2話 異世界最初の獲物が、あまりに馴染み深い件
バスロッド:ブラックバス釣りに特化した竿
スピニングリール:リールの一種。リールと聞いて形を想像してみてください。それです。
リーダー:道糸の先端に結びつける、予備の糸のこと。岩や魚の歯で糸が切れるのを防いだり、魚に糸の 存在を気づかせにくくしたりする役割があります。
PE:ポリエチレン製の細い糸を編み込んで作られた道糸のことです。リールにメインでまかれてる糸です。
ジグヘッド:オモリと針が一体化した仕掛けのことです。
ワーム:柔らかい素材で作られた疑似餌。小魚、エビ、ミミズなどを模した形があります。本作では無難に小魚を模してます。
着底:疑似餌が底につくことを言います。
ボトム:湖や海の底の事です。
尺アジ:30cm以上のアジのことを尺アジと言います。
ドラグ:強い力で引っ張られた時に、糸が切れないよう適度に糸を送り出すブレーキ機構
先ほどの場所から10分ほど歩くと目的地に着いた。
視界が開けた瞬間、思わず息を呑む。目の前に広がるのは、巨大なサファイアを溶かし込んだかのような、広大な湖だった。
水面は鏡のように静まり返り、澄み渡る空の青を、一分の狂いもなく鮮やかに映し出している。対岸の山々は深く濃い緑に覆われ、時折吹き抜ける風が、草原をサワサワと揺らす。遠くでポチャンという小気味よい水音が響いた。その波紋がゆっくりと広がっていく様子を眺めているだけで、心が洗われるようだった。
「風も全然ないし、最高じゃないか」
俺の心臓が、パッケージから出したばかりの新作ルアーを試す直前のような、独特の高鳴りを始める。
波打ち際まで駆け寄ると、水は驚くほど澄んでいた。元の世界の湖とは透明度がまるで違う。不純物のないクリスタルのようで、足元の砂利のひと粒ひと粒までがはっきりと見えた。そこには、爪の先ほどの小さな稚魚の群れが、日の光を反射させてキラキラと宝石のように泳いでいる。生命の気配が濃い。
「これなら、ボウズってことはなさそうだな」
俺は湖に突き出た、足場の良さそうな平らな岩を見つけた。
水底を覗き込むと、そこは岸から数メートル先で水深が急に落ち込んでいる。いわゆる駆け上がりだ。深場から餌を求めて魚たちが回遊してくる、いわば一等地の交差点のようなポイントに見えた。
俺は岩場にどっかと腰を下ろし、期待に指先を震わせながら、あのおっさんからもらった万能釣り道具のカバンに手を伸ばした。
「さて……どのロッドで行くか」
元の世界での経験上、これだけ広い湖でのルアー釣りといえば、まずはバスロッドが選択肢に挙がる。適度な張りとパワーがあり、様々な重さのルアーを正確に操るのに適しているからだ。
「いや、なしだな。バス釣りなんてやったことねぇし」
誤解のないように言っておくが、バス釣りが嫌いなわけではない。ただ、俺の釣り哲学は極めてシンプルだ。
『釣ったら、美味しく食う』
これに尽きる。
元の世界でブラックバスは、キャッチ&リリースが基本のゲームフィッシュだ。食えない魚を釣るために、わざわざ専用の道具を揃える気にはなれなかった。約二十年間、俺が釣ってきたのは、すべて最後には俺の胃袋に収まる義務を果たしてくれる魚たちだけだ。
「まぁ、こんだけ透明度の高い湖にいるバスなら、一度くらいは食べてみたい気もするけどな、いるかどうか知らんけど」
そんな独り言をこぼしながら、俺は直感に従った。
「てことで、お前で行こう」
カバンから引き抜いたのは、2メートルほどの長さで、しなやかに曲がるライトなルアーロッドだった。バスロッドのような硬さはないが、その分、魚が餌を突つく繊細な感触がダイレクトに手元へ伝わる。小さな魚でも、その引きを存分に楽しめる相棒だ。
続いて、このロッドに合う小ぶりのスピニングリールをイメージして引き抜く。
驚いたことに、そのリールにはすでにラインが完璧な加減で巻かれていた。
「これ、PEの1号くらいか……? リーダーも最初から結束してあるな」
指先でラインを軽くしごいてみる。
PEライン1号。ルアーフィッシングにおいては、シーバスや中型の青物まで狙える、もっとも汎用性の高い太さだ。しかも、傷一つない新品のライン。
どうやらこのカバン、単に道具を出すだけじゃなく、釣り場に立ってすぐにキャストできる即戦力の状態で提供してくれるらしい。あのおっさん、見た目に似合わず細かい気遣いができるタイプだったようだ。
「至れり尽くせりだな。感謝するぜ、おっさん」
本来ならラインを選ぶ楽しみもあるが、今は一刻も早く糸を垂らしたい。
俺は手早くラインをガイドに通していく。異世界の魚がどんな生態をしているかは不明だが、いきなりモンスター級が来ても困る。まずは様子見だ。
俺が選んだのは、15グラムのジグヘッドに、小魚を模したピンテール系のワーム。色は鮮やかなピンクだ。この色は、水が澄んでいる場所では魚の視覚を強烈に刺激する、俺の鉄板カラーだった。
準備万端。
俺は岩場にしっかりと足を踏ん張り、ロッドを背後に大きく振りかぶった。
水面の反射、風の向き、駆け上がりの位置。すべてを計算に入れ、手首のスナップを利かせて一気に前へと振り抜く。
シュッ!
風を切り裂く心地よい音とともに、ピンク色のワームは綺麗な放物線を描き、静まり返った湖面へと吸い込まれていった。
ポチャン。
静寂を破る小さな着水音。
俺はリールのベールを返し、ラインの動きを注視する。ワームが水深のある底へと沈んでいく間、余分な糸が水面にたゆたう。この間も気が抜けない。
1、2、3……。
心の中でカウントを刻む。
やがて、ピンと張っていたラインが、ふわりと弛んだ。
「着底したな」
そこは、元の世界の湖よりも少し深い感覚があった。十五メートル、いや二十メートル近くはあるだろうか。俺はゆっくりと、感触を確かめるようにリールのハンドルを回し始めた。
コツ、コツ……。
感度の高いPEラインを通じて、ボトムの質感が指先に伝わってくる。泥のネチャッとした感触ではない。少し硬い砂地か、細かな砂利だろう。針が岩にスタックするような不快な感触もない。これなら根掛かりを恐れず攻められる。
ハンドルを数回転させ、ロッドの先をチョンチョンと煽ってワームを跳ねさせる。
底で砂煙を上げ、傷ついた小魚が必死に逃げ惑う様子を演出する。
もう一度跳ねさせ、ふっと力を抜いて数秒の静止――その瞬間だった。
ゴッ、ガツン!
「っ……きた!」
手首をひったくられるような、強烈な衝撃。
俺は反射的にロッドを天高く仰ぎ、合わせを入れた。
グンッ!
ロッドが綺麗な弧を描き、確かな生命の躍動がラインを通じて右腕に飛び込んできた。
重い。それでいて、小刻みに首を振るような鋭い引き。いい手応えだ。
「おいおい、一投目からこれかよ……最高か!」
ジリリッ、とリールのドラグが鳴り、ラインが勢いよく引き出される。
相手はかなりの力持ちだ。だが、不思議なことに不安はなかった。この釣り道具のせいだろうか、握る手に力が漲り、魚の強烈な突っ込みを余裕を持って受け止められる。
魚の走りに合わせてロッドを寝かせ、いなし、じわりじわりとリールを巻いて距離を詰めていく。
水面下にギラリと銀色の何かが光る。この、相手の姿が見えるまでの数分間こそが、釣り人にとって最も胃が痛く、そして最も幸福な時間だ。
「さあ、見せてくれ。お前は何者だ?」
やがて、水面に激しい飛沫が上がった。
バシャバシャと抵抗するエラ洗いを慎重にいなし、最後の一寄せ。
俺はすかさずフィッシンググリップを手に取り、魚の口をガッチリとホールドした。
「なんで、こいつが?」
岩場に引き揚げた獲物を見て、俺は硬直した。
そこに横たわっていたのは、三十センチは優に超える、見事な銀色の魚だった。
側線に沿って並ぶ、ノコギリのような鋭い鱗――『ぜいご』。
大きく潤んだ瞳と、シュッとしたスマートなフォルム。どこからどう見ても、日本の釣り人なら誰でも知っているあいつだ。
「アジ……だよな、どう見ても。しかも尺アジ、特大サイズだぞ」
混乱が頭を支配する。ここは、広大な淡水の湖のはずだ。
それなのに、俺の手の中にあるのは、紛れもなく海水魚の代表格であるアジだった。
生態系も物理法則も、全部無視かよ。神様が作った万能釣り道具のカバンから出した道具なら、釣れる魚の理屈まで書き換えてるってことか?
呆れ半分、驚き半分。
だが、その魚体の瑞々しさと、健康そうに盛り上がった背中の厚みを見た瞬間、俺の胃袋がギュウと鳴った。
「まぁいいか。食える魚なら、文句はないし。むしろ最高のご馳走だ」
俺は満足げに鼻を鳴らし、異世界最初の獲物を万能カバンの冷たい奥底へと放り込んだ。
今夜の夕食は、アジの塩焼きか、それとも豪華に刺身か。あるいはなめろうか。
香ばしく焼ける皮の匂いや、口の中でとろける脂を想像するだけで、見知らぬ異世界の草原が、急に我が家のように愛おしく思えてきた。
俺は再びワームのズレを直し、次なる獲物を求めて、湖面へと視線を投げた。




