祈るような気持ちで勢いよく回転させる。
グリ、グリ、グリグリッ!
「ふんっ、ぬぅぅ……!」
数分後。
俺の額からは大粒の汗が滴り、手のひらは摩擦で真っ赤に腫れ上がっていた。
肝心の木からは、煙どころか温もりすら感じられない。それどころか、必死に回転させていた枝が、ポキリと無情な音を立てて折れた。
「……無理だろ、これ。あいつら、絶対あとでライター使ってるって」
文明の恩恵を失った現代人の無力さを、これほど痛感したことはない。
動画の中の男はあんなに簡単そうにやっていたのに。現実は、ただ手が痛くなるだけで、1ミリの火種も生まれない。
湖には少しずつ冷たい夜風が吹き込み始めていた。
「刺身で食えなくもないけど……この世界の寄生虫とか怖すぎるしな……」
太陽の縁が山の向こう側に隠れ、急速に色彩が失われていく。
暗闇への恐怖と、空腹。そして、火を起こせない情けなさ。
俺は折れた枝を放り出し、溜息をつきながらもう一度、あのカバンを見つめた。
「このカバン、釣具だけじゃなくて調理セットとか入ってたりしないか?」
淡い期待を込めて、俺は再びカバンの奥底へと腕を突っ込んだ。
だが、カバンを何度かかき回してみたが、ライターやマッチのような火をつける道具は一切ない。
「まぁ、予想通りだけど」
期待した俺が馬鹿だった。このカバンは最高のフィッシングギアを供給してくれるが、キャンプ用品店ではないのだ。
無情にも太陽は完全に姿を消し、世界は深い藍色に飲み込まれていく。湖畔の気温は急激に下がり、湿り気を帯びた風が、汗ばんだ背中を容赦なく冷やした。
その時だった。
背後の原生林から、小枝が踏み折られる低い音が響いた。
カサリ、という乾いた音ではない。ベチャリと、濡れた肉塊が地面を叩くような、嫌な重量感のある音だ。
「……っ!」
俺は反射的に振り返った。
暗闇に慣れ始めた視界の先に、二つの赤い点が浮かんでいる。それはランタンの灯りなどではない。獲物を凝視し、殺意を漲らせた生物の眼光だ。
グルルルル……。
地響きのような唸り声とともに、そいつはゆっくりと姿を現した。
体長は優に三メートルを超えるだろうか。熊のような巨躯に、狼のような鋭い顔。全身を覆う漆黒の体毛は、夜の闇に溶け込み、剥き出しになった四本の牙だけが、薄い月光を反射して白く不気味に光っている。
「魔物……だよな、どう見ても」
そいつは鼻面をヒクつかせ、人間の匂を嗅ぎ取ったようにゆっくりとこちらにつかずいてくる。
魔物が前脚を大きく踏み出した。地面の土がえぐれ、凄まじい圧迫感が押し寄せる。
逃げ場はない。背後は深い湖だ。
手元にあるのは、さっきまで尺アジを釣り上げて喜んでいた、しなやかなロッド一本。
「嘘だろ。せっかく、一投目からアジを釣って……これから美味いもん食って、異世界満喫するはずだったのに」
魔物が大きく口を開いた。腐肉の混じったような、鼻を突く猛獣の体臭が風に乗って漂う。
そいつがバネのように身体を撓らせ、俺の喉元を目掛けて跳躍した。
終わった。
俺は反射的に腕で顔を覆い、固く目を閉じた。
その瞬間。
「ハァッ!!」
鼓膜を震わせるほど鋭く、凛とした声が夜の静寂を切り裂いた。
直後、爆風のような衝撃波が俺のすぐ横を通り過ぎる。
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃音とともに、魔物の断末魔が響き渡った。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
さっきまで俺を食い殺そうとしていた巨体が、上半身を袈裟に切られ血を流し、ピクリとも動かずに横たわっている。
そして俺の目の前には、一人の少女が立っていた。
暗闇の中でもはっきりと分かる、輝くような軽装鎧。その手には、淡い青光を放つ美しい長剣が握られている。
彼女は鋭い残心を解くと、ゆっくりとこちらを振り返った。
「怪我はありませんか?」
夕闇に残る微かな光に照らされたその瞳は、湖面よりも深く、気高い光を宿していた。
それが、俺と、勇者・ルフィリアとの、最初の出会いだった




